浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】伊藤ルイ『必然の出会い 時代、ひとをみつめて』(影書房)

2013-09-19 22:04:25 | 日記
 クリアな明晰な文。扇情的なところはまったくなく、月の光に照らされたような文。だが書かれている内容は、悪に対する燃えあがるような正義感とそれに基づくアクションである。

 著者は、大杉栄と伊藤野枝の娘。本当の名はルイズ。1922年に生まれているから、両親を知らない。ルイズは、野枝の父母に育てられた。

 大杉豊さんは、ルイこそ父母の血を継いでいるというようなことを話されていたが、おそらくそうだろうと思う。悪は全国各地に、様々な形になって出現している。その悪と闘うために、北海道から沖縄まで、足を運んでいる。

 何というエネルギー。

 本書に書かれた文では、それぞれの問題について、的確な批評を行っている。

 本書は三部に分かれている。第一部は、「・・・どなたも・・・」である。ボクはこれがもっとも味がある文だと思う。ルイという人間の本質、それは素晴らしく人間的であるが、それが素直に描かれている。いろいろな人物との交流の中で、ルイが感じとったもの、聞いたこと、そういうものが普遍的なものに高められて、文の中に鎮座している。

 第二部は、いわば闘いの記録だ。文はおとなしいのであるが、内容はすごい。ルイのエネルギーに圧倒される。

 第三部は、「憶い形見」として。ルイの周辺にいた、父母と関わりある人々への追想。これもよい。大杉の周辺にいた人々の満ちあふれた優しさが語られる。アナーキストとはいかなる人間であるかが示されるのだが、とっても良い人たちだということがわかる。

 発行は、1991年。そして1996年に、ルイは亡くなっている。

 なお本書は、図書館から借りた。
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満月

2013-09-19 20:49:06 | 日記
 夕方、畑に出ていた。さつまいもを掘り出していたのだが、ふと東の空を見ると、大きな月が浮かんでいた。その大きさに驚いて、隣で作業をしていたオバサンに、「ほら、月が出てきましたよ」と言ったら、「今日は満月ですよ」といわれた。なるほど、それらしい月が、少し重そうに動き始めたように見えた。

 さすがに今夜の戸外は、月の光に照らされていて、明るい。そういえば、月の光に照らされた夕顔の花は、とても美しい。



夕顔の花言葉は、はかない恋・夜の思い出・夜・魅惑の人・逆境を克服する力だそうだ。ボクとしては、「はかない恋」を選びたい。

 『源氏物語』にも、夕顔が登場する。

心あてに それかとぞ見る白露の 光添へたる夕顔の花

寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 花の夕顔

 夕顔は、源氏の恋人六条御息所の物の怪により殺されてしまう、はかない女性。

 ボクは毎年、この夕顔を咲かせている。毎年、種をとり、春にそれを蒔き・・・というように。

 夕顔は、夜の間、誰にも見られることなく咲き続ける。しかし今日は、満月の月の明かりが、夕顔に優しい光を注ぎ続けるだろう。

 満月の夜、夕顔は、その美しさをいちだんと際立たせる。色彩はなくてもよい、ただその純粋ではかない白さえあれば。
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事実を書いた教科書は、つかってはいけない?

2013-09-19 07:36:04 | 日記
 ボクの知人が、今急速に日本は、「もの言えぬ時代」に向かっていると語っていた。今まで政治的なことに何の関心もなかったのだが、どうもおかしい、と語っていた。

 首都東京が先頭を切って、そういう時代に進みつつあることを証明しているのが、下記の『東京新聞』の記事。文科相の検定を通過した教科書が使用できるというのが現行の制度。
しかし東京都教育委員会は、みずから「君が代」などを強制しているのに、それを書かれることが嫌らしい。そういう指摘をしている教科書はつかうなと言うのだ。

実教出版教科書を希望…やはりダメ 現場の教員「息苦しい」

2013年9月18日 夕刊

 二〇一四年度に使う教科書採択で東京都教育委員会が「不適切」とした実教出版(東京)の高校日本史の教科書は、すべての都立高が使用を見送った。しかし教育現場では、教員がこの教科書を評価し、使用を模索する動きがあった。校内の教科書選びの中で、こうした現場の意向が都教委の「通知」の下に消えた経過を、ある男性教員が証言した。 (安藤恭子)

 「来年度は実教の教科書を使いたいのですが」。七月上旬にある都立高校で、日本史担当の教員ら数人が、急きょ校長に申し入れた。

 数日前には都教委が、実教出版の教科書について「使用は適切でない」とする見解を各校に示したばかり。問題視されたのは、国旗掲揚や国歌斉唱をめぐる「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」としたわずかな記述だった。

 これまでは各科目の教員が選んだ教科書が、校内の教科書選定委員会を経て都教委で採択され、そのまま使用されることが通例だったという。

 この高校でも、教員らが来年度の日本史教科書を選ぶ中で「生徒に主体的に考えさせる内容で、使いやすい」との判断や、現在も別の実教版教科書を使っていること、学力レベルに合うことから、実教版を希望していた。

