なかなか興味深い歴史本である。「王政復古」を、慶応3年12月9日の、いわゆる「王政復古のクーデター」に収斂するのではなく、「王政復古」へ向かう一連の動きの中に位置づけるという、新しい解釈で叙述した本である。
文久3年3月の第14代将軍家茂の上洛から、この本は始まる。「王政復古」後の明治天皇と、この家茂とのある意味での共通性を描きだすためである。なかなかよく考えられた出だしである。
「王政復古」への道は、おそらくペリー来航からスタートするのではないかと私は思っている。阿部正弘が朝廷を始め、各所から意見を募ったが、そこから朝廷は浮かび上がる。
もちろん、天皇を独占していた幕府が、閑院宮を設け、その子孫である光格天皇が朝廷の権力を強化したこともその背景にあるだろうが、しかしやはり1853年に始まる万国対峙という対外関係から、天皇が国家権力内部で相対的に地位を上昇させていったのだろうと思う。
そこまで遡ることを本書はしていないが、原口清先生の研究を生かしながら、12月9日の「王政復古」を、広義の「王政復古」を一連の流れの中に位置づけるという叙述は、刺激的であり、たいへん面白かった。
権力者は、周囲がそう認識することによって、はじめて「権力者」たりえるということである。具体的に言えば、天皇は、くりかえし将軍や大名に「会う」ことで、権力者としての地位を高め、固めていった。また、将軍や大名も、拝謁をくりかえすことで、臣下としての自覚を深めたにちがいない。その意味で、近世を通じて大名と天皇の接触を阻んだ、徳川幕府の施策は正しかったのである。(148頁)
権力者が権力者となるためには、みずからが権力者であることを周囲に認識させることが必要であるが、日本の社会は、そうした努力をあまりしなくとも、誰であろうと、権力者となった者に忖度し、忠勤を励むから、権力者はラクだろうと思う。
日本でもっともラクに権力者になり得るのは、天皇である。それを自覚している現天皇は、できうる限りそうならないように自制しているように思われる。
安倍という首相との、それが大きな違いである。
文久3年3月の第14代将軍家茂の上洛から、この本は始まる。「王政復古」後の明治天皇と、この家茂とのある意味での共通性を描きだすためである。なかなかよく考えられた出だしである。
「王政復古」への道は、おそらくペリー来航からスタートするのではないかと私は思っている。阿部正弘が朝廷を始め、各所から意見を募ったが、そこから朝廷は浮かび上がる。
もちろん、天皇を独占していた幕府が、閑院宮を設け、その子孫である光格天皇が朝廷の権力を強化したこともその背景にあるだろうが、しかしやはり1853年に始まる万国対峙という対外関係から、天皇が国家権力内部で相対的に地位を上昇させていったのだろうと思う。
そこまで遡ることを本書はしていないが、原口清先生の研究を生かしながら、12月9日の「王政復古」を、広義の「王政復古」を一連の流れの中に位置づけるという叙述は、刺激的であり、たいへん面白かった。
権力者は、周囲がそう認識することによって、はじめて「権力者」たりえるということである。具体的に言えば、天皇は、くりかえし将軍や大名に「会う」ことで、権力者としての地位を高め、固めていった。また、将軍や大名も、拝謁をくりかえすことで、臣下としての自覚を深めたにちがいない。その意味で、近世を通じて大名と天皇の接触を阻んだ、徳川幕府の施策は正しかったのである。(148頁)
権力者が権力者となるためには、みずからが権力者であることを周囲に認識させることが必要であるが、日本の社会は、そうした努力をあまりしなくとも、誰であろうと、権力者となった者に忖度し、忠勤を励むから、権力者はラクだろうと思う。
日本でもっともラクに権力者になり得るのは、天皇である。それを自覚している現天皇は、できうる限りそうならないように自制しているように思われる。
安倍という首相との、それが大きな違いである。