『東京新聞』の記事である。原発事故の被災者が、宙ぶらりんの状態のままに置かれている。もう2年半だ。果たして自宅に帰って生活できるのかできないのか。そんな状態のまま、放っておかれたら、ボクならどうするだろう、どう考えるだろう、どう思うだろうか・・・、当事者となっていたらどういう行動にでるだろうか・・・といろいろ想像する。
飯村さんの場合、おそらく帰宅できないだろうと思う。しかしこのまま避難先で同じ状態のまま置かれたら、飯村さんたちは夢や希望を持てずにただ何かを待つということしかできなのではないか。
となると、東電や政府は、こうした人々に、「明確にあなたたちは帰宅できない、だから別の所に住んでください」などと決断すべきである。もちろん、別の場所で、フクシマでの生活が同じようにできるように、経済的にもきちんと補償してであるが。
今のままでは、避難した人たちを放っておいて、亡くなるのを待つという、今まで日本政府が戦後補償の問題などでとってきた冷たい政策が続けられるだけだ。
多くの国民の想像力と、それに基づいたアクションと、そして政府や東電の決断があってはじめて、この問題は動き始める。そうならないのだろうか。
震災2年半 避難先 募る絶望感
2013年9月12日 朝刊
東日本大震災は十一日、発生から二年半を迎えた。被災地や避難先では、地震発生時刻の午後二時四十六分、遺族らが犠牲者の冥福を祈り、黙とうをささげた。警察庁などによると、九月十一日現在の死者は一万五千八百八十三人、行方不明者は二千六百五十四人。避難生活による体調悪化や自殺などを原因とした震災関連死は二千六百八十八人(三月末現在)に上る。
「皆さんの中で本音で帰れると思う人はどれだけいるんでしょうか」。東京電力福島第一原発事故で福島県浪江町から東京都江東区の東雲(しののめ)住宅に避難した飯村長治さん(66)は先月末、都内で開かれた町議との意見交換の席で思い切って尋ねた。
今も町民すべてが避難生活を強いられている。「長生きしても、あと十五年ほど。浪江に帰ったところで、どんな暮らしができるのか」。生まれ育ち、三人の息子を育て上げた町をそんなふうに言わねばならない無念が、胸に湧き上がった。
海辺にあった半農半漁の家に生まれた。高校を出て地元の銀行に勤め、県内十数カ所を転勤したが、定年は浪江町で迎えた。忙しくてできなかった畑作りを始め、少しコツをつかんできたころ震災が起きた。「小さな農機具も買って。あの年はソラマメの生育が良くて、期待できるなって楽しみにしてたんだ」
十三年前に建てた自宅は高台にあり津波被害を免れた。居間も入れて八部屋があるゆったりした家。手入れを欠かさず、震災直前には百四十万円をかけて塗装もし直したばかりだった。二年半たった今、自宅に立ち寄っても、むなしさが募る。「住めないんだって思ったら掃除してもしょうがないって。行くたびにがっかりする」
故郷を断ち切り、中古住宅を借りるなどして、新たな暮らしを始めるべきなのか。避難者同士が顔を合わせれば、そんな話が増えた。結論は出ず、いつも堂々巡りになる。二〇一一年四月に入居が始まってから、東雲では四人の避難住民が亡くなった。うち二人は孤独死だ。
◇
町は五月と七月、計一万四千七百九十三人の町民の代理となり、東電が精神的慰謝料を一人月額十万円から三十五万円に引き上げるよう、原子力損害賠償紛争解決センターに裁判外紛争手続き(ADR)を申し立てた。
「将来設計が決まらない。目的を持てない…絶望感がぬぐえず、生き地獄とすら感じる」(三十代女性)「何もすることがなく、ただ嫌な毎日を過ごさなくてはならない」(七十代以上男性)。町が増額を求める根拠を示すために実施したアンケートには、悲鳴ともうめきともつかない声が寄せられた。
月額十万円は、交通事故の被害者に自賠責保険から支払われる慰謝料(月額換算十二万六千円)を基準に決められる。しかも、それより低い。それを知って飯村さんも申し立てに加わった。「体のけがは、少しずつ良くなるという希望があるかもしれない。でも、私たちは時間がたてばたつほど、モヤモヤが増えてくるばかりなんです」 (小林由比)
<原子力損害賠償紛争解決センター(原発ADR)> 福島第一原発事故を受け、文部科学省の原子力損害賠償紛争審査会内に設けられた機関。都内と福島県内に事務所を置き、弁護士の仲介委員が和解手続きを進める。申し立ては無料。8月までの申し立ては7500件余りで、和解に至ったのは約3800件。半年程度で和解案を示す方針だが、長引くケースも多いほか、未解決事案も多い。
