秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

閉業のお知らせ

質店は2021年8月に閉店いたしました。 昭和21年9月創業で75年間にわたりご愛顧賜りありがとうございました。

弥勒菩薩と如意輪観音

2009-04-22 | 古代史のミステリー

これは月うさぎの土鈴、中宮寺の天寿国月兎鈴です。
聖徳太子の死を悲しみ、妃の橘大郎女が采女らに刺繍させたと言われる「天寿国曼荼羅繍帳」わが国最古の刺繍、その左上の図案の一つです。

 

拝観のしおりには、中宮寺新金堂と月うさぎ像の写真が載っています。
半跏思惟像は国宝だし、教科書にも載ってるぐらいで超有名、なのに写真はない。

三つ折りを開くと、中宮寺の沿革、新本堂、本尊如意輪観世音菩薩半跏像というタイトルで説明文があるだけ。

なぜ半跏思惟像の写真を載せないのでしょうね。
造られた時は弥勒菩薩として造られたし、ほとんどの人は中宮寺弥勒菩薩として記憶に残っていると思われます。

中宮寺の寺伝には、
「聖徳太子さまが御母のお姿をこのお像にうつされたもの。
このお像は来生の救い主みろく菩薩でなく、現世の苦悩を救済される、如意輪観音菩薩像でございます。」

平安時代になると寺運衰退し、宝物の大半は法隆寺に移され、僅かに草堂一宇と本尊を残すまでになった、と記されています。
世間に如意輪観音信仰が広まった平安時代には、寺が衰退していた。
この像が作られた飛鳥時代は弥勒信仰の時代だった。

 
左・中宮寺の如意輪観音と、右・広隆寺の弥勒菩薩像。
どうみても同じタイプで、違いがわからない。

弥勒菩薩半跏思惟像は、6世紀から7世紀に大陸より弥勒信仰と共に伝えられ、飛鳥、奈良時代の作品が多く残されています。

大阪府羽曳野市にある野中寺(やちゅうじ)で、毎月18日に公開される秘仏「弥勒菩薩半跏像(重文)
     
本像台座の框(かまち)部分の銘から「弥勒菩薩像」であること、「丙寅年(666年)」に作られたことが判明している貴重なものです。
半跏の姿勢は同じですけど、表情がだいぶ異なりますね。

野中寺は聖徳太子が建立した48寺院の一つとされ、開基は蘇我馬子と伝えられています。


弥勒菩薩は、未来の救済仏です。
56億7千万後の未来に下界に降って仏となり衆生を救ってくださるそうです。
釈迦入滅後567,000千万後、これは科学的に見ると太陽系の余命とほぼ一致するんだって!
 
弥勒菩薩のご真言の「おん まいたれいや そわか」
『まいたれいや』はサンスクリット語の「マイトレーヤMaitreya」
でも「弥勒ミクロ」はインドのクシャン朝の貨幣に現れる「ミイロMiiro」が語源だと考えられているそうだ。
 
西アジア・イランの太陽神で崇められた「ミスラMithra」がクシャン朝ではバクトリア語形の「ミイロ」
それが仏教に取り入れられ、菩薩として信仰され、その救世主的性格はここに由来します。

西暦400年ごろ法顕はパミール山中で巨大な木造の弥勒像を目撃したことを旅行記に記していますし、敦煌や朝鮮でみられる弥勒の交脚像、思惟像はすでにガンダーラに祖型があります。 
     
ウズベキスタン旅行記でクシャン朝の三尊仏でも書きましたが、インド洋から海路でもたらされたものがたくさんあるようです。

次は法隆寺に伝来した白檀香木について書きます。