<金曜は本の紹介>
「昭和・大正・明治の地図でいく 東京懐かし散歩(赤岩州五)」の購入はコチラ
この本は、都内各所を昔の地図を片手に歩いたもので、使用した地図は、明治から昭和にかけての国土地理院(または陸地測量部)発行の旧版地形図がほとんどとのことです。
特に、自分も良く知っている原宿・表参道、府中、成城、立川、目黒、有楽町、神保町など楽しく読めました。
著者も住んだことがあるところは思い入れがあるようで、昔話を取り混ぜながら面白く書かれています。
とてもオススメな本です。
以下はこの本のポイントなどです。
・東京の運河や川が消えていった理由は2つある。1つは、東京大空襲で生じた残土を処分するためである。戦後の復旧工事によって、さらに残土は増え、道路脇に高々と積み上げられていた。占領軍は東京都に対して残土を速やかに処分するように命じ、都は残土を水路に埋めるのが適切として、外濠や竜閑川、三十間川が埋め立てられていった。もう1つの理由は、昭和30年代に入り、高度経済成長と車社会が到来したことである。さらに昭和39年には東京オリンピックが開催されることになり、新幹線や高速道路の建設が始まった。その用地に使われたのが、買収の必要がない川の上である。そこで、築地川や京橋川が埋め立てられ高速道路がつくられた。
・原宿駅下車。目の前にオッシュマンズ。80年代(昭和55年~)初め、この場所は空き地だった。いくつものテントや露店で、古着やブリキのバッジ、ペンダント、ディズニーの腕時計などが売られていた。表参道に入ると、左手に蕎麦の「丸屋」。隣にあった「ドトール1号店」は、現在もう少し先に移転している。向かいは「コープオリンピア」、その並びの「パークハイツ」は少し前までダーツ・バーだった。そういえば80年代は、仕事の合間によくダーツやバックギャモンで遊んでいた。そんな時代だった。
・GAP(もとセントラルアパート)の向かいは八角館ビル。そちら側へ渡って青山方面へ進み、すぐ右手の隠田商店街に入る。表参道の両側、現在は神宮前という町名であり、隠田という行政上の地名はない。神宮前になったのは、昭和40年の住居表示変更からだ。それまでは神宮前1~4丁目あたりが「原宿」と「竹下町」、表参道をはさんで向かい合った5、6丁目が「隠田」だった。現在、「原宿」「竹下町」「隠田」、いずれも行政上の地名は消失した。
・その隠田の名がのこる商店街、左に「郵便局」、右に「第二桜湯」の煙突がそびえていた。今はなきその銭湯へ、事務所からタオルを持って時々でかけた。近くに住んでいるらしい若者がシャンプーしながら「4畳半でさあ、風呂トイレなしで2万5千円だぜ」と、自分の部屋の家賃がいかに高いかを友人に話していた。アパートは無数にあった。この商店街近辺や渋谷川暗渠のキャットストリート、それにセントラルアパートの裏あたり。今、それらアパートの多くは雑貨店やブティックになっている。そのまま真っ直ぐ行くと「萬屋」「魚義」「田中青果店」と、個人商店が軒を並べる一画。好きな界隈だった。今は「スリーエイト」「季節フードうおよし」「原宿青果店」と名前を変えたが、面影はまだ残っており元気に営業している。そういえば「丸精精肉店」(健在!)でコロッケ買って、ほおばっていたこともあった。
・成城の地名は、昔からあったわけではない。昭和の初め、この地へ移転してきた学園の名前だった。大正の末、当時、新宿・牛込柳町にあった成城小学校と中学校が、大学までの一貫教育の場を探していた。大正15年、候補地の中から、この地が選ばれた。その翌年の昭和2年には小田急電鉄が開通し、成城学園前駅が誕生。やがて町名として、成城が生まれることになる。かつては砧村といった。「砧」とは、麻や楮を小槌で打ってやわらかくするための台のこと。古来、砧村は絹布の生産が盛んな土地であった。映画監督・山本嘉次郎は、エッセイで「砧という美しい響きと歴史を持つ地名がセイジョーなどという無粋な響きの名前になって」と不満気に記す。町づくりのイニシアティブは成城学園がとった。民俗学者・柳田国男も参加したという。