飯村さんの場合、おそらく帰宅できないだろうと思う。しかしこのまま避難先で同じ状態のまま置かれたら、飯村さんたちは夢や希望を持てずにただ何かを待つということしかできなのではないか。
となると、東電や政府は、こうした人々に、「明確にあなたたちは帰宅できない、だから別の所に住んでください」などと決断すべきである。もちろん、別の場所で、フクシマでの生活が同じようにできるように、経済的にもきちんと補償してであるが。
今のままでは、避難した人たちを放っておいて、亡くなるのを待つという、今まで日本政府が戦後補償の問題などでとってきた冷たい政策が続けられるだけだ。
多くの国民の想像力と、それに基づいたアクションと、そして政府や東電の決断があってはじめて、この問題は動き始める。そうならないのだろうか。
震災2年半 避難先 募る絶望感
2013年9月12日 朝刊
東日本大震災は十一日、発生から二年半を迎えた。被災地や避難先では、地震発生時刻の午後二時四十六分、遺族らが犠牲者の冥福を祈り、黙とうをささげた。警察庁などによると、九月十一日現在の死者は一万五千八百八十三人、行方不明者は二千六百五十四人。避難生活による体調悪化や自殺などを原因とした震災関連死は二千六百八十八人(三月末現在)に上る。
「皆さんの中で本音で帰れると思う人はどれだけいるんでしょうか」。東京電力福島第一原発事故で福島県浪江町から東京都江東区の東雲(しののめ)住宅に避難した飯村長治さん(66)は先月末、都内で開かれた町議との意見交換の席で思い切って尋ねた。
今も町民すべてが避難生活を強いられている。「長生きしても、あと十五年ほど。浪江に帰ったところで、どんな暮らしができるのか」。生まれ育ち、三人の息子を育て上げた町をそんなふうに言わねばならない無念が、胸に湧き上がった。
海辺にあった半農半漁の家に生まれた。高校を出て地元の銀行に勤め、県内十数カ所を転勤したが、定年は浪江町で迎えた。忙しくてできなかった畑作りを始め、少しコツをつかんできたころ震災が起きた。「小さな農機具も買って。あの年はソラマメの生育が良くて、期待できるなって楽しみにしてたんだ」
十三年前に建てた自宅は高台にあり津波被害を免れた。居間も入れて八部屋があるゆったりした家。手入れを欠かさず、震災直前には百四十万円をかけて塗装もし直したばかりだった。二年半たった今、自宅に立ち寄っても、むなしさが募る。「住めないんだって思ったら掃除してもしょうがないって。行くたびにがっかりする」
故郷を断ち切り、中古住宅を借りるなどして、新たな暮らしを始めるべきなのか。避難者同士が顔を合わせれば、そんな話が増えた。結論は出ず、いつも堂々巡りになる。二〇一一年四月に入居が始まってから、東雲では四人の避難住民が亡くなった。うち二人は孤独死だ。
◇
町は五月と七月、計一万四千七百九十三人の町民の代理となり、東電が精神的慰謝料を一人月額十万円から三十五万円に引き上げるよう、原子力損害賠償紛争解決センターに裁判外紛争手続き(ADR)を申し立てた。
「将来設計が決まらない。目的を持てない…絶望感がぬぐえず、生き地獄とすら感じる」(三十代女性)「何もすることがなく、ただ嫌な毎日を過ごさなくてはならない」(七十代以上男性)。町が増額を求める根拠を示すために実施したアンケートには、悲鳴ともうめきともつかない声が寄せられた。
月額十万円は、交通事故の被害者に自賠責保険から支払われる慰謝料(月額換算十二万六千円)を基準に決められる。しかも、それより低い。それを知って飯村さんも申し立てに加わった。「体のけがは、少しずつ良くなるという希望があるかもしれない。でも、私たちは時間がたてばたつほど、モヤモヤが増えてくるばかりなんです」 (小林由比)
<原子力損害賠償紛争解決センター(原発ADR)> 福島第一原発事故を受け、文部科学省の原子力損害賠償紛争審査会内に設けられた機関。都内と福島県内に事務所を置き、弁護士の仲介委員が和解手続きを進める。申し立ては無料。8月までの申し立ては7500件余りで、和解に至ったのは約3800件。半年程度で和解案を示す方針だが、長引くケースも多いほか、未解決事案も多い。