窓にたたきつける雨粒の音が響く。唸りをあげた風が、瞬時に通過する。まさに嵐の吹き荒れる中、出発。
家を出る直前に聞いた朗報、台風18号、豊橋付近に上陸。ボクはこのニュースを聞いて、これで墓前祭はできると確信した。台風は上陸すると勢力は弱まり、速度をあげる。となると、11時30分には、風は残るが、少なくとも雨はやむ、と思った。
猛烈な嵐の中、静岡に向かう。途中電話が何度もかかる。「中止にした方がよいのでは・・・」とか、「これでやるのか?」という問い合わせなど。しかしボクはもう決行する決意だ。その答えは、「大丈夫です。今はひどいかもしれないけれど、必ずやれます」であった。
しかし静岡市に近づいても風雨はやまない。講師の宿泊しているホテルに到着する頃になって、やっと雨は小降りになった。
関係者の集合場所に着いた頃には、雨はやんでいた。しかし交通機関はストップしている。参加者は少ないだろうが、それはしかたがない。
沓谷霊園に行くとすでに数人がいた。三々五々人が集まり、11時35分開始。献花用にこちらが用意したのは、赤いバラ。講師の方が、名古屋の橘宗一墓前祭関係者から預かった白い菊を持参されたので、それも一緒に献花。参加者は40人弱。
そして2時。追悼集会は始まった。参加者は約70名。ボクは、墓前祭についてのこれまでの歴史を話し、再度墓前祭実行委員会を組織することを提起した。
その後、大杉栄の甥の大杉豊氏が、「大杉栄から受け継ぐこと」というテーマで講演された。
ふと窓の外を見たら、青空が見えた。
大杉、野枝、そして今まで中心となって墓前祭を主宰してきた市原さんらが、墓前祭・集会の成功のために手をさしのべてくれたのかもしれないと思った。
17時、盛会裡に集会は終わった。
野枝は、「吹けよ、あれよ、風よ、嵐よ」と書いている。大杉と野枝の子、伊藤ルイの葬儀のときも嵐だったという。
大杉や野枝には、嵐が似合うのかもしれない。しかし、その嵐に負けるわけにはいかない。
ボクらは、どのような嵐であっても、立ち向かう。なぜか。嵐は必ず去るからだ。嵐が去って、ボクらは残る。
家を出る直前に聞いた朗報、台風18号、豊橋付近に上陸。ボクはこのニュースを聞いて、これで墓前祭はできると確信した。台風は上陸すると勢力は弱まり、速度をあげる。となると、11時30分には、風は残るが、少なくとも雨はやむ、と思った。
猛烈な嵐の中、静岡に向かう。途中電話が何度もかかる。「中止にした方がよいのでは・・・」とか、「これでやるのか?」という問い合わせなど。しかしボクはもう決行する決意だ。その答えは、「大丈夫です。今はひどいかもしれないけれど、必ずやれます」であった。
しかし静岡市に近づいても風雨はやまない。講師の宿泊しているホテルに到着する頃になって、やっと雨は小降りになった。
関係者の集合場所に着いた頃には、雨はやんでいた。しかし交通機関はストップしている。参加者は少ないだろうが、それはしかたがない。
沓谷霊園に行くとすでに数人がいた。三々五々人が集まり、11時35分開始。献花用にこちらが用意したのは、赤いバラ。講師の方が、名古屋の橘宗一墓前祭関係者から預かった白い菊を持参されたので、それも一緒に献花。参加者は40人弱。
そして2時。追悼集会は始まった。参加者は約70名。ボクは、墓前祭についてのこれまでの歴史を話し、再度墓前祭実行委員会を組織することを提起した。
その後、大杉栄の甥の大杉豊氏が、「大杉栄から受け継ぐこと」というテーマで講演された。
ふと窓の外を見たら、青空が見えた。
大杉、野枝、そして今まで中心となって墓前祭を主宰してきた市原さんらが、墓前祭・集会の成功のために手をさしのべてくれたのかもしれないと思った。
17時、盛会裡に集会は終わった。
野枝は、「吹けよ、あれよ、風よ、嵐よ」と書いている。大杉と野枝の子、伊藤ルイの葬儀のときも嵐だったという。
大杉や野枝には、嵐が似合うのかもしれない。しかし、その嵐に負けるわけにはいかない。
ボクらは、どのような嵐であっても、立ち向かう。なぜか。嵐は必ず去るからだ。嵐が去って、ボクらは残る。