・さらに、さまざまな著名人が新しい成城に住むようになる。「シネマ見ましょか、お茶のみましょか、いっそ小田急で逃げましょか」と小田急を歌った「東京行進曲(昭和4年)」の作詞家・西条八十、「銭形平次捕物控」の野村胡堂、作曲家・山田耕作、詩人の北原白秋らも引っ越してきた。山田耕作の曲に「からたちの花」「ペチカ」「待ちぼうけ」などがあるが、作詞はすべて北原白秋である。近所だからこそ、なにかと仕事がやりやすかったはずだ。そして、彼ら以上に目立ったのが映画関係者である。
・関東大震災(大正12年)で壊滅的となった神保町界隈だったが、昭和初期にはみごとに復興した。通りには華やかな装飾を施した街並みが続き、古書店だけでなく、寄席や映画館、飲食店が軒を連ねた。往時は木造3階建てだった三省堂から、電車道だった靖国通りへ出ると、道の向こう側は種のタキイだが、ここは昔「神田日活」だった。そして三省堂側には、木内武郷さんが「十一軒長屋」と呼んでいた古書店が並んでいた。
・神保町の交叉点に立ってみた。かつては市電(都電)神保町停留場だったところだ。須田町とともに東京最大の市電乗り換え場所として賑わいをみせたという。
<目次>
はじめに 地図探偵のススメ
地図は教えてくれる。現在の姿だけでなく、50年前100年前、どんな街だったかを-
昭和59年の地図で歩く 原宿・表参道
表参道には、おでんの湯気が流れていた
昭和44年の地図で歩く 荻窪
田んぼから原っぱ、そして団地ができていった
昭和38年頃の地図で歩く 府中
逃げて府中 ダービーと3億円事件
昭和34年の地図で歩く 池袋
東京屈指の繁華街になるには、まだ時間が必要だった
昭和33年の地図で歩く 高田馬場
軍施設地への大学の拡張が、街を大きく変えた
昭和33年の地図で歩く 築地
東京オリンピック前の、水と橋の跡をたどる
昭和33年の地図で歩く 成城
近代都市づくりと、映画の黄金時代を刻んだ地図
昭和27年の地図で歩く 三鷹
プロ野球の球場行き鉄道跡をたどる
昭和22年の地図で歩く 立川
軍部との関わりが、地図から浮かんでくる
昭和22年の地図で歩く 目黒
幻となった、戦前戦中の都市計画の跡
昭和15年の地図で歩く 有楽町
舶来の薫り漂う娯楽の街が、戦時色に染まるまで
昭和9年の地図で歩く 向島
「ぬけられます」の路地
昭和5年の地図で歩く 神保町
80年前も、本と食べものの街だった
昭和5年の地図で歩く 田園調布
田園地帯からモダン郊外都市へ
大正12年の地図で歩く 早稲田-大塚
切り崩された丘と緩やかになった川
大正12年の地図で歩く 大森
ハイカラな山の手と、のどかな海辺町
大正7年の地図で歩く 深川
川と水の町から、哀愁の工場の街に
明治43年の地図で歩く 日本橋
誰もがのんびりしていた、明治の街角
明治43年の地図で歩く 本郷
戦災をまぬがれた街に、明治の気配を探す
明治43年の地図で歩く 湯島
「風流」の面影をもとめて漫ろ歩く
明治43年の地図で歩く 両国
花火と大相撲の熱気が渦巻く町
明治42年の地図で歩く 町田
なぜ東京に編入されていったか?
明治34年の地図で歩く 根岸
自由人たちが愛した鶯の里
明治30年の地図で歩く 麹町
野趣に溢れる、江戸東京の原風景
明治14年の地図で歩く 上野・浅草
江戸っ子の心意気は、明治へつながっていった
面白かった本まとめ(2010年上半期)
<今日の独り言>
6歳の息子にピアノをいつも教えていて、ジュニア2→3→シニア1→2→3と順調に進んでいたのですが、シニア3が難しすぎて挫折していました。そこで自信をつけさせるためにも、楽しく簡単に弾ける「わたしはピアニスト1」を買いました。山野楽器の店員さんもオススメです!
