このブログで紹介しましたが「リゾートあすなろ」というリゾート列車で八戸駅から大湊駅まで車窓を楽しんだ後に、3時間ほど時間があり、大湊駅に掲示の観光案内を見ると北洋館が良さそうなので、約4kmと遠いですが陸奥湾の景色を楽しみながら歩いて行ってみました♪
↑大湊駅
↑周辺地図
↑北洋館近くの地図
↑北洋館の案内
北洋館は、以下の4つに区分された資料館で、明治35年の旧海軍大湊水雷団開設から現在までの「北方の海上防衛」をテーマとした貴重な資料約1,000点も展示した資料館です。
・海軍室
・海上自衛隊室
・大湊地方隊室
・歴史室
想像以上に資料がかなり充実していて歴史の勉強にもなり素晴らしかったですね。
その現在の建物は、大正5年に海軍大湊要港部の水交支社(海軍士官の社交場)として建てられたもので、外装は近くの釜臥山から採石した石材を用いた当時としては珍しい洋風の由緒ある建物であり、この建物は昭和54年に日本建築学会から大正・昭和期の名建築として指定されているとはさすがです。
大湊駅からは海沿いを歩いていきました♪
陸奥湾の美しい青い海が広がっていましたね♪
素晴らしいです♪
↑陸奥湾
↑陸奥湾
かわいい猫もいました(^_^)
↑猫
また途中には、こんなに海に近いのに天然水が数カ所湧き出ていて自由に飲むこともできたので飲んでみましたが、冷たくてかなり美味しかったですね♪
これら天然水は「駅からハイキング」のスポットにもなっているようです♪
↑天然水
↑天然水
そして立派な釜臥山も見えていました♪
↑釜臥山
そして北洋館に到着です♪
↑北洋館入口
何と入館無料とは嬉しく、開館時間は9時~16時でしたね♪
現在は海上自衛隊が運営しているようです。
↑北洋館案内
また建物近くには石碑があり明治33年11月1日に大湊要塞地帯第二?として設立されたようです。
要塞だったんですね。
↑石碑
↑北洋館入口
館内に入ると手の消毒をして体温計測をして、住所氏名年齢等を記載します。
海上自衛隊の「すがしま」という掃海艇を紹介したカードを頂けたのは嬉しかったです♪
いずもや、しもきた等、全部で80種類以上あり、全国各地の海上自衛隊の施設見学などをした際にもらえるので、全種類集めてみてくださいとのことでしたね(^_^;)
↑海上自衛隊のカード
↑カード全種類
そしていきなり海軍が使用していた92式7.7ミリ機関銃の本物があったのには驚きました。
昭和54年に工事中に土中から発見されたようです。
実物なのでインパクトがあります。
↑92式7.7ミリ機関銃
それから当時の海軍志願兵募集のポスターもありましたね。
昭和18年~19年のポスターとのことで戦艦や飛行機があるのは興味深いです。
↑海軍志願兵募集のポスター
それからこの建物の由来の説明や資料館の趣旨などもありましたね。
今後も国土を防衛し、悲惨な戦争とならないよう歴史に学ぶことは大切だと思います。
↑建物の由来の説明
↑資料館の目的
そしていよいよ館内に入ります。
↑入口
館内全体としては以下の写真となります♪
↑館内全体
↑館内全体
まずは大正5年当時の建物の写真がありましたね。
周りは桜の木だったようです。
↑大正5年当時の建物の写真
それから海軍士官倶楽部「水交社」は横須賀や呉、佐世保、舞鶴など全国にあったとは知りませんでしたね。
↑全国の水交社
↑水交社の説明
それから、当時戦艦大和や武蔵ができる前までに日本海軍の象徴だった戦艦「陸奥」がありましたが、大正11年9月にはこの陸奥湾の大湊に入港したようです。
↑戦艦陸奥の説明
↑戦艦陸奥
↑陸奥の大湊入港
それから日露戦争のロシアのバルチック艦隊を破った日本海海戦の説明も充実していましたね。
↑日本海海戦
↑日本海海戦
↑日本海海戦
↑日本海海戦
↑日本海海戦
↑日本海海戦
日本海開戦後の樺太占領作戦の「北遣艦隊」説明もあり興味深かったです。
そういう事実があったとは知りませんでした。
↑日本海開戦後の樺太占領作戦
それから第二次世界大戦中に大湊を母港とした艦艇の説明がありましたね。
特にアリューシャン攻略作戦等で活躍したようです。
↑大湊を母港とした艦艇
また昭和20年8月現在の大湊警備府内部隊配置図とは終戦時で興味深いです。
↑昭和20年8月現在の大湊警備府内部隊配置図
