秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
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富士山はなぜフジサンか

2011-02-26 | 古代史のミステリー
バス車中よりみて、この神社前の国道を通っただけで、何か感じた神社は
富士吉田市にある北口本宮富士浅間神社でした。
個人旅行なら絶対立ち寄ってたし、次いつかこの辺りに行く機会があれば必ずお参りしたいです。

日本武尊が東征の折に「富士は北側から登るのが良い」
と、富士吉田に自ら鳥居と祠を建てたのが由緒とされるそうです。

神楽舞は一名岩戸神楽とも呼ばれ無形文化財に指定されています。
現在伊勢・熱田に伝わるものを含めて三神楽のひとつって、歴史ありそうですね。
武田信玄が川中島合戦の勝利を祈念して再建したゆかりの神社でもありました。

国道沿いの鳥居、画像検索でもらってきました。


北口本宮社の真裏から富士登山道が始まり、
冨士のお山開きは神社の鳥居に張られた注連縄を切らなければ始まらず、
またお山じまいの火祭りは神社の秋祭りであるというように
富士山と北口本宮冨士浅間神社とは深く強いもので結ばれています。

江戸時代に盛んとなった山岳信仰「富士講」でたいそうにぎわうようになったようです。

一方、静岡県小山町には相模国からの玄関として東口本宮富士浅間神社があります。
富士浅間の総本宮は、静岡県富士宮市にある富士山本宮浅間神社です。
全国で千以上に及ぶ浅間神社の総本社です。
 

富士浅間神社というのは元々は登山信仰では無く
「浅間大神」=「荒ぶる神」とされ、荒ぶる山の神の怒りを鎮める、
活火山の噴火を鎮める祈願として建てられました。

富士山の神を祀るのが「富士神社」でなく、「浅間神社」となっているのは
浅間神社は浅間大神(あさまのおおかみ)という火山の神を祀る神社だから。

「あさま」とは、アイヌ語で火を噴く燃える岩を意味し、
阿蘇山も「あそやま」で、もとは「あさま」だったという説もあります。

富士山は、1083年から1511年までの400年以上噴火のない休止状態が続きました。
火を噴かない富士のお山は美しく荘厳です。

室町時代には修験者による富士登山が盛んになりました。
江戸時代中期、富士講へと発展していき
各地では浅間神社が祀られ、富士塚などをつくって登るなど独特の信仰も生まれました。

荒ぶる神はなりを潜めて、浅間大神は浅間大菩薩と同じとなり
その菩薩は木花開耶姫(このはなさくやひめ)だと富士信仰の中心が変遷していったらしい。
しかしその背後に富士の根源の神様が存在していることを忘れてはいけないと思います。

神話では、木花咲耶姫は火を放った産屋で3柱の子を産みました。
火の中での出産から火の神として富士山に祀られています。
しかし、富士山本宮浅間大社では「水の神として富士山の噴火を鎮めるために祀られた」とされている。
このあたりの神話伝承由緒などは、検索すればいっぱい出てきますからそちらでお読みください。

   

山部赤人の有名な富士山の歌
「田子の浦ゆうち出でて見ればま白にぞ不尽の高嶺に雪は降りける」
万葉集では富士山は「不尽」と表わされています。
一説に煙が尽きないことを意味しているという。

古今集にある富士山を詠んだ歌のすべてはいずれも、
この山を、煙を上げている活火山と認識して歌っていることが知られています。

実際残っている記録によれば、
800~1083年までの間には12回の噴火記録があります。

延暦の噴火(800~802年)
坂上田村麻呂が活躍し、最澄が比叡山に延暦寺を建てて活動した時期
足柄路が降り積もった堆積物で塞がれて、箱根路へと東海道の道筋が変わってしまった。
忍野八海ができたきっかけはこの噴火だと書かれてありました。

貞観の噴火(864~865年)
青木が原樹海をつくった噴火です。
貞観の大噴火は激しい揺れと轟音を伴い、人々を恐怖のどん底に陥れました。
当時の朝廷は「これは祭礼の怠慢のため神明がたたりを発したのだ」と警告を発し、
すぐさま神の怒りを鎮めるための神社をたてるように命じたのが、浅間神社なのでした。

相次いで創建された浅間神社は富士山を取り囲むように放射状に配置され、
富士山の霊力を封じ込めるためと言われています。
その後1083年から1511年までは400年以上も噴火の記録がありません。

江戸時代では宝永大噴火(1707年)が有名です。
この噴火は日本最大級の地震である宝永地震の49日後に始まり、
江戸市中まで大量の火山灰を降下させ、川崎では5cm積もりました。
現在進行形の新燃岳で心配されている土石流ですが、宝永大噴火では大きな土砂災害があったようです。

これ以降約300年間噴火しておらず平穏な状態が続いています。
300年の眠りから覚めて、いつ噴火が起きてもおかしくない富士山。


フジサンは古くは、不尽・不自・不二・布士などとも書かれていました。
これは漢字到来以前から、この山が「ふじ」と呼ばれていたことを物語るそうです。
常陸国風土記では、富士山は「福慈岳」と表わされています。

國學院大學・デジタルミュージアムより
常陸国風土記「筑波郡」の条には、「駿河国福慈岳(ふじのやま)」(富士山)と「常陸国筑波岳(つくはのやま)」(筑波山)をめぐっての有名な伝承が記し留められている。
神祖(みおや)の尊が日暮れに福慈の岳を訪れて一夜の宿りを請うた時、福慈の岳は新粟(わせ)の「初嘗(にひなへ)」中であることを理由に、宿泊を断り、一方、筑波の岳は「新粟嘗(にひなへ)」中であるにも関わらず、神祖の尊を歓待した、その結果、筑波の岳は今にいたるまで大いに栄えているという話しである。

そして、その後こう続くようです。
「福慈岳はこの先ずっと冬も夏も雪や霜が降って、寒さが厳しく、人は登らず、食物も献じないであろう」と呪いの言葉を述べられた。


元明天皇のとき、
武蔵野国秩父郡から和銅(精錬を要しない自然銅)が献上されたことを瑞祥として和銅元年(708年)と改元
和銅五年(712)太安万侶が『古事記』を撰上
その翌年、行政地名の表記の改正と地誌である『風土記」の撰進を命じた。

「畿内と七道との諸国の郡・郷の名には好い字を付けよ、
郡内に産する鉱物資源・植物・動物類の種類を記録し、土地の肥沃の程度、地名の由来、古老の伝える古伝承を記載して言上せよ」

この官命にもとづいて諸国の風土記が編纂されたはずであるが、
現在残っているのは、出雲が完本で、あと常陸・播磨・豊後・肥前の4つだけ。

『常陸国風土記』は次の元正天皇のときに成立したと考えられています。