浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

寒い日だ

2018-03-21 22:43:03 | その他
 今も冷たい強い風が吹いている。ヒューヒューと音を立てて風が乱れ飛ぶ。

 午前中は雨が降り、午後一時的に雨があがり晴天となったが、しばらくするとまた灰色の雲におおわれた。

 今日は国会がなく、森友問題は休止である。しかし世の中は動いている。東京都では、危険な条例が成立させられようとしている。

審議は1回 小池都知事が密かに急ぐ“デモ封じ条例”の中身

 寒いはずだ。

 私は、仕事として「横浜事件」を調べているが、その一環で大日本帝国憲法下の治安法制に関する本を読んでいるが、読めば読むほど現代がそうした時代に近づいているように思う。

 警察権力、検察の権力が、ただでさえ強いのに、さらに強大化させるような法や条例がつくられてきている。

 これからも寒い日が続くのだろうか。

 風が唸りながら、過ぎていった。

 明日は晴れだろうか。
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今治市は、加計学園の下僕か!

2018-03-21 18:17:33 | その他
 今治市民は怒らないのか?

文書入手 加計説明会に今治市が動員要求

 今治市は、今治タオルで名をあげていたが、今では加計学園獣医学部。悪いイメージの都市になったようだ。
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辺野古基地建設に、多くの問題点

2018-03-21 09:31:23 | その他
 この前の日曜日夜、沖縄県の土木建設に長い間携わっていた方の講演を聴いた。基地建設現場には多くの問題点があり、順調に建設されることはないだろうという話しであった。

 『沖縄タイムス』がそれを詳しく報じている。

 まず軟弱地盤の問題である。

辺野古沖に軟弱地盤、深さ約40メートル 防衛局報告書に「想定外」記述

 そして活断層の存在。

辺野古新基地:防衛局、予定地に「活断層の疑い」指摘

 しかし、私はこういう困難があっても、日本政府は建設を強行していくだろうと思う。基地建設の致命的な問題点は見て見ぬ振りをして工事を続行し、建設後地盤が崩壊し建設されたものが倒壊しても、そのときの担当者は建設時の担当者ではない。建設時の担当者は、とにかくつくれば良いのだ。そうすれば「出世」していく。
 日本の役人は、同じ部署に長い間とどまることはない。米軍基地だったら、倒壊の責任を追及する者がいない。まさか日本の税金でつくってくれたものについて、アメリカがその責任を問うということはしないだろう。
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腐臭を放つ文科省

2018-03-21 09:09:17 | その他
 名古屋市の中学校で行われた前川氏の講演に対して、文科省が政治的介入を行ったことは、これまた前代未聞の、官僚の劣化を示すものである。この問題はもっと追及されるべきである。

 『東京新聞』記事(一部)

前川氏授業質問 文科省、池田氏指摘2カ所修正

2018年3月21日 朝刊

 文部科学省が前川喜平前事務次官の授業内容の報告を名古屋市教育委員会に求めた問題で、事実関係を照会した自民党の池田佳隆衆院議員(比例東海)に対し、市教委へ送る質問内容を事前に見せた上で、指摘された二カ所を修正していたことが二十日、分かった。

 林芳正文科相は記者会見で「池田議員からのコメントも参考に、修正はあくまでも文科省の主体的な判断で行った。議員の指示ではない」と強調し、政治的な介入との見方を否定。しかし、野党側は「池田氏の指摘なくして修正はありえたのか。政治的な介入は明らかだ」と反発を強めた。


 池田というultranationalistの介入も問題であるが、それを受け入れた文科省の動きそのものを問題にすべきである。

 とりわけ私は、文科省のメールを読み、その居丈高、上から目線、恫喝的な内容に驚き、そこには文科省の本質が示されていると思った。

 『朝日新聞』も、

 
「自民の部会、無視できない…」文科省、前川氏講演調査

 という記事を載せているが、文科省が送ったメールの特質をもっと問題にすべきである。あのような文を書く者の資質を私は疑う。

 『毎日新聞』は、メールそのものを掲載している(下記)。

https://mainichi.jp/graphs/20180316/hpj/00m/040/003000g/1

 名古屋市教委の、文科省の不当なメールにきちんとあるべき姿で対応しているが、静岡県教育委員会だったら即座に頭を垂れ、文科省の質問に正確に対応し、録音テープも送っていただろう。静岡県教育委員会は文科省と直結し、文科省の官僚が教育委員会の次長や〇〇部長として入っていることが多く、文科省がしたいことを静岡県で施行することが多い。

 教育委員会は、私が見るところ、警察と同じで、都道府県の管轄ではあるが(小中学校は市町村)、政府の支配が直接及ぶところである。地方分権ともっとも遠いところに存在する地方機関である。

 明治に創り出された政治機関は、一九四五年を経ても、きちんと存続している。「地方分権」は、財政的な面だけである。政策は上意下達。何も変わっていない。



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メディアのあり方

2018-03-21 00:25:56 | その他
 若い頃、ペンネームで、メディア論を雑誌などに書いてきた。しかし、歴史とメディア論のふたつを追い続けることは、私の経済状態では難しかった。そこでメディア論からは去ったが、しかし今でもテレビや新聞のあり方に眼を光らせている。

 メディアは、すべからくジャーナリズムの精神をもたなければならない。その精神とは、「権力の番犬」Watch-Dogである。あらゆることについて、批判的な精神をもって取材と執筆にあたること、これなしに記事の価値はない。それは私が書く歴史でも同じである。何を、どのような視点で書くか、その際に強い問題意識を持てば持つほど、分析は鋭角的になり、また叙述されるものも光るものとなる。

