浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

読売にも、こういう記事を書く記者がいるのか!

2013-09-23 20:37:52 | 読書
 「存在消された謎の岬、絵はがきは要塞司令部検閲」という記事だが、なかなか味があるし、戦時体制はどういうものかを垣間見させる。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130922-OYT1T00290.htm?from=main2
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【本】『大杉栄追想』(土曜社)

2013-09-23 19:52:50 | 読書
  『改造』1923年11月号の特集「大杉栄追想」の全編を掲載した本。1000円という値段だが、それ以上の価値がある。大杉栄という人間に接していた人々が、大杉という人物をどう捉えていたのかが記されていて、それによって大杉という人物がいかなる人物であったのか、を探ることができる。

 総勢16人の文が並んでいる。書き手も個性があるから、それぞれが個性的な文だ。個性的ではあるが、共通しているのは、大杉はこれらの人にとても愛されていたということがわかる。この本に記されている内容は、大杉理解には不可欠のものだと思う。

 ボクは、彼の思想的な特質は、大杉自身の人格に全面的によっていて、無政府主義という思想と言うより、大杉の独自的な思想であったといえるのではないかと思う。

 そういう大杉の人格を探るとき、周辺にいた人々との交流や、彼らの印象を知ることがとても大切なのだと思う。

 ああいう社会であっても、自由に生きた大杉は、一面子どもっぽいところがあるが、他方大人物にしかできないような行動も見受けられる。こういう言い方でいいのかどうかわからないが、要は無鉄砲だと言うことだ。

 後先のことを考えないで行動する、ボクもそういう生き方をしたいものだ。いろいろなしがらみが人間にはつきまとっているが、そういうものをいささかも顧慮しないで生きていくということは、自由で、素晴らしいと思う。

 ボクは今、とてもきつい10回の歴史講座(毎週1回)を引き受け、七転八倒の苦しみを感じながら引き受けた責任をはたしつつあるが、そのために大いなる自由を失っている。

 自由よ、自由よ・・・・

 
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オリンピックと原発事故

2013-09-23 11:51:31 | 読書
 次の記事も見逃せない。ボクの予想と同じだ。オリンピックはおそらく原発事故の過酷化によって返上せざるを得なくなる。4号機が、その引き金を引くだろう。

 しかしその時には、日本は勿論、世界中が放射能に汚染されるだろう。日本は、人類社会を崩壊に導いたサタンだと歴史書に(人類がその後も生き続けることができるのなら、という条件付きだが)書かれることだろう。

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/2020-9697.html
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オリンピックは何のため?

2013-09-23 11:46:13 | 読書
 次の記事は、とても重要だ。日本という国の本質がどういうところにあるのかを示している。なさけない国だ。こういう指摘を、マスメディアは報道してこなかった。権力と溶融しているメディアは、金儲けができるとほくそ笑んでいる。
 日本人の理性は、少数に宿るのみだ。

 下記は、『東京新聞』の記事。

「神宮の森 美観壊す」 20年五輪 新国立競技場巨大すぎる 
2013年9月23日 朝刊

 二〇二〇年東京五輪のメーン会場となる新国立競技場をめぐり、世界的建築家の槇文彦さん(85)が計画の大幅な見直しを求める論文を発表した。新競技場は自然の美観が保存されている東京・明治神宮外苑の風致地区に立地する。槇さんは、現計画では巨大すぎて歴史のある景観を壊すと懸念。莫大(ばくだい)なコストがかかる恐れもあるのに、関連した情報が知らされていないと指摘する。  (森本智之)

 「新競技場は数字(延べ床面積)だけ大きくて、必要かどうか疑わしい機能が多い」

 槇さんが異議を唱える最大の理由は、新競技場の巨大さにある。先月、日本建築家協会の機関誌『JIAマガジン』に問題を指摘する論文を発表した。

 文部科学省所管の独立行政法人日本スポーツ振興センター(JSC)によると、「世界一のスタジアム」を目指した新競技場は、新宿区霞ケ丘町の現国立競技場を取り壊して建て替える予定だ。施設を大幅に拡充。開閉式の屋根を備え、観客席を五万四千席から八万席に増やすほか、スポーツ関連の商業施設や博物館・図書館などを加え、延べ床面積は五・六倍の二十九万平方メートルにふくらんだ。

