
東京国立博物館「法隆寺宝物館」に展示されている白檀・栴檀2点の香木って、どんなだろうと探しに探して見つけた画像です。
この画像ではよくわかりませんが、
白檀表面にはいくつかの墨書があり、そのなかの「字五年」は天平宝字五年(761年)と解釈されるので、この年以前に日本に舶載のあと、他の正倉院宝物と同じ頃法隆寺の所有となったと考えられています。
法隆寺に伝来した宝物300点を超える品々が皇室に献納されたのは1878年のこと。見返りに金1万円が下賜されたが、今の数億円に匹敵する莫大な金額であったそうだ。
献納宝物の中には、聖徳太子ゆかりの品を含む法隆寺にとってかけがえのない品が多数含まれていて、ほとんどは飛鳥・奈良時代のものです。
第二次大戦後、皇室財産であった正倉院御物と法隆寺献納御物は国有化されることとなり、博物館に保管されています。
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ユーラシアの東の端・日本の法隆寺の香木。
一方、西の端ベルギーのノートルダム寺院では不思議な文字の書かれた7世紀の絹が発見されたそうです。
これも検索しましたが、フランダースの犬のネロとパトラッシュが天に召された教会としかわからなかった。
不思議な文字は、研究の結果、ソグド人のものであることがわかりました。
香木いずれも長さ約60cmで20cmほどにわたる刻銘があり、その端近くに焼印。
刻銘、焼印ともに漢字以外の文字であり、長い間その意味は謎とされてきました。
現在では、刻銘の文字はサーサン朝ペルシャ時代に使われた中期ペルシャ語のパフラヴィー文字で、銘の内容は「ボーフトーイ」(bwtwdy)という人名か香木のメーカー名。
焼印の文字はソグド文字の「ニームnym」と「スィールsyr」で、「2分の1シール(重さおよび貨幣の単位)」のことだった。
またその焼印には大きな十字架のマークがあるらしい。
ちなみにパフラビー文字とソグド文字の焼印はともにヘブル語から変化したアラム語です。
輸送の際、木材に荷主を判別するため押印をすることは古今東西広く行われていて、法隆寺の白檀二点の焼印・刻印がソグド語とパフラヴィー語であったことは、その流通・輸送にイラン(ペルシャ)系商人が深く介在したことを示しています。
白檀の原産地である東南アジアから積み出され、中国の広州や揚州などの市場を経て、最終的に法隆寺に納められたと考えられます。
7・8世紀中国の文献史料からは、「波斯人」イラン(ペルシャ)系商人が「波斯船」に乗って中東からインド、東南アジアそして中国にかけての広範囲で交易活動を展開していたことが伺い知れます。
楼蘭の遺跡で313年に洛陽から出された手紙が見つかった。
約100万人いた洛陽の人口が異民族侵入で激減、
「ソグド人の商業ルートが破壊されたので対策を考えなければならない」ということが書かれていた。
法顕(337-422)はインドからセイロンを経て山東半島へ海のルートで帰ってきたが、そのルートでもソグド人に関係のあるものが出土している。
シルクロードの交易を1000年にわたって担いながら、その後忽然と姿を消した謎の民・ソグド人の存在が近年明らかになってきました
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古代日本の姓・氏系譜書である「新撰姓氏録」815年には、
「以前から日本に住んでいた人々」、「新しく日本に来た人々」という区分がされていただけで、自由に移民を受け入れていたのが当時の認識でした。
初期の景教徒たちは、もともとアッシリアから東方世界に広まり、西アジア、中央アジアの多くの国々は早くからキリスト教国となっていました。
景教徒たちが西には行かず東へ東へと来たのは、
ヨーロッパでは、宗教的弾圧と迫害が厳しかったからです。
遠く中央アジアから来た人々は、朝鮮半島の出身ではなく、百済は通過地、経由地に過ぎませんでした。
自由と安住の地として、日本へ行くことを夢見ていたのです。
「日本にさえたどり着けば、もう誰も追いかけてはこない」
そのようにして多くの人々が世界の東の果て日本にやってきました。
「和をもって尊しと為す」はそのような意味からも理解できます。