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この本は、都内各所を昔の地図を片手に歩いたもので、使用した地図は、明治から昭和にかけての国土地理院(または陸地測量部)発行の旧版地形図がほとんどとのことです。
特に、自分も良く知っている原宿・表参道、府中、成城、立川、目黒、有楽町、神保町など楽しく読めました。
著者も住んだことがあるところは思い入れがあるようで、昔話を取り混ぜながら面白く書かれています。
とてもオススメな本です。
以下はこの本のポイントなどです。
・東京の運河や川が消えていった理由は2つある。1つは、東京大空襲で生じた残土を処分するためである。戦後の復旧工事によって、さらに残土は増え、道路脇に高々と積み上げられていた。占領軍は東京都に対して残土を速やかに処分するように命じ、都は残土を水路に埋めるのが適切として、外濠や竜閑川、三十間川が埋め立てられていった。もう1つの理由は、昭和30年代に入り、高度経済成長と車社会が到来したことである。さらに昭和39年には東京オリンピックが開催されることになり、新幹線や高速道路の建設が始まった。その用地に使われたのが、買収の必要がない川の上である。そこで、築地川や京橋川が埋め立てられ高速道路がつくられた。
・原宿駅下車。目の前にオッシュマンズ。80年代(昭和55年~)初め、この場所は空き地だった。いくつものテントや露店で、古着やブリキのバッジ、ペンダント、ディズニーの腕時計などが売られていた。表参道に入ると、左手に蕎麦の「丸屋」。隣にあった「ドトール1号店」は、現在もう少し先に移転している。向かいは「コープオリンピア」、その並びの「パークハイツ」は少し前までダーツ・バーだった。そういえば80年代は、仕事の合間によくダーツやバックギャモンで遊んでいた。そんな時代だった。
・GAP(もとセントラルアパート)の向かいは八角館ビル。そちら側へ渡って青山方面へ進み、すぐ右手の隠田商店街に入る。表参道の両側、現在は神宮前という町名であり、隠田という行政上の地名はない。神宮前になったのは、昭和40年の住居表示変更からだ。それまでは神宮前1~4丁目あたりが「原宿」と「竹下町」、表参道をはさんで向かい合った5、6丁目が「隠田」だった。現在、「原宿」「竹下町」「隠田」、いずれも行政上の地名は消失した。
・その隠田の名がのこる商店街、左に「郵便局」、右に「第二桜湯」の煙突がそびえていた。今はなきその銭湯へ、事務所からタオルを持って時々でかけた。近くに住んでいるらしい若者がシャンプーしながら「4畳半でさあ、風呂トイレなしで2万5千円だぜ」と、自分の部屋の家賃がいかに高いかを友人に話していた。アパートは無数にあった。この商店街近辺や渋谷川暗渠のキャットストリート、それにセントラルアパートの裏あたり。今、それらアパートの多くは雑貨店やブティックになっている。そのまま真っ直ぐ行くと「萬屋」「魚義」「田中青果店」と、個人商店が軒を並べる一画。好きな界隈だった。今は「スリーエイト」「季節フードうおよし」「原宿青果店」と名前を変えたが、面影はまだ残っており元気に営業している。そういえば「丸精精肉店」(健在!)でコロッケ買って、ほおばっていたこともあった。
・成城の地名は、昔からあったわけではない。昭和の初め、この地へ移転してきた学園の名前だった。大正の末、当時、新宿・牛込柳町にあった成城小学校と中学校が、大学までの一貫教育の場を探していた。大正15年、候補地の中から、この地が選ばれた。その翌年の昭和2年には小田急電鉄が開通し、成城学園前駅が誕生。やがて町名として、成城が生まれることになる。かつては砧村といった。「砧」とは、麻や楮を小槌で打ってやわらかくするための台のこと。古来、砧村は絹布の生産が盛んな土地であった。映画監督・山本嘉次郎は、エッセイで「砧という美しい響きと歴史を持つ地名がセイジョーなどという無粋な響きの名前になって」と不満気に記す。町づくりのイニシアティブは成城学園がとった。民俗学者・柳田国男も参加したという。