 神宮外苑は崩御した明治天皇をたたえようと、内苑(ないえん)である明治神宮とともに整備され、一九二六(大正十五)年に完成。東京で初の風致地区に指定され、景観を守るため開発が規制されてきた。

 ところが、高いところで高さ七十メートルに達する巨大な競技場を建てるため、都は今年六月に高さ規制を緩和。十五メートルから七十五メートルへと五倍に緩めた。

 これに対し、槇さんは「外観上、新競技場は大部分がコンクリートの壁になる。これでは単なる土木加工物。歴史的に濃密な地域の美観を壊してしまう」と危惧。「景観を守るために作ったルールを自ら否定した」と、都を批判する。

 二十九万平方メートルの床面積は、昨年のロンドン五輪のメーンスタジアムと比べ約三倍の特大サイズ。しかし、敷地面積はロンドンの七割しかない。

 槇さんは、コストの問題も指摘する。

 国際基準では、五輪の主会場に使う競技場は観客席が六万人以上必要だ。だが槇さんによると、ロンドン五輪では八万席のうち六割以上は仮設だった。

 「全て本設にしなくても五輪はできる。終わった後、八万人もの観客席がどれだけ使われるのか。十七日間の祭典に最も魅力的な施設は次の五十年、百年後、都民にとって理想的とは限らない」

 試算したところ、観客席の一部を仮設にし、過剰な駐車スペースや余分な関連施設を減らすだけで、少なくとも数百億円のコストが削れるという。

 槇さんは「必要な情報が事前に十分に公開されず、国民が計画の是非を判断する機会が与えられていないことが問題」と指摘。有志の建築家らとシンポジウムを開いたり、要望書を提出したりすることを検討している。

 JSCの担当者は「各界の代表にお願いした有識者会議で、必要な意見は吸い上げている。計画は確定というわけではなく、必要なら見直す可能性はある」と話している。

<まき・ふみひこ> 東京都出身。東京大で故丹下健三氏に師事。米ハーバード大大学院修了。「モダニズム建築」の旗手として知られ、主な作品は東京・代官山の複合施設ヒルサイドテラス、幕張メッセ、名古屋大豊田講堂など。建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞を師の丹下氏に続き、日本人として2人目の受賞。イスラエルのウルフ賞や米建築家協会ゴールドメダルなど受賞多数。

<国立競技場の建て替え計画> 1958年に完成した現競技場は老朽化が進み、五輪会場の基準を満たしていない。2016年五輪の招致では晴海地区にメーンスタジアムを新設する計画だったが、交通アクセスの悪さなどが指摘され、現在地に建て替えることが決まった。新競技場には、VIP席・個室席(2万5000平方メートル)、スポーツ博物館・商業施設(計2万1000平方メートル)、地下駐車場(900台分)なども計画。15年秋の着工、19年春の完成を見込む。総工事費は少なくとも1300億円かかる見通し。
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溶融と反骨

2013-09-23 07:52:56 | 読書
 まったく関連がない語を、ふたつ並べた。もちろん意味なく並べたのではない。

 東京からの帰途、本田靖春の『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社文庫)を読みながらメディアの世界について考えた。

 いきなりではあるが、要は権力との関係をこの語で表現したくなったのである。

 本田靖春は、もと読売新聞の社会部記者。本は、彼が読売に就職したところまで読み進んだところだが、ところどころに、権力(強制力をもってわれわれに迫ってくる機関)に対する反骨精神が記されている。

 そんなこと別にとりたてて指摘するほどのことではないではないかと思うのは、年齢を重ねた者たち。確かにもうすでに「退役」した記者たちには、共通して、何らかの「反骨」があった。だが、今はそうではない。

 以前は、権力に対し一定の距離感を保持し、権力が牙をむいたり、悪をなしたりするんではないかという警戒感をもっていた。そしてそれは、普通の感覚であった。誰もが多かれ少なかれ抱いていたものだ。

