<金曜は本の紹介>
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「戦国時代の大誤解」という本は、ちまたで信じられている戦国時代の通説について疑い、戦国時代の真実に迫ったものです。
例えば本書では以下の記述があり、どれも興味深く読めましたね。
・斎藤道三は油は売っておらず、しかも父親と二代がかりの国盗りだった
・上杉謙信は清廉無私で正義感にあふれた勇将ではない
・織田信長は無神論者ではなかった
・明智光秀はしたたかで有能な戦国人、領主としても評判が良い
・賤ヶ岳の戦いは柴田方が負けたから前田利家が撤退したのではなく、利家が撤退したから柴田方が総崩れとなった
・徳川家康は幼いころ人質に出されて苦労したわけではない
・桶狭間の戦いは奇襲ではなかった
・今川義元の西進は上洛が目的ではなかった
・豊臣秀吉は墨俣に築砦していない
・三方原の戦いは徳川家康が積極果敢に打って出たわけではない
・武田家に騎馬隊はなかった
・長篠の戦いは騎馬vs鉄砲の戦いではなかった
・織田信長は鉄船を作ってはいなかった
・本能寺の変は明智光秀の単独犯行
・徳川家康は野戦の名手ではない
・上洛、天下取りを目指した大名はほとんどいなかった
・1543年に種子島に鉄砲伝来したわけではない
・日本馬は小さかったし、騎馬ではなく輸送手段が目的
・弓矢が威力を発揮していた
・槍は突くものではなく打ち叩くもの
・刀は両手で持つものではなく、片手で持つものだった
特に、「武田家に騎馬隊はなかった」や、「信長は鉄船を造っていなかった」、「秀吉は墨俣に築砦していなかった」、「刀は両手ではなく片手で持つもの」などは、「へ~」と思いましたね。
また、今川義元の西進は上洛が目的ではなかったというのはそうだろうなぁとは思っていましたね。
「戦国時代の大誤解」という本は、真の戦国時代を理解する上で、とてもオススメな本です!
以下はこの本のポイント等です。
・経歴が怪しい人の極めつきは、<国盗り物語>の斎藤道三(利政)だろう。道三が油売りをしながら、都から美濃に流れてきて、ついに一国を奪ってしまうという話は、江戸時代からよく知られていた。ところが、地元で研究が進められるうちに、道三は油など売っていないということがわかってきた。彼の<国盗り>も、一代だけの事業ではなく、父親と二代がかりであったことが明らかになった。実はこうしたことを書いた文献も江戸時代からあったのだが、なぜか注目されることがなかった。近年、それを裏付ける確かな古文書等が見つかって、だんだん動かせない事実となったのである。
・腹黒く計算高い謀将・信玄に対して、清廉無私で正義感にあふれた勇将・謙信というイメージは、いまだに大人たちのあいだにも共有されているはずである。しかし、実在の謙信は、けっこうきわどいことをやっている。家督を奪うために兄を殺したという話は冤罪だが、姉婿を疑って謀殺させたというのは、真実のようである。領土の争いにしても、決して義侠心といったきれいごとだけで説明できるものではなく、信玄との戦いは、自存のためにもやらねばならないものだった。関東に出兵したり、越中・能登に向かったりしたのは、本人の野望と無関係ではない。
・織田信長は無神論者だったなどというのも、誤解の例である。そう言って、信長の近代人性を強調したいのかもしれないが、これは宣教師のルイス・フロイスの書いたものを、いいかげんに解釈していることによる。フロイスは、信長の無神論的な言動は、禅宗の教えに従ったものだと明記しているのである。たしかに、禅宗にはそうした一面がある。信長関係の史料を見れば容易にわかることだが、彼も自分に縁のある神社などは大切にしているし、寺社に祈祷を依頼したりもしている。安土城内にもわざわざお寺を建てているが、フロイスによると、本人が神様となって拝まれるつもりだったのだという。これがほんとうなら、そんな無神論者がいるものではない。
・信長の業績についても、間違った解釈が多い。たとえば教科書などでは、信長といえば合い言葉のように「楽市・楽座令」が出てくる。たしかに、信長がそういうものを出したのは事実だが、別に彼が創始したわけでもなんでもない。
・明智光秀の人柄について、同時代人としてもっとも詳しい証言を残したのは、宣教師のルイス・フロイスである。「裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策略の達人であった。また築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」と「日本史」で書いている。この光秀評は、その末路も承知したうえで悪意をこめて記しているから、こういう表現になっているが、そういう偏見を外して読み直せば、また違う解釈になる。光秀というのは、一筋縄ではいかない、したたかで有能な戦国人らしい戦国人だったのである。これなら秀吉はもちろん、信長にだって優に対抗できるだろう。
・明智光秀がなんで謀反など起こしたのかについては、昔からいろいろな説があるが、本当のところは本人に聞いてみなければわからない。ただ、彼には黒幕がいたとか、共謀者がいたとかいう説には、いずれも根拠がない。また、光秀は成算もなしに立ち上がったように言われることが多いが、当時の状況を見れば、必ずしも無謀な試みだったというわけではない。領主としての光秀は、なかなか評判がよかったようだ。彼は近江の一部と丹波を所領としていたが、その丹波の福知山には、光秀をまつった神社がある。江戸時代からあるものだが、それ以前から旧領民たちは、”これはお稲荷様でございます”とかなんとか言って、こっそりまつり続けていたらしいのである。
・本当は、多少の小競り合いはあって、前田利家の部下に戦死者も出ている。だから戦火を交えなかったわけではないが、それ以上におかしいのは、利家は別に柴田側が負けたから撤退したわけではないことである。利家がさっさと撤退してしまったから、柴田側は総崩れとなったのだ。本末転倒というのは、こういうことである。負けた勝家は、敗走中に利家のいた越前府中城に寄ったが、一言も彼を責めず、このうえは秀吉を頼んで家を全うしろと繰り返し言い残して去った。居城に帰ると、利家の入れていた人質も送り返してよこした。勝家は、昔から大衆的人気の乏しい人だが、人質にしてあった故主の側室まで磔にした秀吉などに比べたら、はるかに立派である。同時に利家という人には、何か他人に恨まれにくいようなところがあったのかもしれない。戦後、利家は、それまでの能登一国を安堵されただけでなく、新たに加賀の二郡を与えられた。負けた側にいて、こんなに厚遇された例はない。それだけ利家の<裏切り>の価値は高かったということであって、秀吉の天下をつくった功績の何割かは、利家のものといえるだろう。そういうこともあったし、若いころからのなじみでもある利家は、身寄りも少ない秀吉にとっては頼りがいのある人間だった。それで死ぬときには、彼に後事を託していった。利家のほうも、そのつもりでいたが、秀吉の死後半年あまりで本人も死んでしまった。もう少し生きていたら、秀吉の息子・秀頼を関白にして頭にいただく<前田幕府>みたいなものができたかもしれない。そうなっていたら、日本の歴史に江戸時代などはなかっただろう。