 しかし、突然の都教委の見解により、教員らが望んでいた実教版教科書の使用は難しくなった。

 危機感を抱いた教員らに校長は「都教委の見解をほごにはできない」と伝えた。

 校長から再考を求められた教員らは悩んだ末、第二希望として別の教科書を、校内の選定委に挙げた。選定委では第二希望だけが検討され、使用教科書として都教委に報告された。

 男性教員は「教科書選びは、生徒の関心を高めるための教員の工夫の見せどころ。授業にまで介入されたようで、息苦しい」と経緯を振り返った。

 これに対し都教委の担当者は、「そうした動きは把握していない。教科書の採択権は都教委にある。各学校の校長が通知を踏まえ、教科書を選んだ」としている。

    ◇

 都教委の見解に反対する団体が、十八日午後六時半から文京区民センターで報告集会を開く。教委が実教出版の教科書を問題視した東京や神奈川の教員による報告があるほか、山田朗・明治大教授が「改憲の動きと教科書への攻撃」と題し講演する。資料代五百円。

◆都立高の使用ゼロ

 <実教出版の教科書採択問題> 各地の教育委員会が、実教出版の高校日本史教科書の国旗・国歌をめぐる記述を「教委の考えに合わない」などと問題視。東京都教委は6月、各都立高校に使用の適否に踏み込む異例の通知を出したほか、神奈川県教委も、実教版の使用を希望する県立高28校に再考を促し、両都県の採択校はゼロだった。埼玉県と大阪府では、実教版希望校が、教委の資料集を活用することや指導を受けることを条件に採択を決めた。

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ああ、これが日本の東電という会社!

2013-09-19 07:29:01 | 日記
 すごい量の放射性物質でも、うすめれば外用投棄は許される?水俣病の時も同じ論理だった。「問題ない」と言い切るその神経にあきれる。

 やはり魚は食べない方が良い。


外洋に1日600億ベクレル放出 福島原発、気象研の研究官報告

2013年9月18日 23時16分

 【ウィーン共同】東京電力福島第1原発の汚染水問題をめぐり、気象庁気象研究所の青山道夫主任研究官は18日、国際原子力機関(IAEA)の科学フォーラムで、原発北側の放水口から放射性物質のセシウム137とストロンチウム90が1日計約600億ベクレル、外洋(原発港湾外)に放出されていると報告した。

 セシウム137の半減期は約30年、ストロンチウム90は約29年。原子炉建屋地下からいったん港湾内に染み出た後、炉心溶融を免れた5、6号機の取水口から取り込まれ、北側放水口から外洋に放出されている。東電は「法定基準以下の濃度と確認して放水しており問題ない」としている。
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収穫

2013-09-19 07:00:02 | 日記
 畑に出ることが、日常生活の一部となっている。農業なんかって、いう人もいる。ボクの姉は、子どもの頃にこき使われたから絶対にやらないと言っている。
 
 だが農業は面白い。

 なぜか。まず収穫があるからだ。昨日、ボクはサツマイモを掘り出した。赤い色をしたサツマイモが、土の中から顔を出したときには、本当にうれしかった。

 ボクが掘り出しているのを見た隣の畑のオバサンが、手で大きな○をつくって、「あった?」と尋ねた。ボクはニッコリと笑って肯いた。

 サツマイモは、二列で作ったからたくさんできているはずだ。これから掘り出していくつもりだ。

 昨日は、冬瓜も収穫した。スーパーでは、小さな形で切り分けたものが98円で売られていた。畑には、ごろりとまだまだ転がっている。冬瓜は大きいので、とても自宅では食べられない。四分の一に切っては近所に分ける。
 冬瓜の苗は勝手に生えてきたもの。あまり人気のない野菜ではある。うちは食べないから、と断られることもある。

 一昨日は、生姜も収穫し、味噌をつけて食べた。スーパーで売っているものよりもおいしかった。

 観賞用のカボチャもたくさんできた。すべて収穫し、あげるべき人にはあげたので、あとのものは公民館祭りがあるというので、それに寄付しようと思う。今、カボチャができていたところを耕している。次は何をつくろうか。

 種をまいておいたブロッコリーの芽が出てきた。これを畑に植えよう。ほうれん草もつくろう。

 もう一つの喜び。それは収穫した野菜を、近所にあげられることだ。たくさん一度にできるので(もちろん少しずつ時期をずらしているが、それでも)、自家のみで消費することなんかできない。

 そしてもう一つ。農耕作業は、運動にもなる。夕方であっても、汗びっしょりになる。スコップ、鎌、鍬、いろいろな農具をつかって、いろいろな動きをする。

 ボクは農業が好きだ。もちろんまだまだ素人である。だが、周囲には「先生」がたくさんいる。「先生」は、尋ねれば丁寧に教えてくれる。

 こういう楽しみながらの農業はなくなってはならない。今、市街化調整区域となっているこの周辺。市街化区域になったら、農地は消える。固定資産税が跳ね上がるからだ。

 権力は、こうした農業の生殺与奪の権限を握っている。


  
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