 ところが、最近はそうではないようだ。つまり権力に対して警戒感を持つのではなく、権力ときわめて親和的となり、ひどい場合は思考が権力と溶融するようになっている。

 メディアの役割は、以前は権力の監視であった。今はそうではなく、権力者の思考で、権力者の意向を「下々に」伝える役割を果たすようになった。

 つまりメディア関係者の「権力者との溶融」という現象である。

 しかしこれは決して社会のあり方と無関係ではない。「権力者との溶融」という状況に浸る普通の人々が増えた。いや増えたというのは語弊があるかもしれない。そういう人々は、おそらく昔からいた。だが、常に声をあげていたわけではなく、選挙の際にそういう思考を示しているだけだった。要は目立たなかったのだ。

 ところがインターネットなどが普及し、そうした思考を公表する場ができたのだ。目立つようになった。それが表面にじわじわと出始めると、それにつれて目立たなかった人々が我も我もとでるようになった。

 メディアも営利企業である。とくに最近は、カネを儲けて何が悪いという風潮がある。メディアも同様のスタンスを持ち始めている。

 メディアは、営利のためには、表面に出てきた「権力者と溶融する」人々にも迎合しなければならない。すでに週刊誌などは、そうした方向へと大胆に進んでいる。

 今度は、新聞の番だ。産経、読売、日経、そして後に朝日が続く。もちろん共同も足並みを揃え始めている。

 この動き、過去にあったことだ。戦時下の新聞を見れば良い。完全に「溶融」状態だ。またぞろそういう方向に向かい始めた。

 1945年。ドイツでは、権力と「溶融」した新聞は消えた。しかし、日本では、権力が温存されたように、新聞も残った。ただ、その際、権力も新聞も一応は「反省」を口にした。

 だが権力がその「反省」をかなぐり捨てているように、新聞も忘れてしまったようだ。そして、目立たなかった人々が、表に出て、騒ぎ始めている。その人たちに迎合するように、あらゆるところで「溶融」が大きな力を持ち始めた。

 いつか来た道、という言葉がある。

 「反骨」は、生き残ることができるのだろうか。
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三島

2013-09-23 07:23:03 | 読書
 東京駅はいつも混雑している。

 東京からの帰り、ボクはいつも改札口の手前で見上げる。どの新幹線に乗るかを決めるためだ。浜松までは「こだま」なら2時間、「ひかり」なら1時間半。いずれにしても、座って帰りたい。

 ボクは、「ひかり」よりも「こだま」に乗る。座れる確率が高いからだ。

 「こだま」と「ひかり」の所要時間の差の30分が惜しいといって、「ひかり」を利用する者が多いようだ。しかし、ボクは「君はいつも、30分という時間を無駄にしないで生活しているのかね」と皮肉でも言いたくなる。

 ボクにとっては、乗車時間は読書タイムである。家に居ても、時間があれば活字を追っているから、30分はもったいない時間ではない。

 昨日も、東京往復の際、『大杉栄追想』(土曜社)、本田靖春『我、拗ね者として生涯を閉ず』上(講談社文庫)を読んだ。前者は読み終えたから、いずれ紹介しよう。

 さて「こだま」に乗ると、驚くことがある。

 三島までは座席は乗客で埋まってるのだが、その後はほとんどが空席となることだ。三島は、東京の通勤圏・通学圏であるということのようだ。三島から東京までは、1時間足らず、運賃も、したがって浜松/東京間の半分くらいだろう。なるほど、東京に通うことに障碍はない。

 最近は東京に行く機会も減ってきた。10年ほど前は、調査のために国会図書館や防衛庁の図書館によく通った。前者については、今は家に居てインターネットで資料をみることができるようになり、行く必要が減った。後者は、今は戦争に関する研究テーマを持っていないからだ。

 東京は、ある意味「魅力」ある街であると同時に「醜悪」な街でもある。とにかく住むところではない。

 三島周辺に住み、必要に応じて上京するというのが良いのかもしれない。
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