・関ヶ原の戦いのとき、家康に従って東国にいた山内一豊に奥さんが使いを送り、家康に味方するようすすめたというのは事実であろう。一豊は、奥さんの判断を信じて、書状の封を切らずに家康に提出した。さらに居城も提供すると申し出たので、家康の覚えはめでたかった。関ヶ原の本戦では、布陣の関係もあって格別の戦功がなかったにも関わらず、土佐一国を与えられたのは、そのためだといえる。これこそ、<内助の功>というものだが、それは東軍が勝ったがゆえの結果論にすぎない。この戦いの勝敗については、彼女などの知らない要因がいくらもあった。最近の研究を踏まえて考えると、西軍にも十分勝ち目はあったといえる。そうなっていたら、一豊は、小賢しい奥さんの言うことを信じたばかりに、遠江掛川6万石を棒に振ったマヌケな男として後世に記憶されていただろう。
・三河の松平家に生まれた家康は、隣に駿河の今川という大勢力があったため、幼いころから人質に出されて、たいへん苦労したということになっている。だが実際は、尾張の織田信秀(信長の父)に押されていた家康の父親が、今川家に応援を求めたところ、それなら証人(人質)を出してくれと言われたたけのことである。これは当時としては、ごく当たり前の慣行で、いやなら織田家に潰されたままである。父親の死後も今川家にいたが、当時の家康は、当主を失った松平家唯一の男性であった。それで今川義元は、その成人を待って家督を保証した扱いをしたもので、一種の「御恩」なのだという。義元の姪を娶らせたのも、今川の一門扱いをしたもので、こんな人質があるものではないというのが、新行さんの指摘である。家康は義元の死後、息子の今川氏真と戦って今川領の遠江を奪い取っている。これはだれが見ても、恩義を忘れた裏切り行為というほかはない。それをごまかしたいから、人質とされていじめられたなどという話を流布させたのだろう。
・一般に言われているように信長が家康の子である信康を殺せと指示したわけではなく、家康から相談を受けた信長が、家康の思うとおりにせよと答えたまでであるという。これは「当代記」という相当に信頼性の高い史料を踏まえたものであり、傾聴すべき指摘といえる。なお、家康が信長の意向を聞いたのは、信康がその娘婿だったからである。家康にしても、やみくもに息子とその母親である正妻を片づけたわけではなく、そうせざるをえない事情はあっただろう。この当時、家康は遠江浜松、信康は三河岡崎にいたが、信康を取り巻く勢力が大きくなりすぎたのかもしれない。この時代には親子の対立など珍しくないし、本人たちにその気はなくても、周りがそうしてしまうこともあった。いずれにしても、本当の理由は出すわけにいかないから、信長の指示でそうなったということにしてしまったのだろう。江戸時代になって、家康が神様になると、ますます妻子殺しなど言えないから、すべて信長にかぶせて、彼が悪かったということにした。世間も、あの横暴な信長なら、そのくらいのことはやるだろうと納得した。見に覚えのない非難を浴びた信長こそ、いい面の皮というものだ。
・通説では、上洛を目指して進撃してきた駿河の今川義元の大軍を
永禄3年(1560)5月19日、織田信長がわずかな人数で奇襲をかけて討ち取ったということになっている。つまり、このお話は、義元の上洛と信長の奇襲という2本の大きな柱から成り立っているのだが、義元が上洛を志して動いたという点からしてまず怪しい。戦国大名といえば、だれでも彼でも都に旗を立てることを考えていたように言われているが、それは事実ではない。ことに今川義元の場合には、本人に上洛志向があったかどうかは別として、この時点での上洛などありえなかった。義元は公称4万、実質2.5万くらいの人数で出ていったとされるが、京都までの間には、信長のほかにも立ちふさがる大名が何人もいる。また、畿内とその周辺は、実力者の三好長慶がしっかり押さえている。それらとまともに戦って撃破するには、この程度の人数では、とうてい無理である。ほんとうに上洛するつもりなら、あらかじめ根回しをして、各地の勢力と提携しておかねばならないが、義元はまったくそういうことをしていない。そのため、義元の上洛という話は、以前から疑われているところがあった。義元の目的は、さしあたり信長を打ち破って、尾張を取るためだったろうと言っている。しかし、実際問題としては、それでもまだ<重荷>だっただろう。信長の奇襲については、近年までだれも疑う人はいなかった。ところが藤本正行さんが、この奇襲説に異議を唱えた。藤本説の骨格は、ある意味で単純明快で、信頼できそうな史料に、まったく裏付けがないということである。もう少し具体的にいうと、これまでの桶狭間の物語というのは、江戸時代の初期に小瀬甫庵という作家が書いた「信長記」という書物に基づいていた。この「信長記」というのは、信長の旧臣・太田牛一という人の書いた「信長公記」を下敷きにして、その通俗版のようなかたちでつくられたものである。ところが、その「信長公記」には、義元が上洛を志していたとか、信長が奇襲をかけたとかいうことは、いっさい出ていない。それどころか、信長は今川勢に真正面から攻撃を仕掛けたとある。たまたまそれが当たったから義元を討ち取れたということである。義元が西進した目的は上洛などではなく、藤本さん流にいえば、戦国大名どうしのありふれた国境紛争にすぎなかった。そうであれば信長としても玉砕覚悟でかかってゆく必要など何もなく、なんとか今川勢を追い返してしまえば足りた。また、この時代に総大将が戦場で討死した事例などめったになかったことは当時の常識であるから、最初からそんな確率の低いことを狙って一発勝負の大バクチを打つことなどありえない。「信長公記」を読めばよくわかるが、信長は攻撃を仕掛けたとき、今川義元がどっkにいるかさえ、つかんでいなかった。ただ、彼には彼なりの計算があって、前夜からの戦いで疲れている今川軍の一部を自分の新鋭の兵力で叩けば、どうにかなると考えていたようである。実際にそのつもりで行動しているが、それは彼の勘違いだった。しかし、その勘違いが結果的に大当たりとなったのだから、世の中はわからない。そう言われても、2.5万もの今川勢が、2千くらいの織田勢に簡単に負けてしまうものかと思われる方も多いだろう。だが、遠路はるばるやってきた今川勢は、たくさんの補給要員なども必要であり、軍勢の半ば以上は非戦闘員だったと思われる。一方、居城の清須からまっすぐやってきた信長勢は、今川勢にくらべて戦闘員の比率がずっと高かったはずである。しかも、信長のほうは一団となっていたのに対して、義元のほうは各所に兵力を分散させていた。そのため、両者が桶狭間付近で衝突したときには、びっくりするほどの格差はなかったであろう。あとは成り行きというものである。
・三方原の戦いでの武田信玄に対する徳川家康は、積極果敢に打って出たわけでもなく、無謀だったわけでもない。野次馬気分で勝手に飛び出してしまった部下たちを引き戻そうと苦労しているうちに、自らも戦闘に巻き込まれてしまったということである。それが三方原の戦いの真相だった。ちなみに、家康は大阪夏の陣のとき、息子の義直の部隊の動きが気に入らないというので、義直につけてあった成瀬正成に使いをやって”腰抜けめ”と罵ったことがある。言われた正成も負けてはおらず、”そういう大御所(家康)だって、信玄にはたびたび腰が抜けたではありませんか”と言い返した。真実は、そんなところだろう。
