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ポンペイ(イタリア)へ行って来ました!

2016年12月12日 01時00分00秒 | イベント・外出
 ポンペイはイタリア・ナポリ近郊にあった古代都市で、79年のヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれたことで知られ、その遺跡は「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域」(長い!^_^;))の主要部分として、ユネスコの世界遺産に登録されています。


↑ヴェスヴィオ火山

このヴェスヴィオ火山は元々は3千m級の山だったようですが、この火山噴火で標高は1271mになったようです。
それほどすごい噴火だったのだと思います。

 ローマ人の余暇地として繁栄したポンペイの最盛期の人口は約2万人といわれます。
そのうち奴隷が8千人ほどだったようです。
紀元前8世紀から人が住み始め、ポンペイとはそもそも3つの集落という意味とのことです。

 18世紀に発掘が開始され、現在は主要な部分が有料で一般公開されています。

 現在のポンペイ市街は19世紀末に建設されたもので、その中心部は古代ローマ時代のポンペイとは少し離れています。

その古代ローマ時代のポンペイの道路は、碁盤の目状に通りがあり、大きな通りは石により舗装されていました。

道路の真ん中にはロバの馬車が通るようにできていたようです。
歩行者はその両側を歩き、歩行者は少し高い位置を歩くことになります。
また、道は真ん中が盛り上がっていて、雨水は道の両側に流れるように設計されていたようです。
素晴らしいですね。


↑ポンペイの道路(バックはヴェスヴィオ火山)

広場にはローマ帝国初代皇帝のアウグストゥスの名前が記された遺跡もあり、本当に当時の遺跡ということが分かります♪
ちなみに、8月は英語でAugustですが、このアウグストゥスが由来ですね♪
ちなみに7月のJulyはジュリアス=シーザーが由来ですね♪


↑アウグストゥスの名前が記された遺跡


 ポンペイの守護者は美と恋愛の女神ウェヌスであったようです。
娼婦の館などが発掘され、ここで男女の交わりを描いた壁画が多く出土したことから、現代ではポンペイは快楽の都市とも呼ばれるようです。

娼婦の館を示す男根の標識が至るところにありました^_^;)
ただ男根の標識は魔除けや繁栄という意味でも使われているようでした。


↑男根の標識


↑男根の標識


↑男女の交わりの絵画


↑男女の交わりの絵画


↑男女の交わりの絵画

料金は平均でワイン2杯分の2アッシであったが、場合によっては8アッシ、16アッシになるケースもあったようです。
ただカリゴラ帝の頃はここからも税金を徴収したようです。
また、ホモの店やMの店もそれら標識等からあったようです^_^;)

 それから、この町は商業も盛んな港湾都市である一方で、火山噴火まではぶどうの産地であり、ワインを運ぶための壺が多数出土されていることから、主な産業はワイン醸造だったようです(現在はポンペイ周辺で火山活動の地殻変動によって陸地が上昇し、相対的に水位が下がっているが、当時は港もあり海洋都市でもあったようです)。

なお、ワインの壷は熱を防ぐために、底が細くなっているのが特徴とのことです♪


↑ワインの壷等


それから大きな円形の野外ホールがあったのには驚きました!
約5千人が収容できたようです。
今でも実際に十分オペラなどコンサートができるようです。


↑円形の野外ホール 上から


↑円形の野外ホール 上から

前の方の席は、白い大理石となっていて、お金持ちが座っていたようです。


↑前の方の特等席等


↑円形の野外ホール 下から

 79年8月24日の午後1時頃にヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続けたようです。

 翌25日(噴火から約12時間後)の噴火末期に火砕流が発生し、ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まったとのことです。
降下火山灰はその後も続いたようです。

 噴火によって壊滅した後は二度と集落が作られることはありませんでしたが、その後1000年以上「町」という地名で呼ばれたほか、散発的に古代の品が発見されたので、下に都市が埋まっていることは知られていたようです。

 1738年にヘルクラネウムが、1748年にポンペイが再発見され、建造物の完全な形や当時の壁画を明らかにするために断続的に発掘が行われました。

 ポンペイとその周辺の別荘からは多数の壁画が発掘され、古代ローマの絵画を知る上で重要な作品群となっています。

 ポンペイの壁画の様式には年代により変遷が見られ、主題も静物、風景、風俗、神話と多岐にわたっているようです。


 ポンペイの壁画が豊かな色彩を失わなかったのは、一瞬にして5メートルの深さに町全体を飲み込んだ火砕流が、当時の人々の生活をそのままの状態で保存したためです。

 というのは火山灰を主体とする火砕流堆積物には乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれ、湿気を吸収するためです。

