今月号の『図書』4月号に、石内都さん、梯久美子さん、赤坂憲雄さんの対談を読んでいて、いろいろ考えることがあった。『週刊金曜日』3月30日号の特集は「追悼 石牟礼道子」であることは先に記した。
『週刊金曜日』に掲載された石牟礼さんの文に、「日本語の「考える」という言葉をアイヌ語では、「魂がゆれる」というのだと知りました」という箇所がある。「魂がゆれる」ということば、なるほど石牟礼さんが共鳴することばだと思った。
石牟礼さんが書くこと、語ることは、魂、それも人間だけではなく、すべての生きとし生けるものの魂であるからだ。私も、石牟礼さんのことばに、「魂がゆれる」、つまり考えさせられる。石牟礼さんのことばは、深いではなく、底知れない。私の感性や知性では届かないほどの深みをもつ。いや石牟礼さんの想念の世界は無限につながっている。無限につながるということは、この宇宙とつながるということである。
そしてその世界は、死の世界へともつながる。
『図書』の石内さんの発言。石内さんは自然光でしか撮らないから、晴れてないといけない。
広島では、それまで雨が降っていても、私がセットしてはじめようかどうしようかと空を見ていると、晴れてくるんです。このワンピースを着ている少女が天から見ていて陽を射してくれているとしか思えないほど晴れる。
石内さんは、原爆で被爆した人々の、遺された衣服を写真に撮っている。
梯久美子さんはノンフィクション作家。よい文章を書く。
彼女はこう語る。
沖縄でずいせん隊という女学生の学徒隊生き残りのおばあさんに取材をしたときには、自分たちが逃げまわった壕の場所を教えて下さって、「行ったら足元をよく見てね」と言われました。「そこに私の友だちの血が染みているから」と。土地は死者を記憶すると、私は思っているんです。
日本の死生観は、たとえ死んだとしても、じぶんと関係ある人の近くに、魂として漂っている、というものだろうか。
私の父は、私が2歳のときに肝硬変で亡くなっている。私は、だから父を写真でしか知らない。その父に、私は墓参の度に話しかける。「母を長生きさせなよ、苦労させたんだから・・・」とか。
「土地は死者を記憶する」、それだけではなく、「生者も、死者を記憶する」。その死者は、近くにいる、それが私たちの死生観なのだろう。
『週刊金曜日』に掲載された石牟礼さんの文に、「日本語の「考える」という言葉をアイヌ語では、「魂がゆれる」というのだと知りました」という箇所がある。「魂がゆれる」ということば、なるほど石牟礼さんが共鳴することばだと思った。
石牟礼さんが書くこと、語ることは、魂、それも人間だけではなく、すべての生きとし生けるものの魂であるからだ。私も、石牟礼さんのことばに、「魂がゆれる」、つまり考えさせられる。石牟礼さんのことばは、深いではなく、底知れない。私の感性や知性では届かないほどの深みをもつ。いや石牟礼さんの想念の世界は無限につながっている。無限につながるということは、この宇宙とつながるということである。
そしてその世界は、死の世界へともつながる。
『図書』の石内さんの発言。石内さんは自然光でしか撮らないから、晴れてないといけない。
広島では、それまで雨が降っていても、私がセットしてはじめようかどうしようかと空を見ていると、晴れてくるんです。このワンピースを着ている少女が天から見ていて陽を射してくれているとしか思えないほど晴れる。
石内さんは、原爆で被爆した人々の、遺された衣服を写真に撮っている。
梯久美子さんはノンフィクション作家。よい文章を書く。
彼女はこう語る。
沖縄でずいせん隊という女学生の学徒隊生き残りのおばあさんに取材をしたときには、自分たちが逃げまわった壕の場所を教えて下さって、「行ったら足元をよく見てね」と言われました。「そこに私の友だちの血が染みているから」と。土地は死者を記憶すると、私は思っているんです。
日本の死生観は、たとえ死んだとしても、じぶんと関係ある人の近くに、魂として漂っている、というものだろうか。
私の父は、私が2歳のときに肝硬変で亡くなっている。私は、だから父を写真でしか知らない。その父に、私は墓参の度に話しかける。「母を長生きさせなよ、苦労させたんだから・・・」とか。
「土地は死者を記憶する」、それだけではなく、「生者も、死者を記憶する」。その死者は、近くにいる、それが私たちの死生観なのだろう。
NHK、佐川証人のテロップが、答える前にでていた。あらら・・・・NHKは、佐川氏の答弁内容を事前に知っていたのか。
https://twitter.com/kininaru2014111/status/978443299936657408
https://twitter.com/kininaru2014111/status/978443299936657408