・武田方には騎馬隊などといえるようなものは、そもそもなかった。この時代には、馬に乗れる人間そのものが限られていた。武田家の例でいえば、戦闘員に対する比率は1割未満というところだったが、これはほかの家も似たり寄ったりということである。そうした騎馬武者は、それぞれが負担する軍役に応じて、あちこちから二騎、三騎と集まってくるのだが、当然のことながら、共同生活も共通訓練も経ていない。集団行動など、とうてい無理である。しかも、馬に乗ってくるのは主人か将校クラスの者たちであるから、彼らだけひとまとめにしてしまったら、兵士たちを指揮する者がいなくなってしまう。
・長篠合戦が騎馬vs鉄砲の戦いだったかのような話の元をつくったのは、桶狭間や墨俣一夜城の箇所で取り上げた小瀬甫庵である。これをほかの軍記などが受け継ぎ、陸軍参謀本部なども採用した。それに近代ヨーロッパの戦術の知識などを加えて、都合よく練り上げられたのが、いまも定番的に流されているようなお話なのである。それでは現実の長篠の戦いは、どういうものであったかというと、ひと口で形容すれば、それは「攻城戦」であった。それも大軍の織田・徳川方が堅固な陣地を構えて立てこもり、小勢の武田方が、それを真っ向から攻撃するかたちであった。そうなった理由はもちろんあるが、このようなかたちになっては、小勢のほうが不利になったのは当たり前である。
・織田信長が天正6年(1578年)に鉄船(鉄板で装甲した船)をつくったという話は、ほとんど定説化しているといえる。学者は物書きの人たちがしきりにそういうことを言い、想像図なども流されている。これだけ言うからには、定めし立派な根拠があるのだろうと思いたくなるが、それがそういうわけでもない。信長関係の史料として、真っ先にあげられる「信長公記」には、信長が伊勢の九鬼嘉隆に大船6艘をつくらせ、滝川一益にも白船1艘をつくらせたとあるだけである。著者の太田牛一は、おそらく実物を見たことがあると思うのだが、装甲のことなどには、いっさいふれていないのである。宣教師のオルガンチノは、わざわざ堺まで見にいって船にも上がってみたらしいが、装甲についてはなにも述べていない。彼が力をこめて言っているのは、もっぱら搭載されていた大砲のことだけである。大船の建造にあたった九鬼家の家譜も同様で、火砲の威力については記しているが、装甲に関しては何の記述もない。それではみなさん何を根拠に鉄船々々と言っているのかというと、奈良多聞院の英俊という坊さんの日記である。そこに「鉄ノ船也」とあるのを、唯一絶対の証拠として、そういう主張を展開しているのである。もちろん、それが信じられるならそれでよいが、英俊は、オルガンチノのように船を実見しているわけではない。だれかから聞かされたたけである。こういうのは裁判でも、直接見聞したことより証拠としての価値は低い。実は、これから十数年後に豊臣秀吉は、ほんとうに鉄張りの船を造っている。だから、そういう発想は信長時代からあって、珍しくもないことだから関係者はだれも言及しなかったのだろうという見方はあるかもしれない。しかし、それは少しうがちすぎというものだろう。そんなものはなかったから書かなかったというほうが常識にかなっている。
・天正10年(1582年)6月2日朝、京都市内に泊まっていた織田信長は、家臣・明智光秀の反乱で殺された。これがいわゆる「本能寺の変」というものだが、それは長らく光秀の<単独犯行>と理解され、疑う者はいなかった。ところが近年になると、じつは光秀には、背後で彼を操った黒幕がいたとか、共謀した者がいたとかいう説が次々と現れた。いまでは、その種の説が何十通りもあって、従来の単独犯行説を圧倒する勢いである。テレビドラマや歴史番組でも、そうした視点で本能寺の変を扱っているものが多いが、こうした説は、すべて空中楼閣にすぎない。
・徳川家康が野戦の名手だったというのは、後世つくられた<神話>のようなものである。大きな野戦で家康が快勝した事例というのは、長久手の戦い<1584>くらしかない。このときは敵の失策に助けられた面はあるが、確かにめざましい勝ち方をしている。それ以外は、長篠の戦い<(1575)はもちろん、姉川の戦い(1570)にしても、家康の手腕といえるかどうかは怪しいところがある。逆に、三方原の戦い(1572)では、武田信玄に滅多打ちにされて、大敗北を喫している。それでも、この戦いの場合、兵力が違っていたという言い訳の余地があるが、大阪夏の陣(1615)は、そうはいえまい。何倍もの兵力を集めたうえで野戦に持ち込みながら、真田幸村たちに、本陣まで引っかきまわされて、危うく命を落とすところだった。
・関ヶ原の戦いで、大垣城に集まっていた西軍が関ヶ原に転進したのは、にわかの思いつきでも、まして家康の計略に引っかかったからでもなく、予定の行動であった。三成たちは、あらかじめ野戦築城を施していて、そこに東軍を引きつけて戦ったのである。このとき実際に戦闘に参加した兵力は、西軍が正味3万3000くらいだったのに対し、東軍は7万5000以上いたにも関わらず、西軍の戦線を突破できず、膠着状態に陥ってしまった。長篠の戦いのとき、織田・徳川側の野戦陣地を突破できなかった武田勢は、敗退せざるをえなかったが、同じことが関ヶ原でも起ころうとしていた。もちろん、織田・徳川軍の立場にあるのが三成たち西軍で、武田軍の立場にあるのが家康率いる東軍である。こうした東軍の窮状を救ったのは、西軍に裏切り者が出たことであった。具体的にいうと、小早川秀秋が、突然、西軍を背後から襲ったのである。秀秋に引きずられて裏切った連中もいたから、寝返り組は、かれこれ2万にも及んだ。これで形勢は一挙に逆転した。これほど鮮明なかたちではないが、毛利一族の吉川一族の吉川広家の不戦傍観というのも、勝敗を左右する大きな要因になった。彼は自隊だけではなく、事情を知らない毛利の本隊などを含む約2万8000を釘づけにしてしまった。賤ケ岳の前田利家がそうだったように、戦うべき者が戦わないというのは、消極的な裏切りにほかならない。実は秀秋の寝返りも、広家の不戦傍観も、あらかじめ家康側との密約があってのものだった。それでそういう手を打っておいた家康公はさすがにエライと<家康信者>の人たちは褒めちぎる。だが、ここで考えていただきたいのは、いくら約束したからといって、裏切りが確実に実行される保証など何もないということである。現実にも、秀秋は午前8時ころ始まった戦闘が正午に及んでも、なかなか決心がつかなかった。広家にしたところで、事情を知らない連中をいつまでも引き止めておけるものではない。もし秀秋が裏切るのをやめて、西軍のために戦っていたら、西軍有利は動かなくなるから、広家も傍観は続けられなくなる。仮に、彼ががんばったところで、ほかの連中は勝利の分け前にあずかるべく駆け出してしまうに決まっている。逆に、広家が押さえていた2万8000が早々と参戦していたら、これまた西軍の勝ちは見えたようなものだから、秀秋も裏切りなどやめて、勝ち馬に乗ろうとしたに決まっている。ということで、家康が謀略をめぐらしたのは事実にちがいないが、それは不確定要素だらけの話だった。そんな危ないことをアテにしなければならなかったのだとしたら、勝つべくして勝ったなどと言えるものではない。家康本人だって、そのくらいわかっていただろう。