 私はずっと、安倍が嫌悪する『朝日新聞』を購読していた。しかし小泉政権の時、朝日の社説が、小泉の演説を聴いていると心が揺さぶられるようだ、というようなことを書いていた。1930年代のドイツで、ヒトラーの演説を聴いて陶酔しているようなことを、朝日が、それも社説で書くなんて、と思って、即購読をやめた。

 その後の朝日は、天声人語や社説の筆力も落ち、昔の朝日の格調高い文が見られなくなった。格調高い文とは、文章がうまいというだけではなく、内容が伴っていなければならない。加藤周一の「夕陽妄語」や、吉野源三郎の『同時代のこと』(岩波新書)などが、それにあたる。文の背後に、豊かな教養が秘められていた。

 ところが朝日は、「慰安婦」問題でも、吉田調書問題でも、脆弱な体質を露呈し、下げなくてもよい頭を権力に対して垂れたのだ。やはり朝日は、一九六〇年の安保闘争時の共同声明に見られるように、最終的には権力に従うのだということを見せられた。

 しかし最近になって、朝日は、森友問題を契機にして、変わってきた。森友関係の記事だけでなく、多くの記事が生き生きし始めた。監視しなければならない相手に対して、堂々と振る舞うようになった。

 文章というものは、卑屈な精神を持つ者には書けない。書けたとしても、それは他者の心を打たない。何を訴えるのか、訴えるべきことがあるから書くのである。訴える時、そこに卑屈さが存在すれば、筆力はにぶるのだ。したがって、文章に生気がなくなる。

 今日私は、この文を朝日の記事中に発見した。「有料記事」であることを承知で、貼り付ける。ジャーナリズム精神に満ちた文だ。こういう精神でなければならない。ジャーナリズム精神を、直球で表現したものといえよう。ただし、あまりに直球すぎて、「あそび」というか「ゆとり」がない。

 だが、筆者は、いま、書かなければならないこと、訴えなければならないことを、書くのだ、という強い気持ちを持っている。その気持ちは、ある意味すがすがしい。暫く消えていたその精神の再生を、私は感じる。


怒るべき時、それは今 絶対的権力は絶対に腐敗する  編集委員・高橋純子

2018年3月20日02時30分

政治断簡

 3月12日午後7時。財務省が森友学園との国有地取引に関する決裁文書の改ざんを認めた日の首相官邸前に身を置き、東日本大震災から7年という歳月をかみしめた。

 「改ざんするな」「佐川じゃなくて安倍が辞めろ」

 シュプレヒコールが夜空に響く。ツイッターで開催が告知されたのは前日の夜。それでも参加者の列はぐんぐん伸びていく。個人参加、SNSを駆使した新しいデモのスタイルは、震災後の脱原発デモを契機に生み出された。

 デモで社会は変わるのか?

 今も投げかけられる冷笑まじりの問い。哲学者の柄谷行人氏はかつてこう答えている。「デモで社会は変わる、なぜなら、デモをすることで、『人がデモをする社会』に変わるからだ」

 そう。この7年で確かに変わった。安倍政権下、特定秘密保護法、安全保障法制への反対をくぐって、社会にデモという回路が組み込まれた。

 「こんな人たち」の怒りの可視化。それが、デモだ。

 「いつも怒ってるんですね」。政治部に配属されてほどなく、国会内の食堂でテレビ局の記者にさげすみの視線を送られたことを、私は今も忘れていない。権力に怒るのは記者として当然と思っていたから、いたく心外だった。

 新聞はもうひとつの眼/欲望のせめぎあう巷にかくされた/かずかずの人間の劇を/ときに笑いときに怒りときに涙し/それはみつめる

 (谷川俊太郎「朝日とともに」)

 26年前、入社面接のために初めて朝日新聞東京本社を訪れた時、飾ってあったこの詩を見つけ、心を震わせた。

 現下の日本では、怒りは忌避され、抑圧される。だけど怒りは、喜や哀や楽と同等に自己を成り立たせている感情だから、たしなめられたり嗤(わら)われたりすると傷つき、だからといって抑え込むと「私」が霧散して、いずれにしても、生きる気力がなえる。

 それを熟知しているのか、現政権は怒りや異論に耳を貸さず、時に嘲笑し、圧倒的な数の力でねじふせ、国会を、議論の場ではなく表決の場におとしめてきた。陰に陽に発せられるメッセージは「抵抗しても無駄ですよ」。公文書を改ざんし、国会にうそをつくという未曽有の事態はその延長にある。「国会に対する冒瀆(ぼうとく)だ」と憤ってみせている与党だが、国会の権威をコツコツと掘り崩してきたのはいったい誰なのか。政治の罪は深い。なのに責任をとろうとせず、居直り居座る政治家たち。なんとまあ美しい国の見事な1億総活躍であろうか。

 権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する。

 ゆえに権力に対しては、怒るべき時にきっちり怒らなければならない。公文書が改ざんされる国に成り下がったのだからなおさら、自分の身体をさらし、声を張って、この時代を歴史に刻むしかない。

 谷川さんの上記の詩には、次の一節が連なる。

 新聞はもうひとつの口/正義に名をかりた大声のかげの/しいたげられた者の沈黙を/無名のいのちの証言として/それは語る(編集委員・高橋純子)
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