読書にまつわるあれこれ
思春期に入りかけた青年のなかには、「生きる」ことについての懐疑を抱く者がいる。私もその一人であった。私はなぜ生きるのかを問うべく、いろいろな本を読んだ。三木清『人生論ノート』など。しかし読めば読むほど自らがこの世に生存していることについての疑問は大きくなるばかりであった。
そのような疑問を持ちつつ、現在某大学の教授になっているM君とは、様々な文学作品について論じあった。ほとんどは海外文学であった。ヘッセ、カフカ、カミユ、ロマン・ロラン、ヘミングウェイ、ツルゲーネフ・・・・。私はそのなかで、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』から特に影響を受けた。苦悩しながらも理想に向けて生きていく主人公の姿は、私を大いに力づけてくれた。
生きるということを考えるとき、海外文学は様々な示唆を与えてくれる。海外文学に私の関心を向けてくれたM君には、今も感謝している。
ところで当時激しく戦われていたベトナム戦争(1965~73)は、形成期の私の思想に大きな影響を及ぼした。この頃の新聞や雑誌には、米軍の侵略により甚大な被害を受けたベトナム民衆の姿が映し出されていた。米軍の圧倒的な武力は、ベトナムを破壊し、「ジェノサイド」(民族皆殺し)を企図しているようであった。私はこれは捨てておけないと思った。私と同様の想いを持った人々と共に、校内に社会科学研究会(社研)という自主的サークルを結成した。ベトナム戦争反対を呼びかけると共に、様々な本を読んだ。特に社会科学系の本、たとえばマルクス、エンゲルス、レーニンなどの著作を熱心に読み、討論した。これらの本は、大学入学後、社会科学研究の方法論として大いに役に立った。この頃、マルクス主義を通過しない学問研究は成り立ち得なかった。
大学に入って熱心に読んだ本は、ドストエフスキーである。高校時代の国語のT先生は、教科書を一切無視していろいろなことを話された。なかでも、ドストエフスキーの作品についての熱のこもった話は圧倒的であった。私は大学 1年生の夏休み、帰省もしないでひたすらドストエフスキーを読み続け、誰とも話さない日々が続いたことを憶えている。ドストエフスキーの全作品を読んだ経験は、今も私の精神のどこかに生き続けていると思う。
私は法学部に入学し、法律の勉強を始めた。もちろん憲法も学んだ。憲法の大原則の一つに平和主義がある。しかし平和主義がありながら、自衛隊が存在し、米軍が沖縄をはじめ全国各地に駐留している。憲法の平和主義とは、もちろん矛盾する。だがその存在を、法理論的に理屈をつけて正当化する「理論」もある。私にはあまりに無謀な「理論」であると思われた。法の有効性に疑問を抱いた私は、憲法をはじめとした法があっても、その執行は当該社会の力関係(たとえば平和主義を守ろうとする勢力とそうでない勢力)で決まっているのではないかと思った。憲法の教授とこの点で論争をしたことがあるが、私は力関係を歴史的に明らかにするために、特に日本近代史の勉強を始めた。そのなかで、法律よりも歴史を勉強すべきではないかと思い、日本史ゼミというサークルを文学部の連中と組織し、学外では東京歴史科学研究会へも顔を出すようになった。
但しこの頃の法学部はなかなか厳しく、民法や刑法、刑事訴訟法などの基礎法については徹底的に学ばされ、さらにゼミでは労働法をとったりしたので、法律の勉強も並行してやらざるを得なかった。
そうこうしているうちに 4年となった。ほとんど 1年間で教職課程の単位を取り(同じ時間帯で3つの講座をとったりした。今では考えられない!)、静岡県の教員採用試験を受け教員になった。
教員となってからの読書というと、やはり歴史研究に関わる本が多い。静岡大学の教員が中心となって静岡県近代史研究会が組織され、発足時から会員となった。当初米騒動や「満州移民」の研究をしたりしていたが、そのうち静岡県史編纂事業が始まりその一員となった。県内各地、あるいは東京、京都などで、泊まり込んでの調査活動を行った。近代史研究会や編纂事業のなかで、第一線の研究者たちと身近で接することができ、彼らからほんとうにたくさんのことを学んだ(人から学ぶことを軽視してはならない!)。静岡県史では、被差別の歴史、在日朝鮮人の歴史などを担当した。「差別」の問題に開眼したのもこれが契機であった。
またこの頃県内各地の地方自治体が歴史編纂事業を始めた。私も、豊岡村(現在磐田市)や浅羽町(現在袋井市)、磐田市などをお手伝いした。編纂の方法はどこでも同じである。当該地域内や各地の研究機関などから資史料を集め、それをもとに歴史を叙述していくのだ。
