九州熊本付近からは色々な人が出てくる。石牟礼道子さんなど、渡辺京二もその一人である。
本書はエッセイのような文をまとめたものであるが、各所になるほどと思うような文章がある。そのいくつかを紹介しよう。
「そもそも人は社会に役立つために生まれたのではないことを、互いに認めなおそうではないか。社会に役立とうが役立つまいが、人はすべて、生きよ、おまえの生にはそれだけで意味があると告げられている。誰が告げているかだって。天が地が、鳥が樹が花がそう告げている。まず自分が生きるように命じられているからこそ、すべての「自分」がそう命じられているからこそ、自分にとって他者が出現する。他者を思いやるという課題が生じるのだ。(20)
それぞれの生の絶対的価値。私も同感である。そのように私も語ってきた。
文章が書く人の命のリズムだ(29)
今日のヘンテコでいやな世相といわれるものの反面は、社会の表層に瀰漫するあっけらかんとした多幸感なのである。(42)
何様でございますかと尋ねたくなるような、横着で威張った顔つきがふえた。おえらいさん、庶民の別を問わずそうである。
生き方は何よりも話し方に現れる。(49)
最近テレビを全く見ないが、ワイドショーなど、なんでこんな人がこういうことを話すのか、と思う。また車に乗っている時、ラジオをつけていると、まったくおかしなことを偉そうに語っている場面に遭遇する。やはり聞くんじゃなかったと思い、音楽に切り替える。
語尾のばし話法の意味するところは、オレの言うことは正しい、文句あっかというメンタリティの現れなのです。相手と対話するのではなくて、自分の言いたいことを垂れ流す話法なのです。/font>。(54)
語尾のばしで話す人が多い。私も渡辺氏と同様に、その話法が嫌いである。最近の話法の中に、「なので」を多用する人がいるが、これも嫌いである。「今日は温かなので・・・」という言い方はあったが、単独で「なので」はつかわなかった。「したがって」とか「だから」、「それ故」をつかっていたはずだ。
今日の日本では自己を顕示するのが美徳になったということでありましょう。(57)
確かにそういう人は多い。Twitterの自己紹介を読むと、自己顕示そのものが書かれている。
現代は言葉が生きものでなくなってきたのだろう。言葉が生きものである証拠は、それにリズムが伴っていることに示されている。それというのも、もともと思考がリズムであるから文章もリズムなのである。ところが、現在の文書の特徴はこのリズムに対する感度まったく失っているところにある。・・・リズムと緊張のある文章をきらう世の中になったのだ。だらだらとしゃべるような文章の方が読みやすいというわけなのか。しかし、それは錯覚である。当世の書物の大半は情報つなぎ合わせたおしゃべりである。自前の思考がないから文書もだらけるし、リズムも生まれない。そういう文章は読むのに大変な忍耐がいる。 (85)
一般に著しく自己顕示的なのである。それは自分というものをしっかり持って、必要な場合は臆せずに表出するというのとは違う。自分の考えなどありはしない。マスメディアや各種タレントから吹き込まれた言説をただ繰り返しているだけなのだが、その分自分を何者かに見せたいらしい。 (98)
第一、世人をあげて芸人気取りになるなどという異常事態は、日本史上一度も現出したことがなかった。 (99)
「だからアアア」の世界は自己満足の世界なのである。自分の気分と理屈を、他者などお構いなしに垂れ流せるのである。人の言うことなど聞いていない。相手があって話してはいるのだが、実は対話も社交も不在という次第なのだ。 (103)
「じゃないですか」という語法は、もともと疑問の形をとりながら、自分の発言を相手に押しつける気味が強い。だから、この言い方が花盛りなのは、語尾延長・はねあげ話法とおなじく、本質的には、自分を押しつけるあつかましさが社会的に許容されていることを意味するだろう。 (105)
「・・・じゃないですか」というのは、確かに疑問の形を取りながら、実際は断定である。その断定を押しつけ、それを前提に話しを進めようという姑息な話し方である。こういう話法も、私は嫌いである。
そういう話法の方々とは、私は付き合わないようにしている。