・さらに、さまざまな著名人が新しい成城に住むようになる。「シネマ見ましょか、お茶のみましょか、いっそ小田急で逃げましょか」と小田急を歌った「東京行進曲(昭和4年)」の作詞家・西条八十、「銭形平次捕物控」の野村胡堂、作曲家・山田耕作、詩人の北原白秋らも引っ越してきた。山田耕作の曲に「からたちの花」「ペチカ」「待ちぼうけ」などがあるが、作詞はすべて北原白秋である。近所だからこそ、なにかと仕事がやりやすかったはずだ。そして、彼ら以上に目立ったのが映画関係者である。
・関東大震災(大正12年)で壊滅的となった神保町界隈だったが、昭和初期にはみごとに復興した。通りには華やかな装飾を施した街並みが続き、古書店だけでなく、寄席や映画館、飲食店が軒を連ねた。往時は木造3階建てだった三省堂から、電車道だった靖国通りへ出ると、道の向こう側は種のタキイだが、ここは昔「神田日活」だった。そして三省堂側には、木内武郷さんが「十一軒長屋」と呼んでいた古書店が並んでいた。
・神保町の交叉点に立ってみた。かつては市電(都電)神保町停留場だったところだ。須田町とともに東京最大の市電乗り換え場所として賑わいをみせたという。
<目次>
はじめに 地図探偵のススメ
地図は教えてくれる。現在の姿だけでなく、50年前100年前、どんな街だったかを-
昭和59年の地図で歩く 原宿・表参道
表参道には、おでんの湯気が流れていた
昭和44年の地図で歩く 荻窪
田んぼから原っぱ、そして団地ができていった
昭和38年頃の地図で歩く 府中
逃げて府中 ダービーと3億円事件
昭和34年の地図で歩く 池袋
東京屈指の繁華街になるには、まだ時間が必要だった
昭和33年の地図で歩く 高田馬場
軍施設地への大学の拡張が、街を大きく変えた
昭和33年の地図で歩く 築地
東京オリンピック前の、水と橋の跡をたどる
昭和33年の地図で歩く 成城
近代都市づくりと、映画の黄金時代を刻んだ地図
昭和27年の地図で歩く 三鷹
プロ野球の球場行き鉄道跡をたどる
昭和22年の地図で歩く 立川
軍部との関わりが、地図から浮かんでくる
昭和22年の地図で歩く 目黒
幻となった、戦前戦中の都市計画の跡
昭和15年の地図で歩く 有楽町
舶来の薫り漂う娯楽の街が、戦時色に染まるまで
昭和9年の地図で歩く 向島
「ぬけられます」の路地
昭和5年の地図で歩く 神保町
80年前も、本と食べものの街だった
昭和5年の地図で歩く 田園調布
田園地帯からモダン郊外都市へ
大正12年の地図で歩く 早稲田-大塚
切り崩された丘と緩やかになった川
大正12年の地図で歩く 大森
ハイカラな山の手と、のどかな海辺町
大正7年の地図で歩く 深川
川と水の町から、哀愁の工場の街に
明治43年の地図で歩く 日本橋
誰もがのんびりしていた、明治の街角
明治43年の地図で歩く 本郷
戦災をまぬがれた街に、明治の気配を探す
明治43年の地図で歩く 湯島
「風流」の面影をもとめて漫ろ歩く
明治43年の地図で歩く 両国
花火と大相撲の熱気が渦巻く町
明治42年の地図で歩く 町田
なぜ東京に編入されていったか?
明治34年の地図で歩く 根岸
自由人たちが愛した鶯の里
明治30年の地図で歩く 麹町
野趣に溢れる、江戸東京の原風景
明治14年の地図で歩く 上野・浅草
江戸っ子の心意気は、明治へつながっていった
面白かった本まとめ(2010年上半期)
<今日の独り言>
6歳の息子にピアノをいつも教えていて、ジュニア2→3→シニア1→2→3と順調に進んでいたのですが、シニア3が難しすぎて挫折していました。そこで自信をつけさせるためにも、楽しく簡単に弾ける「わたしはピアニスト1」を買いました。山野楽器の店員さんもオススメです!