それから昭和20年7月~8月は東北地方と北海道は延べ6,000機以上の空襲を受けましたが、その前には米軍により大湊の辺りは航空写真を撮影されていたようです。
↑大湊海軍基地の航空写真
↑大湊湾周辺の航空写真
そして終戦直後の大湊湾内の海防艦の写真は興味深く、船体が傷つき汚れ死闘を物語っているようです。
これら海防艦は米軍の潜水艦を8隻も沈めているとは知りませんでしたね。
また、これら海防艦は戦後も機雷掃海活動に貢献したとのことです。
↑終戦直後の大湊湾内の海防艦の写真
それから真珠湾攻撃の資料も充実していましたね。
真珠湾攻撃時の極秘電報複写も興味深いです。
↑真珠湾攻撃
↑真珠湾攻撃
↑真珠湾攻撃時の極秘電報
第5艦隊(北方艦隊)の旗艦は当初は軽巡洋艦「多摩」で、昭和17年5月からは重巡洋艦「那智」となったようです。
↑軽巡洋艦「多摩」
↑重巡洋艦「那智」
↑重巡洋艦「那智」の模型
またアッツ島及びキスカ島の占領やアッツ島沖海戦の内容はこの北方艦隊が関与したようで興味深かったです。
↑アッツ島及びキスカ島の占領やアッツ島沖海戦
そしてアッツ島の玉砕やキスカ島からの無血撤退も興味深いです。
5200名も撤退させたとは驚きです。
↑アッツ島の玉砕やキスカ島からの無血撤退
↑キスカ島撤退作戦行動図
↑キスカ島撤退作戦
それから大湊から出撃して、中型空母「隼鷹」や軽空母「龍驤」によりダッチハーバーの米海軍基地を空襲したようです。
重巡洋艦の高尾や摩耶も同行だったんですね。
↑ダッチハーバー空襲の軍艦
そして13ミリ機関銃や96式25ミリ対空機関銃もありました。
かなり重そうで本物はインパクトがあります。
↑13ミリ機関銃や96式25ミリ対空機関銃
↑96式25ミリ対空機関銃
それから大湊からは北方海域に潜水艦が出撃していたとは知りませんでしたね。
アリューシャン方面など広大な北太平洋海域で活動していたようで、20隻以上の潜水艦が活動していたようです。
伊25はアメリカ西岸を砲撃・爆撃し、伊168はミッドウェー海戦で米空母ヨークタウンにとどめを刺したようです。
↑大湊から出撃した潜水艦等
↑大湊から出撃した潜水艦等
それから海軍の主な特攻兵器とその製造台数があり、桜花は750機も製造されていたとは知りませんでしたね。震洋は6200隻とは凄い数です。
↑海軍の主な特攻兵器
それからマリアナ沖海戦の大敗北もありました。
↑マリアナ沖海戦
終戦後はすぐに米海軍により緊急占領されたようで、昭和20年9月9日に大湊湾で北緯40度30分以北の緊急占領の極地降伏調印式が行われ、直ちに武装解除と非軍事化が行われ、9月下旬には米陸軍の上陸が行われたとは知りませんでした。
↑終戦や米海軍の緊急占領等
軍人軍属など当時約8万人いた大湊地域では、終戦後は非軍事化が行われて人口が一挙に1万人程度まで減ったとはなるほどです。
↑終戦直後の大湊駅
それから当時の写真も興味深いです。
大湊の海軍電話交換所からは当時全国に直接電話がつながっていたとは、重要な地域ということが分かります。
↑当時の写真
↑当時の写真
それから海上自衛隊になってからの写真なども充実していましたね。
保安庁警備隊として大湊地方隊が昭和28年に発足したようです。
↑大湊地方隊発足
平成12年3月には有珠山噴火に伴う災害派遣も行われたようです。
↑平成12年3月には有珠山噴火に伴う災害派遣
また「湾岸の夜明け作戦」のペルシャ湾掃海派遣も1991年に行われたようです。
↑湾岸の夜明け作戦
護衛艦「ひゅうが」の模型などもありましたね。
↑護衛艦「ひゅうが」
それから中国の北京から太平洋を見た地図もあり、視点を変えてみることは大切かと思いました。
周りの島は日本や台湾、フィリピンで囲まれています。
↑中国の北京から太平洋を見た地図
それから歴史室には、幕末・明治維新時の函館戦争の説明もありましたね。
↑歴史室
↑歴史室
↑函館戦争の説明
その他にもいろんな資料が展示されていましたが割愛したいと思います。
北洋館を後にして、綺麗な陸奥湾を見ながら歩いて大湊駅に戻りました♪
潮風がとても気持ちよかったです♪
北洋館は入館無料ですし、日本海軍や海上自衛隊に関する資料が豊富で歴史の勉強にもなりとてもオススメです!