・鉄砲が、天文12年(1543)はじめて大隅種子島に伝来したというのは、定説中の定説といったようなもので、教科書から歴史事典の類まで、必ずそう書いてある。もし試験の答案にこれと違うことを書いたら、間違いなく零点をつけられるだろう。それでも最近は反対説も出てきて、不動の定説もかなり怪しくなってきたが、もともと、かなり異論はあった。ただ、天文12年伝来という思いこみがあまりにも強すぎたうえに、そういう異論を唱えている文献の多くが江戸時代のものであったため、まともに相手にされることがなかったのである。しかし、同時代の史料のなかにも、注目すべきものはいくつかある。たとえば、応仁の乱の始まる前年の文正元年(1466)7月、足利将軍を訪れた琉球(沖縄)の人が、退出の際に「鉄放」を放って京都の人を驚かせたと相国寺の坊さんの日記に出ている。また応仁2年(1468)11月、東軍の陣営で「火槍」を見たことが別の坊さんの日記にある。それらにいう「鉄放」「火槍」は、種子島に伝来したとされる火縄銃とは違って、もう少し原始的な手砲のようなものだったかもしれないが、鉄砲の一種であったことは間違いない。
・一般的に馬がどの程度の大きさだったかは、いろいろな記録からも推測できるし、発掘された骨によって確認することもできる。それらによれば、古代から江戸時代まで、日本の馬が一貫して小さかったことは明らかである。大阪府四条畷市で発掘された5世紀後半のものとみられる馬骨は、体高約125センチだった。これは一体だけだが、かつて神奈川県鎌倉市の海岸から、鎌倉幕府滅亡の際(1333)に埋められたと見られるたくさんの馬骨が発掘されたことがある。それらを平均すると、129.5センチ程度だった。戦国時代のものとしては、山梨県甲府市の武田の居館址から出たものが120センチ程度、千葉市の生実城址から見つかったものが、130~140センチ程度である。丁重に埋葬されていたところから見ても、当時としては立派な部類だったのだろうという。文献資料から見ても、こうした数値は変わらない。豊前中津の小笠原家に仕えた人が、戦国から江戸初期にかけての同家の関係者や諸侯の乗馬など50頭あまりについて記したものがある。それによると、標準的なところは129~133センチ程度である。今日の分類では、体高147センチ以下はポニーの扱いであるから、戦国時代の馬は、ほとんどがポニーの部類だったことになる。
・馬が役に立ったのは、戦闘手段としてもより、むしろ人や者を運ぶ輸送手段としてであった。そのことは、江戸時代の学者もとっくに指摘している。武田居館址から出た馬骨は、前脚の筋肉が発達していて、重量物を背にして斜面を上り下りしていたことがうかがえるという。<武田の騎馬軍団>なおは根拠のない話だが、武田信玄がほんとうに騎馬に期待したとすれば、戦場での働きよりも山国の険路に耐える持久力だったともいえそうである。
・戦国時代の始まりとされる応仁・文明の乱(1467~77)から島原の乱(1637~38)までの史料約220点より、延べ1729人の負傷者(一部、死因の明確な戦死者を含む)を拾いだした。それらの負傷原因を多い順に並べると、矢傷38.6%、鉄砲傷22.2%、槍傷20.8%、石・つぶて傷11.3%となる。持ち出された武器の絶対数ではダントツの刀による傷などはわずか4.5%、薙刀傷などまで合わせてみても、刀剣類による傷は約7%にしかならない。これだけ見ても弓の有用性の大きさがわかるが、鉄砲が普及する以前は、もっとすごかった。鉄砲普及前の期間だけをとれば、矢傷は60.8%にも及んでいる。いかに戦国時代の戦場で弓が猛威を振るっていたかは明らかである。ついでにいうと、鉄砲導入後の期間では、鉄砲傷43.6%、矢傷17.2%となるから、主役の座を鉄砲に譲ったことがわかる。それでも刀剣類の傷9.3%よりまだずっと多く、槍傷の21.3%に続いている。
・今日の常識では槍はもっぱら突くもので、刀は両手で握って振り回すものということになっている。だが、これは江戸の太平時の槍術や剣術が植え付けた感覚で、戦国時代の常識では、そういうことにはなっていなかった。江戸時代の槍術では、左足を前にした左構えになるのがふつうである。ところが戦国時代かあるような古い流派には、しばしば右足前の右構えになるものがある。これはどういうことでしょうと、かつて武術家で時代考証家の名和弓雄さんにお尋ねしてみたことがある。名和さんのお答えは明快で、突くだけではなく、打ち叩くことも考えていた時代には、右構えにしたほうが便利だから、当然、それが基本になったのだという。
・宮本武蔵は戦国合戦も体験した人だが、「五輪書」のなかで、槍・薙刀のような大きな武器はやむをえないが、刀・脇差などは、いずれも片手で持つべきものだという主張を展開している。刀を両手でもってはよろしくない場面を武蔵は列挙する。場上のとき、駆け走るとき、沼・深田・石原・険しい坂道などにさしかかったとき、人混みに入ったとき、左手に弓・槍などの武器を持ったとき、いずれも片手で刀を使わざるをえない。これだけ都合のよくないケースがある以上、はじめから両手で柄を握らせるような他流の行き方は「実の道」ではないというのが武蔵の主張である。どうしても片手で打ち殺しにくいなら両手で使うのもよろしいが、片手打ちこそ基本なのであり、自分が二刀流を提唱しているのも、片手打ちに習熟させるためであるとまで彼は言っている。逐一チェックするまでもなう、武蔵の言っているところは、戦国の常識に合致していと見てよいだろう。槍の場合と同様、この常識も太平の時代には忘れられていたが、幕末維新の動乱で、また復活した。
<目次>
はじめに
第1章 怪しい人たち
1 存在が怪しい人
2 出自が怪しい人
3 経歴が怪しい人
4 名前が怪しい人
5 風貌が怪しい人
6 性格が怪しい人
7 評価が怪しい人
8 文字どおり怪しい人
第2章 歪められたヒーローたち
1 上杉謙信(1530~1578)
2 山中鹿介(1545?~1578)
3 織田信長(1534~1582)
4 明智光秀(?~1582)
5 豊臣秀吉(1537~1598)
6 前田利家(1537~1599)
7 山内一豊(1546?~1605)
8 徳川家康(1542~1616)
9 伊達正宗(1567~1636)
10 宮本武蔵(1584~1645)
第3章 ウソっぱちの名場面
1 桶狭間の奇襲戦
2 川中島の一騎打ち
3 墨俣の一夜城
4 三方原の戦いと家康神話
5 騎馬VS鉄砲・長篠の戦い
6 信長の鉄船
7 高松城の水攻め
8 「敵は本能寺にあり」と「是非に及ばず」
9 天王山と洞ヶ峠
10 石垣山の一夜城
11 勝つべくして勝った(?)関ヶ原の戦い
第4章 おかしな風景
1 そうそう天下取りなど望まなかった戦国大名
2 金銭を軽蔑しなかった戦国の武士たち
3 「二君に仕えず」という観念はなかった
4 百姓=農民ではない
5 めったに使われなかった実名
6 種子島に初伝したわけではない(?)鉄砲
7 竹槍・むしろ旗で一向一揆が勝てたはずがない
8 戦国の馬はみなポニーだった?
9 山城から平城への変化は鉄砲のせい?
