ボクは、長い間、差別の問題を歴史的に研究してきた。被差別への差別、「在日朝鮮人」への差別など、これからはハンセン病者に対する差別を研究しようとしているが、時間がないため、足踏みしている状態だ。
何度かここでも書いてきたが、差別というのは二種類あるとボクは思っている。日常的に、泡のように浮かんでは消えていく差別と、社会的に多くの人が陰に陽に抱いている社会的差別と。前者の差別は、こういうたとえはしたくはないが、理解をすすめるために仕方なく表現するのだが、たとえばすれ違う相手を見て「いけ好かない奴」とか「ブス!」とか思ったりすることだ。一時的に何者かを差別的に見るということは、日常的にあるだろうと思う。しかしこれはまさに「一時的」であって、消えていく。
だが社会的差別は、別に表現しなくても、いつのまにか意識の中に入り込んでいるものだ。現在の若者の被差別に対する差別意識は解消へと向かっていると信じたいが、どうだろうか。「在日朝鮮人」はボクらの周辺にいるけれども、彼らは本名があっても、日本人らしい名前、通名というが、それで通していた。最近、姜尚中のように本名で堂々とテレビなどに出演する人も増えてきた。よいことだ。以前は、通名で生きていないと何かと差別されていたのだ。
ボクは、今までの研究を通して、社会的差別は、その背景には必ず公的権力による差別的な制度や取り扱いがある、と主張してきた。差別をなくすためには、まずもって公的権力による差別をなくすことが必要だと。まだまだではあるが、公的なそういう差別は、非合理であり、正義に反するために、少しずつなくされてきたことは確かだ。「在日」に対する指紋押捺の問題もクリアされてきた。
しかし、以前なら、差別というのは公然と表出されるということはなかった。どちらかというと隠然と、隠されたかたちで差別は語られてきた。なぜか。人々は差別は正義に反するという意識を持っていたからだ。差別はいけないことだという感覚があったからだ。
ところが、近年、差別を公然と街頭で主張したり、あるいは週刊誌やテレビなどで、公然と差別的発言を表出する者が、増えてきている。ボクはそれは品性の下落だと思うが、ひどいと思うのは、月刊誌や週刊誌のメディアなどが率先してやっていることだ。
たとえば産経新聞社が発行している月刊誌『正論』の10月号の特集は、「韓国につける薬はあるのか」である。隣国を批判するなと言いたいのではない。批判することもあろう。だがこういう表現は、あえて対立を煽るような書き方ではないだろうか。
一昔前までは、理性的な議論をしようという雰囲気があった。何時の頃からか、そういう雰囲気はなくなり、議論というよりも「喧嘩」のような、過激な、感情に訴えるような表現をつかったものが増えてきた。
なぜそうなったかを考えるとき、ボクは新自由主義的な経済にぶちあたるのだ。新自由主義という、弱肉強食を原理とするような競争が社会の成員に強制されるようになり、社会の成員に余裕(ゆとり)が失われ、過密な、それでいてあまり給与が伸びていかない生活が当たり前のようになってきた。
そういう生活に対する不満が、ラクして生きているようにみえる、たとえば公務員や、生活保護を受給している人々への怨嗟となる、さらにメディアの後押しを得て、差別的な表現をしていく、メディアが公然と差別的な表現をしているので、隠れることなく堂々と差別を叫ぶようになる。
そこには理性的な検証や議論は皆無である。
だが、こういう社会は、悲しい。
何度かここでも書いてきたが、差別というのは二種類あるとボクは思っている。日常的に、泡のように浮かんでは消えていく差別と、社会的に多くの人が陰に陽に抱いている社会的差別と。前者の差別は、こういうたとえはしたくはないが、理解をすすめるために仕方なく表現するのだが、たとえばすれ違う相手を見て「いけ好かない奴」とか「ブス!」とか思ったりすることだ。一時的に何者かを差別的に見るということは、日常的にあるだろうと思う。しかしこれはまさに「一時的」であって、消えていく。
だが社会的差別は、別に表現しなくても、いつのまにか意識の中に入り込んでいるものだ。現在の若者の被差別に対する差別意識は解消へと向かっていると信じたいが、どうだろうか。「在日朝鮮人」はボクらの周辺にいるけれども、彼らは本名があっても、日本人らしい名前、通名というが、それで通していた。最近、姜尚中のように本名で堂々とテレビなどに出演する人も増えてきた。よいことだ。以前は、通名で生きていないと何かと差別されていたのだ。
ボクは、今までの研究を通して、社会的差別は、その背景には必ず公的権力による差別的な制度や取り扱いがある、と主張してきた。差別をなくすためには、まずもって公的権力による差別をなくすことが必要だと。まだまだではあるが、公的なそういう差別は、非合理であり、正義に反するために、少しずつなくされてきたことは確かだ。「在日」に対する指紋押捺の問題もクリアされてきた。
しかし、以前なら、差別というのは公然と表出されるということはなかった。どちらかというと隠然と、隠されたかたちで差別は語られてきた。なぜか。人々は差別は正義に反するという意識を持っていたからだ。差別はいけないことだという感覚があったからだ。
ところが、近年、差別を公然と街頭で主張したり、あるいは週刊誌やテレビなどで、公然と差別的発言を表出する者が、増えてきている。ボクはそれは品性の下落だと思うが、ひどいと思うのは、月刊誌や週刊誌のメディアなどが率先してやっていることだ。
たとえば産経新聞社が発行している月刊誌『正論』の10月号の特集は、「韓国につける薬はあるのか」である。隣国を批判するなと言いたいのではない。批判することもあろう。だがこういう表現は、あえて対立を煽るような書き方ではないだろうか。
一昔前までは、理性的な議論をしようという雰囲気があった。何時の頃からか、そういう雰囲気はなくなり、議論というよりも「喧嘩」のような、過激な、感情に訴えるような表現をつかったものが増えてきた。
なぜそうなったかを考えるとき、ボクは新自由主義的な経済にぶちあたるのだ。新自由主義という、弱肉強食を原理とするような競争が社会の成員に強制されるようになり、社会の成員に余裕(ゆとり)が失われ、過密な、それでいてあまり給与が伸びていかない生活が当たり前のようになってきた。
そういう生活に対する不満が、ラクして生きているようにみえる、たとえば公務員や、生活保護を受給している人々への怨嗟となる、さらにメディアの後押しを得て、差別的な表現をしていく、メディアが公然と差別的な表現をしているので、隠れることなく堂々と差別を叫ぶようになる。
そこには理性的な検証や議論は皆無である。
だが、こういう社会は、悲しい。