 この火山灰が町全体を隙間なく埋め尽くしたため、壁画や美術品の劣化が最小限に食い止められたようです。

火山灰は結局8m~20mの高さでポンペイを覆ったとのことです。

 当時の宗教儀式の様子を描いた壁画の鮮烈な色合いは「ポンペイ・レッド」と呼ばれているようです。


↑ポンペイ・レッドの壁画

 それからポンペイの悲劇が皮肉にも古代ローマ帝国の栄華を今に伝えることになったようです。

 ポンペイは建造物や街区が古代ローマ当時のままの唯一の町として知られています。

 ポンペイこそが最も純粋に古代ローマの伝統を守り、ほぼ直角に交差する直線の大通りによって規則的に区切られ、計画的に設計された町でだったようです。

通りの両側には家と店があり、建造物は石でできています。
居酒屋のメニューも残っていて、「お客様へ、私どもは台所に鶏肉、魚、豚、孔雀(くじゃく)などを用意してあります。」と記されているようです。

 79年の爆発のときに発生した火砕流の速度は時速 100 km 以上であり市民は到底逃げることはできず、一瞬のうちに全員が生き埋めになったようです。

 発掘されたときには遺体部分だけが腐ってなくなり、火山灰の中に空洞ができていました。
 考古学者たちは、そこに石膏を流し込み、逃げまどうポンペイ市民が死んだときの形を再現しました。
火山ガスで鼻をつまんで座りこんだものや倒れたものがありました。


↑石膏で作られた鼻をつまんで座りこんだ遺体


↑石膏で作られた横たわった遺体


↑石膏で作られた横たわった子供の遺体

また、飼われていた犬がもだえ苦しむ様子も生々しく再現されています。


↑犬の遺体

この様子は火砕流が一瞬にしてポンペイ市を埋め尽くしたことを示しています。

 この石膏像の制作により遺骨が損傷した為、ポンペイ市民の法医学的な調査は長らく滞っていましたが、オプロンティス荘近くの、商館と思われる建物の地下室から老若男女身分がバラバラ(居場所は身分別にある程度グループを作って固まっていた)な54体の遺骨が発見されました。
 彼らは火砕流からは難を逃れたましたが火山性ガスによる窒息で死亡し火山灰に埋もれていたようです。

 そのほかポンペイは1世紀の古代ローマ人たちの生きた生活の様子をそのまま伝えています。
 焼いたままのパンや、テーブルに並べられたままの当時の食事と食器、コイン、クリーニング屋のような職業、貿易会社の存在、壁の落書きが当時のラテン語をそのまま伝えています。

パンの石焼き場が残っていたのには興味を持ちましたね。
今と変わらないような焼き方のようです。
石臼もあります♪


↑石臼やパンの石焼き場


↑パン整形場?

 保存状態のよいフレスコ画は、当時の文化をそのまま伝えています。
当時のポンペイはとても活気のある都市だったようです。
 整備された上下水道の水道の弁は、水の量を調節する仕組みが現在とほとんど変わらず、きれいな水を町中に送っていたようです。
至るところにロバや人間の水飲み場がありました。
手を置くところの石の部分はすり減っていたので、かなりの人間がこの水飲み場を利用していたことがわかります♪


↑水飲み場


↑水飲み場

また当時水道管として鉛管が使われていたとは驚きです♪
金属の加工技術もあったんですね。


↑鉛管

 トイレが社交の場となっていたらしく二人掛けのトイレが存在し、トイレは奴隷とその主が共同で使用しており、トイレの壁に「見事だ」と奴隷による落書きが残された遺構もあるようです。

 発掘された排泄物や骨の調査から、身分によって食事の内容に違いはなく、皆健康的な食生活を送っていたようです。

 爆発時の町の人口は1万人弱で、ローマ人(ローマ市の住民)の別荘も多くあり、また彼ら向けのサービスも多くあったようです。

 Macellum(大きな食物市場)、Pistrinum(製粉所)、Thermopolia(冷たいものや熱いものなどさまざまな飲料を提供したバー)、cauporioe(小さなレストラン)などがあり、噴火直前までこれらが営業していた痕跡があります。

 2002年にはサルノ川河口にボートを浮かべ、ヴェネツィアのような船上生活をしていた人がいたことが判明するなど現在も新事実が続々と報告されています。

 しかしながら、ポンペイの建築物が発掘により白日の下にさらされたことにより、逆に止まった時計が再び動き出すかのごとく、雨風による腐朽が進行するようになったようです。

 2010年11月8日には「剣闘士の家」と呼ばれた建物が倒壊、翌2011年10月21日には「ポルタノラの壁」が倒壊しているとのことです。
残念ですね。

ポンペイの遺跡は、ローマ時代の当時の様子が分かって興味深く、とてもオススメです!!

お勧めなお話(2016年上半期)

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