10 武士たちの食事は質より量
第5章 不思議な合戦シーン
1 敵はもとより味方すら把握できなかったらしい
2 じつは長いあいだ戦場で威力を発揮していた弓矢
3 槍は振りまわすもの、刀は片手で扱うもの
4 鎧武者のチャンバラなどそうそうない
5 石をなめてはいけない
6 馬上の槍働きはとても不自由
7 甲冑着けて遠路の行軍?
8 びっしり並んで鉄砲を撃つことなどできたのか?
おわりに
面白かった本まとめ(2013年下半期)
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・徳川家康は野戦の名手ではない
・上洛、天下取りを目指した大名はほとんどいなかった
・1543年に種子島に鉄砲伝来したわけではない
・日本馬は小さかったし、騎馬ではなく輸送手段が目的
・弓矢が威力を発揮していた
・槍は突くものではなく打ち叩くもの
・刀は両手で持つものではなく、片手で持つものだった
特に、「武田家に騎馬隊はなかった」や、「信長は鉄船を造っていなかった」、「秀吉は墨俣に築砦していなかった」、「刀は両手ではなく片手で持つもの」などは、「へ~」と思いましたね。
また、今川義元の西進は上洛が目的ではなかったというのはそうだろうなぁとは思っていましたね。
「戦国時代の大誤解」という本は、真の戦国時代を理解する上で、とてもオススメな本です!
以下はこの本のポイント等です。
・経歴が怪しい人の極めつきは、<国盗り物語>の斎藤道三(利政)だろう。道三が油売りをしながら、都から美濃に流れてきて、ついに一国を奪ってしまうという話は、江戸時代からよく知られていた。ところが、地元で研究が進められるうちに、道三は油など売っていないということがわかってきた。彼の<国盗り>も、一代だけの事業ではなく、父親と二代がかりであったことが明らかになった。実はこうしたことを書いた文献も江戸時代からあったのだが、なぜか注目されることがなかった。近年、それを裏付ける確かな古文書等が見つかって、だんだん動かせない事実となったのである。
・腹黒く計算高い謀将・信玄に対して、清廉無私で正義感にあふれた勇将・謙信というイメージは、いまだに大人たちのあいだにも共有されているはずである。しかし、実在の謙信は、けっこうきわどいことをやっている。家督を奪うために兄を殺したという話は冤罪だが、姉婿を疑って謀殺させたというのは、真実のようである。領土の争いにしても、決して義侠心といったきれいごとだけで説明できるものではなく、信玄との戦いは、自存のためにもやらねばならないものだった。関東に出兵したり、越中・能登に向かったりしたのは、本人の野望と無関係ではない。
・織田信長は無神論者だったなどというのも、誤解の例である。そう言って、信長の近代人性を強調したいのかもしれないが、これは宣教師のルイス・フロイスの書いたものを、いいかげんに解釈していることによる。フロイスは、信長の無神論的な言動は、禅宗の教えに従ったものだと明記しているのである。たしかに、禅宗にはそうした一面がある。信長関係の史料を見れば容易にわかることだが、彼も自分に縁のある神社などは大切にしているし、寺社に祈祷を依頼したりもしている。安土城内にもわざわざお寺を建てているが、フロイスによると、本人が神様となって拝まれるつもりだったのだという。これがほんとうなら、そんな無神論者がいるものではない。
・信長の業績についても、間違った解釈が多い。たとえば教科書などでは、信長といえば合い言葉のように「楽市・楽座令」が出てくる。たしかに、信長がそういうものを出したのは事実だが、別に彼が創始したわけでもなんでもない。
・明智光秀の人柄について、同時代人としてもっとも詳しい証言を残したのは、宣教師のルイス・フロイスである。「裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策略の達人であった。また築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた」と「日本史」で書いている。この光秀評は、その末路も承知したうえで悪意をこめて記しているから、こういう表現になっているが、そういう偏見を外して読み直せば、また違う解釈になる。光秀というのは、一筋縄ではいかない、したたかで有能な戦国人らしい戦国人だったのである。これなら秀吉はもちろん、信長にだって優に対抗できるだろう。
・明智光秀がなんで謀反など起こしたのかについては、昔からいろいろな説があるが、本当のところは本人に聞いてみなければわからない。ただ、彼には黒幕がいたとか、共謀者がいたとかいう説には、いずれも根拠がない。また、光秀は成算もなしに立ち上がったように言われることが多いが、当時の状況を見れば、必ずしも無謀な試みだったというわけではない。領主としての光秀は、なかなか評判がよかったようだ。彼は近江の一部と丹波を所領としていたが、その丹波の福知山には、光秀をまつった神社がある。江戸時代からあるものだが、それ以前から旧領民たちは、”これはお稲荷様でございます”とかなんとか言って、こっそりまつり続けていたらしいのである。
・本当は、多少の小競り合いはあって、前田利家の部下に戦死者も出ている。だから戦火を交えなかったわけではないが、それ以上におかしいのは、利家は別に柴田側が負けたから撤退したわけではないことである。利家がさっさと撤退してしまったから、柴田側は総崩れとなったのだ。本末転倒というのは、こういうことである。負けた勝家は、敗走中に利家のいた越前府中城に寄ったが、一言も彼を責めず、このうえは秀吉を頼んで家を全うしろと繰り返し言い残して去った。居城に帰ると、利家の入れていた人質も送り返してよこした。勝家は、昔から大衆的人気の乏しい人だが、人質にしてあった故主の側室まで磔にした秀吉などに比べたら、はるかに立派である。同時に利家という人には、何か他人に恨まれにくいようなところがあったのかもしれない。戦後、利家は、それまでの能登一国を安堵されただけでなく、新たに加賀の二郡を与えられた。負けた側にいて、こんなに厚遇された例はない。それだけ利家の<裏切り>の価値は高かったということであって、秀吉の天下をつくった功績の何割かは、利家のものといえるだろう。そういうこともあったし、若いころからのなじみでもある利家は、身寄りも少ない秀吉にとっては頼りがいのある人間だった。それで死ぬときには、彼に後事を託していった。利家のほうも、そのつもりでいたが、秀吉の死後半年あまりで本人も死んでしまった。もう少し生きていたら、秀吉の息子・秀頼を関白にして頭にいただく<前田幕府>みたいなものができたかもしれない。そうなっていたら、日本の歴史に江戸時代などはなかっただろう。
・関ヶ原の戦いのとき、家康に従って東国にいた山内一豊に奥さんが使いを送り、家康に味方するようすすめたというのは事実であろう。一豊は、奥さんの判断を信じて、書状の封を切らずに家康に提出した。さらに居城も提供すると申し出たので、家康の覚えはめでたかった。関ヶ原の本戦では、布陣の関係もあって格別の戦功がなかったにも関わらず、土佐一国を与えられたのは、そのためだといえる。これこそ、<内助の功>というものだが、それは東軍が勝ったがゆえの結果論にすぎない。この戦いの勝敗については、彼女などの知らない要因がいくらもあった。最近の研究を踏まえて考えると、西軍にも十分勝ち目はあったといえる。そうなっていたら、一豊は、小賢しい奥さんの言うことを信じたばかりに、遠江掛川6万石を棒に振ったマヌケな男として後世に記憶されていただろう。