いろいろ考えさせられる指摘が多い本である。一日で読める本である。
本書はエッセイのような文をまとめたものであるが、各所になるほどと思うような文章がある。そのいくつかを紹介しよう。
「そもそも人は社会に役立つために生まれたのではないことを、互いに認めなおそうではないか。社会に役立とうが役立つまいが、人はすべて、生きよ、おまえの生にはそれだけで意味があると告げられている。誰が告げているかだって。天が地が、鳥が樹が花がそう告げている。まず自分が生きるように命じられているからこそ、すべての「自分」がそう命じられているからこそ、自分にとって他者が出現する。他者を思いやるという課題が生じるのだ。(20)
それぞれの生の絶対的価値。私も同感である。そのように私も語ってきた。
文章が書く人の命のリズムだ(29)
今日のヘンテコでいやな世相といわれるものの反面は、社会の表層に瀰漫するあっけらかんとした多幸感なのである。(42)
何様でございますかと尋ねたくなるような、横着で威張った顔つきがふえた。おえらいさん、庶民の別を問わずそうである。
生き方は何よりも話し方に現れる。(49)
最近テレビを全く見ないが、ワイドショーなど、なんでこんな人がこういうことを話すのか、と思う。また車に乗っている時、ラジオをつけていると、まったくおかしなことを偉そうに語っている場面に遭遇する。やはり聞くんじゃなかったと思い、音楽に切り替える。
語尾のばし話法の意味するところは、オレの言うことは正しい、文句あっかというメンタリティの現れなのです。相手と対話するのではなくて、自分の言いたいことを垂れ流す話法なのです。/font>。(54)
語尾のばしで話す人が多い。私も渡辺氏と同様に、その話法が嫌いである。最近の話法の中に、「なので」を多用する人がいるが、これも嫌いである。「今日は温かなので・・・」という言い方はあったが、単独で「なので」はつかわなかった。「したがって」とか「だから」、「それ故」をつかっていたはずだ。
今日の日本では自己を顕示するのが美徳になったということでありましょう。(57)
確かにそういう人は多い。Twitterの自己紹介を読むと、自己顕示そのものが書かれている。
現代は言葉が生きものでなくなってきたのだろう。言葉が生きものである証拠は、それにリズムが伴っていることに示されている。それというのも、もともと思考がリズムであるから文章もリズムなのである。ところが、現在の文書の特徴はこのリズムに対する感度まったく失っているところにある。・・・リズムと緊張のある文章をきらう世の中になったのだ。だらだらとしゃべるような文章の方が読みやすいというわけなのか。しかし、それは錯覚である。当世の書物の大半は情報つなぎ合わせたおしゃべりである。自前の思考がないから文書もだらけるし、リズムも生まれない。そういう文章は読むのに大変な忍耐がいる。 (85)
一般に著しく自己顕示的なのである。それは自分というものをしっかり持って、必要な場合は臆せずに表出するというのとは違う。自分の考えなどありはしない。マスメディアや各種タレントから吹き込まれた言説をただ繰り返しているだけなのだが、その分自分を何者かに見せたいらしい。 (98)
第一、世人をあげて芸人気取りになるなどという異常事態は、日本史上一度も現出したことがなかった。 (99)
「だからアアア」の世界は自己満足の世界なのである。自分の気分と理屈を、他者などお構いなしに垂れ流せるのである。人の言うことなど聞いていない。相手があって話してはいるのだが、実は対話も社交も不在という次第なのだ。 (103)
「じゃないですか」という語法は、もともと疑問の形をとりながら、自分の発言を相手に押しつける気味が強い。だから、この言い方が花盛りなのは、語尾延長・はねあげ話法とおなじく、本質的には、自分を押しつけるあつかましさが社会的に許容されていることを意味するだろう。 (105)
「・・・じゃないですか」というのは、確かに疑問の形を取りながら、実際は断定である。その断定を押しつけ、それを前提に話しを進めようという姑息な話し方である。こういう話法も、私は嫌いである。
そういう話法の方々とは、私は付き合わないようにしている。
いろいろ考えさせられる指摘が多い本である。一日で読める本である。