だが収集された史料は自らは何も語らない。その史料に命を吹きかけて語らせるのは、その史料をつかって歴史を叙述する私なのである。例えば豊岡村では、大正期の天竜川製糸株式会社の史料がたくさん発見された。その史料群を読み解くためには、製糸業に関わる技術、経営など多方面の知識が必要となる。関係する文献を出来る限り集めて読み、そこで得られた知識を基盤として、ひとつひとつの史料を位置づけていくのである。
それぞれの史料はきわめて個別的なものであるが、それが位置づけられていくなかで、普遍的な歴史の一部となっていくのである。私たちの仕事は、眠っていた史料を普遍性の光で蘇らせることであるともいえよう。今まで遭遇した史料群としては、徴兵(豊岡村)、農山漁村経済更生運動と「満州移民」(中川根町)、南京事件(浅羽町)、電源開発(本川根町)などがある。
こうした歴史の調査では、どのような史料がでてくるかわからない。どのようなものであろうとも、その史料群を読み解くために、たくさんの文献を収集し読んでいく。一つの分野で一冊というわけにはいかない。学問にはいろいろな学説があるから、複数の学説を踏まえるためには何冊か読む必要がある。こうして本の山が築かれていく。歴史研究に従事している人々は、ほとんどが本の山に囲まれているといってよいだろう。
読書に関わることを脈絡なく書いてきたが、さてこれからは、ということも記しておこう。今まで読まれずに、書庫の奥でひっそりと出番を待っている本がある。(石川)啄木全集やチェーホフ全集である。ある時期無性に読みたくなって購入したものであるが、読む時間がなかった。じっくりと読んでいこうと思う。またもちろん歴史研究は続けていくので、これからも本は増えていく。
本は、私の人生の傍らにいつもあり続けたし、生きている限り今後もあり続けるだろう。
思春期に入りかけた青年のなかには、「生きる」ことについての懐疑を抱く者がいる。私もその一人であった。私はなぜ生きるのかを問うべく、いろいろな本を読んだ。三木清『人生論ノート』など。しかし読めば読むほど自らがこの世に生存していることについての疑問は大きくなるばかりであった。
そのような疑問を持ちつつ、現在某大学の教授になっているM君とは、様々な文学作品について論じあった。ほとんどは海外文学であった。ヘッセ、カフカ、カミユ、ロマン・ロラン、ヘミングウェイ、ツルゲーネフ・・・・。私はそのなかで、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』から特に影響を受けた。苦悩しながらも理想に向けて生きていく主人公の姿は、私を大いに力づけてくれた。
生きるということを考えるとき、海外文学は様々な示唆を与えてくれる。海外文学に私の関心を向けてくれたM君には、今も感謝している。
ところで当時激しく戦われていたベトナム戦争(1965~73)は、形成期の私の思想に大きな影響を及ぼした。この頃の新聞や雑誌には、米軍の侵略により甚大な被害を受けたベトナム民衆の姿が映し出されていた。米軍の圧倒的な武力は、ベトナムを破壊し、「ジェノサイド」(民族皆殺し)を企図しているようであった。私はこれは捨てておけないと思った。私と同様の想いを持った人々と共に、校内に社会科学研究会(社研)という自主的サークルを結成した。ベトナム戦争反対を呼びかけると共に、様々な本を読んだ。特に社会科学系の本、たとえばマルクス、エンゲルス、レーニンなどの著作を熱心に読み、討論した。これらの本は、大学入学後、社会科学研究の方法論として大いに役に立った。この頃、マルクス主義を通過しない学問研究は成り立ち得なかった。
大学に入って熱心に読んだ本は、ドストエフスキーである。高校時代の国語のT先生は、教科書を一切無視していろいろなことを話された。なかでも、ドストエフスキーの作品についての熱のこもった話は圧倒的であった。私は大学 1年生の夏休み、帰省もしないでひたすらドストエフスキーを読み続け、誰とも話さない日々が続いたことを憶えている。ドストエフスキーの全作品を読んだ経験は、今も私の精神のどこかに生き続けていると思う。