・三河の松平家に生まれた家康は、隣に駿河の今川という大勢力があったため、幼いころから人質に出されて、たいへん苦労したということになっている。だが実際は、尾張の織田信秀(信長の父)に押されていた家康の父親が、今川家に応援を求めたところ、それなら証人(人質)を出してくれと言われたたけのことである。これは当時としては、ごく当たり前の慣行で、いやなら織田家に潰されたままである。父親の死後も今川家にいたが、当時の家康は、当主を失った松平家唯一の男性であった。それで今川義元は、その成人を待って家督を保証した扱いをしたもので、一種の「御恩」なのだという。義元の姪を娶らせたのも、今川の一門扱いをしたもので、こんな人質があるものではないというのが、新行さんの指摘である。家康は義元の死後、息子の今川氏真と戦って今川領の遠江を奪い取っている。これはだれが見ても、恩義を忘れた裏切り行為というほかはない。それをごまかしたいから、人質とされていじめられたなどという話を流布させたのだろう。
・一般に言われているように信長が家康の子である信康を殺せと指示したわけではなく、家康から相談を受けた信長が、家康の思うとおりにせよと答えたまでであるという。これは「当代記」という相当に信頼性の高い史料を踏まえたものであり、傾聴すべき指摘といえる。なお、家康が信長の意向を聞いたのは、信康がその娘婿だったからである。家康にしても、やみくもに息子とその母親である正妻を片づけたわけではなく、そうせざるをえない事情はあっただろう。この当時、家康は遠江浜松、信康は三河岡崎にいたが、信康を取り巻く勢力が大きくなりすぎたのかもしれない。この時代には親子の対立など珍しくないし、本人たちにその気はなくても、周りがそうしてしまうこともあった。いずれにしても、本当の理由は出すわけにいかないから、信長の指示でそうなったということにしてしまったのだろう。江戸時代になって、家康が神様になると、ますます妻子殺しなど言えないから、すべて信長にかぶせて、彼が悪かったということにした。世間も、あの横暴な信長なら、そのくらいのことはやるだろうと納得した。見に覚えのない非難を浴びた信長こそ、いい面の皮というものだ。
・通説では、上洛を目指して進撃してきた駿河の今川義元の大軍を
永禄3年(1560)5月19日、織田信長がわずかな人数で奇襲をかけて討ち取ったということになっている。つまり、このお話は、義元の上洛と信長の奇襲という2本の大きな柱から成り立っているのだが、義元が上洛を志して動いたという点からしてまず怪しい。戦国大名といえば、だれでも彼でも都に旗を立てることを考えていたように言われているが、それは事実ではない。ことに今川義元の場合には、本人に上洛志向があったかどうかは別として、この時点での上洛などありえなかった。義元は公称4万、実質2.5万くらいの人数で出ていったとされるが、京都までの間には、信長のほかにも立ちふさがる大名が何人もいる。また、畿内とその周辺は、実力者の三好長慶がしっかり押さえている。それらとまともに戦って撃破するには、この程度の人数では、とうてい無理である。ほんとうに上洛するつもりなら、あらかじめ根回しをして、各地の勢力と提携しておかねばならないが、義元はまったくそういうことをしていない。そのため、義元の上洛という話は、以前から疑われているところがあった。義元の目的は、さしあたり信長を打ち破って、尾張を取るためだったろうと言っている。しかし、実際問題としては、それでもまだ<重荷>だっただろう。信長の奇襲については、近年までだれも疑う人はいなかった。ところが藤本正行さんが、この奇襲説に異議を唱えた。藤本説の骨格は、ある意味で単純明快で、信頼できそうな史料に、まったく裏付けがないということである。もう少し具体的にいうと、これまでの桶狭間の物語というのは、江戸時代の初期に小瀬甫庵という作家が書いた「信長記」という書物に基づいていた。この「信長記」というのは、信長の旧臣・太田牛一という人の書いた「信長公記」を下敷きにして、その通俗版のようなかたちでつくられたものである。ところが、その「信長公記」には、義元が上洛を志していたとか、信長が奇襲をかけたとかいうことは、いっさい出ていない。それどころか、信長は今川勢に真正面から攻撃を仕掛けたとある。たまたまそれが当たったから義元を討ち取れたということである。義元が西進した目的は上洛などではなく、藤本さん流にいえば、戦国大名どうしのありふれた国境紛争にすぎなかった。そうであれば信長としても玉砕覚悟でかかってゆく必要など何もなく、なんとか今川勢を追い返してしまえば足りた。また、この時代に総大将が戦場で討死した事例などめったになかったことは当時の常識であるから、最初からそんな確率の低いことを狙って一発勝負の大バクチを打つことなどありえない。「信長公記」を読めばよくわかるが、信長は攻撃を仕掛けたとき、今川義元がどっkにいるかさえ、つかんでいなかった。ただ、彼には彼なりの計算があって、前夜からの戦いで疲れている今川軍の一部を自分の新鋭の兵力で叩けば、どうにかなると考えていたようである。実際にそのつもりで行動しているが、それは彼の勘違いだった。しかし、その勘違いが結果的に大当たりとなったのだから、世の中はわからない。そう言われても、2.5万もの今川勢が、2千くらいの織田勢に簡単に負けてしまうものかと思われる方も多いだろう。だが、遠路はるばるやってきた今川勢は、たくさんの補給要員なども必要であり、軍勢の半ば以上は非戦闘員だったと思われる。一方、居城の清須からまっすぐやってきた信長勢は、今川勢にくらべて戦闘員の比率がずっと高かったはずである。しかも、信長のほうは一団となっていたのに対して、義元のほうは各所に兵力を分散させていた。そのため、両者が桶狭間付近で衝突したときには、びっくりするほどの格差はなかったであろう。あとは成り行きというものである。
・三方原の戦いでの武田信玄に対する徳川家康は、積極果敢に打って出たわけでもなく、無謀だったわけでもない。野次馬気分で勝手に飛び出してしまった部下たちを引き戻そうと苦労しているうちに、自らも戦闘に巻き込まれてしまったということである。それが三方原の戦いの真相だった。ちなみに、家康は大阪夏の陣のとき、息子の義直の部隊の動きが気に入らないというので、義直につけてあった成瀬正成に使いをやって”腰抜けめ”と罵ったことがある。言われた正成も負けてはおらず、”そういう大御所(家康)だって、信玄にはたびたび腰が抜けたではありませんか”と言い返した。真実は、そんなところだろう。
・武田方には騎馬隊などといえるようなものは、そもそもなかった。この時代には、馬に乗れる人間そのものが限られていた。武田家の例でいえば、戦闘員に対する比率は1割未満というところだったが、これはほかの家も似たり寄ったりということである。そうした騎馬武者は、それぞれが負担する軍役に応じて、あちこちから二騎、三騎と集まってくるのだが、当然のことながら、共同生活も共通訓練も経ていない。集団行動など、とうてい無理である。しかも、馬に乗ってくるのは主人か将校クラスの者たちであるから、彼らだけひとまとめにしてしまったら、兵士たちを指揮する者がいなくなってしまう。
