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日本流の革命・・・補足

2007年12月07日 10時26分27秒 | 独り言・社会・ニュース

12月2日付けの当ブログで「日本の革命」について「信長の比叡山焼き討ち」「太閤検地」革命の一種について述べましたが、今一度この事について補足したいと思います。

革命といえば庶民から時の権力者に対して、暴動を起こして転覆を図ると言うことだけではないのです。

  
    比叡山 根本中堂          
 織田信長

織田信長の比叡山焼き討ちによって、今までは危険な武装集団だった仏教団体の牙を抜き、おとなしい宗教集団に改造したのは、大きな宗教革命だったのです。
武力革命であったので犠牲は伴いますが、200万人を惨殺したフランス革命に比べれば、少ない犠牲者で済んだと言っていいのではないでしょうか?

この革命によって日本人は不条理きわまる重苦しい宗教勢力から開放され、中世から近世へ近づいたのです。

         教科書に載っている太閤検地図

「太閤検地」については、農民を苦しめる悪政としか認識していない人が多いのではないでしょうか?
ただの土地台帳の作成ではなく、全国の土地を石高という単位で統一したものなのです。
つまり、曲尺(かねじゃく)の6尺3寸を1間に、1間四方を1歩(1坪)、1町を10反、100敏、3000歩に定めました。(明治になって1間を6尺に)
律令制下では所有権は国家
だったものが、平安時代には、壮園という貴族達の私有地が出来、当然壮園には、土地台帳もなくどれだけの壮園があったのかも分からなかったのです。

結果として壮園制度を完全に破棄し、「一地一作人」といって、その土地の所有者をただ一人の耕作権を認め、小規模農家が自立できるようにする上からの農地改革だったのです。
農民出身の秀吉は、同じ土地を自作農として利用出来れば、生産性が上がることを承知していたに違いありません。
しかし、後の江戸時代には、農民はその土地に縛られ、小作人が増えたのも事実です。

信長にしても、秀吉にしても「人民のために」したという意識はなかったのです
権力を拡大するのが目的だったとしても、結果として彼らは民意を汲み、いわば人民のために革命を起こしたということになるのです。