・長篠合戦が騎馬vs鉄砲の戦いだったかのような話の元をつくったのは、桶狭間や墨俣一夜城の箇所で取り上げた小瀬甫庵である。これをほかの軍記などが受け継ぎ、陸軍参謀本部なども採用した。それに近代ヨーロッパの戦術の知識などを加えて、都合よく練り上げられたのが、いまも定番的に流されているようなお話なのである。それでは現実の長篠の戦いは、どういうものであったかというと、ひと口で形容すれば、それは「攻城戦」であった。それも大軍の織田・徳川方が堅固な陣地を構えて立てこもり、小勢の武田方が、それを真っ向から攻撃するかたちであった。そうなった理由はもちろんあるが、このようなかたちになっては、小勢のほうが不利になったのは当たり前である。
・織田信長が天正6年(1578年)に鉄船(鉄板で装甲した船)をつくったという話は、ほとんど定説化しているといえる。学者は物書きの人たちがしきりにそういうことを言い、想像図なども流されている。これだけ言うからには、定めし立派な根拠があるのだろうと思いたくなるが、それがそういうわけでもない。信長関係の史料として、真っ先にあげられる「信長公記」には、信長が伊勢の九鬼嘉隆に大船6艘をつくらせ、滝川一益にも白船1艘をつくらせたとあるだけである。著者の太田牛一は、おそらく実物を見たことがあると思うのだが、装甲のことなどには、いっさいふれていないのである。宣教師のオルガンチノは、わざわざ堺まで見にいって船にも上がってみたらしいが、装甲についてはなにも述べていない。彼が力をこめて言っているのは、もっぱら搭載されていた大砲のことだけである。大船の建造にあたった九鬼家の家譜も同様で、火砲の威力については記しているが、装甲に関しては何の記述もない。それではみなさん何を根拠に鉄船々々と言っているのかというと、奈良多聞院の英俊という坊さんの日記である。そこに「鉄ノ船也」とあるのを、唯一絶対の証拠として、そういう主張を展開しているのである。もちろん、それが信じられるならそれでよいが、英俊は、オルガンチノのように船を実見しているわけではない。だれかから聞かされたたけである。こういうのは裁判でも、直接見聞したことより証拠としての価値は低い。実は、これから十数年後に豊臣秀吉は、ほんとうに鉄張りの船を造っている。だから、そういう発想は信長時代からあって、珍しくもないことだから関係者はだれも言及しなかったのだろうという見方はあるかもしれない。しかし、それは少しうがちすぎというものだろう。そんなものはなかったから書かなかったというほうが常識にかなっている。
・天正10年(1582年)6月2日朝、京都市内に泊まっていた織田信長は、家臣・明智光秀の反乱で殺された。これがいわゆる「本能寺の変」というものだが、それは長らく光秀の<単独犯行>と理解され、疑う者はいなかった。ところが近年になると、じつは光秀には、背後で彼を操った黒幕がいたとか、共謀した者がいたとかいう説が次々と現れた。いまでは、その種の説が何十通りもあって、従来の単独犯行説を圧倒する勢いである。テレビドラマや歴史番組でも、そうした視点で本能寺の変を扱っているものが多いが、こうした説は、すべて空中楼閣にすぎない。
・徳川家康が野戦の名手だったというのは、後世つくられた<神話>のようなものである。大きな野戦で家康が快勝した事例というのは、長久手の戦い<1584>くらしかない。このときは敵の失策に助けられた面はあるが、確かにめざましい勝ち方をしている。それ以外は、長篠の戦い<(1575)はもちろん、姉川の戦い(1570)にしても、家康の手腕といえるかどうかは怪しいところがある。逆に、三方原の戦い(1572)では、武田信玄に滅多打ちにされて、大敗北を喫している。それでも、この戦いの場合、兵力が違っていたという言い訳の余地があるが、大阪夏の陣(1615)は、そうはいえまい。何倍もの兵力を集めたうえで野戦に持ち込みながら、真田幸村たちに、本陣まで引っかきまわされて、危うく命を落とすところだった。
・関ヶ原の戦いで、大垣城に集まっていた西軍が関ヶ原に転進したのは、にわかの思いつきでも、まして家康の計略に引っかかったからでもなく、予定の行動であった。三成たちは、あらかじめ野戦築城を施していて、そこに東軍を引きつけて戦ったのである。このとき実際に戦闘に参加した兵力は、西軍が正味3万3000くらいだったのに対し、東軍は7万5000以上いたにも関わらず、西軍の戦線を突破できず、膠着状態に陥ってしまった。長篠の戦いのとき、織田・徳川側の野戦陣地を突破できなかった武田勢は、敗退せざるをえなかったが、同じことが関ヶ原でも起ころうとしていた。もちろん、織田・徳川軍の立場にあるのが三成たち西軍で、武田軍の立場にあるのが家康率いる東軍である。こうした東軍の窮状を救ったのは、西軍に裏切り者が出たことであった。具体的にいうと、小早川秀秋が、突然、西軍を背後から襲ったのである。秀秋に引きずられて裏切った連中もいたから、寝返り組は、かれこれ2万にも及んだ。これで形勢は一挙に逆転した。これほど鮮明なかたちではないが、毛利一族の吉川一族の吉川広家の不戦傍観というのも、勝敗を左右する大きな要因になった。彼は自隊だけではなく、事情を知らない毛利の本隊などを含む約2万8000を釘づけにしてしまった。賤ケ岳の前田利家がそうだったように、戦うべき者が戦わないというのは、消極的な裏切りにほかならない。実は秀秋の寝返りも、広家の不戦傍観も、あらかじめ家康側との密約があってのものだった。それでそういう手を打っておいた家康公はさすがにエライと<家康信者>の人たちは褒めちぎる。だが、ここで考えていただきたいのは、いくら約束したからといって、裏切りが確実に実行される保証など何もないということである。現実にも、秀秋は午前8時ころ始まった戦闘が正午に及んでも、なかなか決心がつかなかった。広家にしたところで、事情を知らない連中をいつまでも引き止めておけるものではない。もし秀秋が裏切るのをやめて、西軍のために戦っていたら、西軍有利は動かなくなるから、広家も傍観は続けられなくなる。仮に、彼ががんばったところで、ほかの連中は勝利の分け前にあずかるべく駆け出してしまうに決まっている。逆に、広家が押さえていた2万8000が早々と参戦していたら、これまた西軍の勝ちは見えたようなものだから、秀秋も裏切りなどやめて、勝ち馬に乗ろうとしたに決まっている。ということで、家康が謀略をめぐらしたのは事実にちがいないが、それは不確定要素だらけの話だった。そんな危ないことをアテにしなければならなかったのだとしたら、勝つべくして勝ったなどと言えるものではない。家康本人だって、そのくらいわかっていただろう。
・鉄砲が、天文12年(1543)はじめて大隅種子島に伝来したというのは、定説中の定説といったようなもので、教科書から歴史事典の類まで、必ずそう書いてある。もし試験の答案にこれと違うことを書いたら、間違いなく零点をつけられるだろう。それでも最近は反対説も出てきて、不動の定説もかなり怪しくなってきたが、もともと、かなり異論はあった。ただ、天文12年伝来という思いこみがあまりにも強すぎたうえに、そういう異論を唱えている文献の多くが江戸時代のものであったため、まともに相手にされることがなかったのである。しかし、同時代の史料のなかにも、注目すべきものはいくつかある。たとえば、応仁の乱の始まる前年の文正元年(1466)7月、足利将軍を訪れた琉球(沖縄)の人が、退出の際に「鉄放」を放って京都の人を驚かせたと相国寺の坊さんの日記に出ている。また応仁2年(1468)11月、東軍の陣営で「火槍」を見たことが別の坊さんの日記にある。それらにいう「鉄放」「火槍」は、種子島に伝来したとされる火縄銃とは違って、もう少し原始的な手砲のようなものだったかもしれないが、鉄砲の一種であったことは間違いない。
・一般的に馬がどの程度の大きさだったかは、いろいろな記録からも推測できるし、発掘された骨によって確認することもできる。それらによれば、古代から江戸時代まで、日本の馬が一貫して小さかったことは明らかである。大阪府四条畷市で発掘された5世紀後半のものとみられる馬骨は、体高約125センチだった。これは一体だけだが、かつて神奈川県鎌倉市の海岸から、鎌倉幕府滅亡の際(1333)に埋められたと見られるたくさんの馬骨が発掘されたことがある。それらを平均すると、129.5センチ程度だった。戦国時代のものとしては、山梨県甲府市の武田の居館址から出たものが120センチ程度、千葉市の生実城址から見つかったものが、130~140センチ程度である。丁重に埋葬されていたところから見ても、当時としては立派な部類だったのだろうという。文献資料から見ても、こうした数値は変わらない。豊前中津の小笠原家に仕えた人が、戦国から江戸初期にかけての同家の関係者や諸侯の乗馬など50頭あまりについて記したものがある。それによると、標準的なところは129~133センチ程度である。今日の分類では、体高147センチ以下はポニーの扱いであるから、戦国時代の馬は、ほとんどがポニーの部類だったことになる。
・馬が役に立ったのは、戦闘手段としてもより、むしろ人や者を運ぶ輸送手段としてであった。そのことは、江戸時代の学者もとっくに指摘している。武田居館址から出た馬骨は、前脚の筋肉が発達していて、重量物を背にして斜面を上り下りしていたことがうかがえるという。<武田の騎馬軍団>なおは根拠のない話だが、武田信玄がほんとうに騎馬に期待したとすれば、戦場での働きよりも山国の険路に耐える持久力だったともいえそうである。
・戦国時代の始まりとされる応仁・文明の乱(1467~77)から島原の乱(1637~38)までの史料約220点より、延べ1729人の負傷者(一部、死因の明確な戦死者を含む)を拾いだした。それらの負傷原因を多い順に並べると、矢傷38.6%、鉄砲傷22.2%、槍傷20.8%、石・つぶて傷11.3%となる。持ち出された武器の絶対数ではダントツの刀による傷などはわずか4.5%、薙刀傷などまで合わせてみても、刀剣類による傷は約7%にしかならない。これだけ見ても弓の有用性の大きさがわかるが、鉄砲が普及する以前は、もっとすごかった。鉄砲普及前の期間だけをとれば、矢傷は60.8%にも及んでいる。いかに戦国時代の戦場で弓が猛威を振るっていたかは明らかである。ついでにいうと、鉄砲導入後の期間では、鉄砲傷43.6%、矢傷17.2%となるから、主役の座を鉄砲に譲ったことがわかる。それでも刀剣類の傷9.3%よりまだずっと多く、槍傷の21.3%に続いている。
・今日の常識では槍はもっぱら突くもので、刀は両手で握って振り回すものということになっている。だが、これは江戸の太平時の槍術や剣術が植え付けた感覚で、戦国時代の常識では、そういうことにはなっていなかった。江戸時代の槍術では、左足を前にした左構えになるのがふつうである。ところが戦国時代かあるような古い流派には、しばしば右足前の右構えになるものがある。これはどういうことでしょうと、かつて武術家で時代考証家の名和弓雄さんにお尋ねしてみたことがある。名和さんのお答えは明快で、突くだけではなく、打ち叩くことも考えていた時代には、右構えにしたほうが便利だから、当然、それが基本になったのだという。
・宮本武蔵は戦国合戦も体験した人だが、「五輪書」のなかで、槍・薙刀のような大きな武器はやむをえないが、刀・脇差などは、いずれも片手で持つべきものだという主張を展開している。刀を両手でもってはよろしくない場面を武蔵は列挙する。場上のとき、駆け走るとき、沼・深田・石原・険しい坂道などにさしかかったとき、人混みに入ったとき、左手に弓・槍などの武器を持ったとき、いずれも片手で刀を使わざるをえない。これだけ都合のよくないケースがある以上、はじめから両手で柄を握らせるような他流の行き方は「実の道」ではないというのが武蔵の主張である。どうしても片手で打ち殺しにくいなら両手で使うのもよろしいが、片手打ちこそ基本なのであり、自分が二刀流を提唱しているのも、片手打ちに習熟させるためであるとまで彼は言っている。逐一チェックするまでもなう、武蔵の言っているところは、戦国の常識に合致していと見てよいだろう。槍の場合と同様、この常識も太平の時代には忘れられていたが、幕末維新の動乱で、また復活した。
<目次>
はじめに
第1章 怪しい人たち
1 存在が怪しい人
2 出自が怪しい人
3 経歴が怪しい人
4 名前が怪しい人
5 風貌が怪しい人
6 性格が怪しい人
7 評価が怪しい人
8 文字どおり怪しい人
第2章 歪められたヒーローたち
1 上杉謙信(1530~1578)
2 山中鹿介(1545?~1578)
3 織田信長(1534~1582)
4 明智光秀(?~1582)
5 豊臣秀吉(1537~1598)
6 前田利家(1537~1599)
7 山内一豊(1546?~1605)
8 徳川家康(1542~1616)
9 伊達正宗(1567~1636)
10 宮本武蔵(1584~1645)
第3章 ウソっぱちの名場面
1 桶狭間の奇襲戦
2 川中島の一騎打ち
3 墨俣の一夜城
4 三方原の戦いと家康神話
5 騎馬VS鉄砲・長篠の戦い
6 信長の鉄船
7 高松城の水攻め
8 「敵は本能寺にあり」と「是非に及ばず」
9 天王山と洞ヶ峠
10 石垣山の一夜城
11 勝つべくして勝った(?)関ヶ原の戦い
第4章 おかしな風景
1 そうそう天下取りなど望まなかった戦国大名
2 金銭を軽蔑しなかった戦国の武士たち
3 「二君に仕えず」という観念はなかった
4 百姓=農民ではない
5 めったに使われなかった実名
6 種子島に初伝したわけではない(?)鉄砲
7 竹槍・むしろ旗で一向一揆が勝てたはずがない
8 戦国の馬はみなポニーだった?
9 山城から平城への変化は鉄砲のせい?
10 武士たちの食事は質より量
第5章 不思議な合戦シーン
1 敵はもとより味方すら把握できなかったらしい
2 じつは長いあいだ戦場で威力を発揮していた弓矢
3 槍は振りまわすもの、刀は片手で扱うもの
4 鎧武者のチャンバラなどそうそうない
5 石をなめてはいけない
6 馬上の槍働きはとても不自由
7 甲冑着けて遠路の行軍?
8 びっしり並んで鉄砲を撃つことなどできたのか?
おわりに
面白かった本まとめ(2013年下半期)
<今日の独り言>
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