私は法学部に入学し、法律の勉強を始めた。もちろん憲法も学んだ。憲法の大原則の一つに平和主義がある。しかし平和主義がありながら、自衛隊が存在し、米軍が沖縄をはじめ全国各地に駐留している。憲法の平和主義とは、もちろん矛盾する。だがその存在を、法理論的に理屈をつけて正当化する「理論」もある。私にはあまりに無謀な「理論」であると思われた。法の有効性に疑問を抱いた私は、憲法をはじめとした法があっても、その執行は当該社会の力関係(たとえば平和主義を守ろうとする勢力とそうでない勢力)で決まっているのではないかと思った。憲法の教授とこの点で論争をしたことがあるが、私は力関係を歴史的に明らかにするために、特に日本近代史の勉強を始めた。そのなかで、法律よりも歴史を勉強すべきではないかと思い、日本史ゼミというサークルを文学部の連中と組織し、学外では東京歴史科学研究会へも顔を出すようになった。
但しこの頃の法学部はなかなか厳しく、民法や刑法、刑事訴訟法などの基礎法については徹底的に学ばされ、さらにゼミでは労働法をとったりしたので、法律の勉強も並行してやらざるを得なかった。
そうこうしているうちに 4年となった。ほとんど 1年間で教職課程の単位を取り(同じ時間帯で3つの講座をとったりした。今では考えられない!)、静岡県の教員採用試験を受け教員になった。
教員となってからの読書というと、やはり歴史研究に関わる本が多い。静岡大学の教員が中心となって静岡県近代史研究会が組織され、発足時から会員となった。当初米騒動や「満州移民」の研究をしたりしていたが、そのうち静岡県史編纂事業が始まりその一員となった。県内各地、あるいは東京、京都などで、泊まり込んでの調査活動を行った。近代史研究会や編纂事業のなかで、第一線の研究者たちと身近で接することができ、彼らからほんとうにたくさんのことを学んだ(人から学ぶことを軽視してはならない!)。静岡県史では、被差別の歴史、在日朝鮮人の歴史などを担当した。「差別」の問題に開眼したのもこれが契機であった。
またこの頃県内各地の地方自治体が歴史編纂事業を始めた。私も、豊岡村(現在磐田市)や浅羽町(現在袋井市)、磐田市などをお手伝いした。編纂の方法はどこでも同じである。当該地域内や各地の研究機関などから資史料を集め、それをもとに歴史を叙述していくのだ。
だが収集された史料は自らは何も語らない。その史料に命を吹きかけて語らせるのは、その史料をつかって歴史を叙述する私なのである。例えば豊岡村では、大正期の天竜川製糸株式会社の史料がたくさん発見された。その史料群を読み解くためには、製糸業に関わる技術、経営など多方面の知識が必要となる。関係する文献を出来る限り集めて読み、そこで得られた知識を基盤として、ひとつひとつの史料を位置づけていくのである。
それぞれの史料はきわめて個別的なものであるが、それが位置づけられていくなかで、普遍的な歴史の一部となっていくのである。私たちの仕事は、眠っていた史料を普遍性の光で蘇らせることであるともいえよう。今まで遭遇した史料群としては、徴兵(豊岡村)、農山漁村経済更生運動と「満州移民」(中川根町)、南京事件(浅羽町)、電源開発(本川根町)などがある。
こうした歴史の調査では、どのような史料がでてくるかわからない。どのようなものであろうとも、その史料群を読み解くために、たくさんの文献を収集し読んでいく。一つの分野で一冊というわけにはいかない。学問にはいろいろな学説があるから、複数の学説を踏まえるためには何冊か読む必要がある。こうして本の山が築かれていく。歴史研究に従事している人々は、ほとんどが本の山に囲まれているといってよいだろう。
読書に関わることを脈絡なく書いてきたが、さてこれからは、ということも記しておこう。今まで読まれずに、書庫の奥でひっそりと出番を待っている本がある。(石川)啄木全集やチェーホフ全集である。ある時期無性に読みたくなって購入したものであるが、読む時間がなかった。じっくりと読んでいこうと思う。またもちろん歴史研究は続けていくので、これからも本は増えていく。
本は、私の人生の傍らにいつもあり続けたし、生きている限り今後もあり続けるだろう。
「世界は東電と日本政府に疑惑を感じ始めている、本当のことを説明していないとの疑惑を」というブログの記事は、まさにその通りである。
是非読んで欲しい。
http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/59ec5c9b1f3af910ff069be848bcefba
是非読んで欲しい。
http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/59ec5c9b1f3af910ff069be848bcefba
こういう記事が出された。日本政府、東電、マスコミなどが一緒になって、できうる限り事故を小さいものと描き出そうとしてきたが、国際機関からこのように否定された。放出された放射性物質の量は、半端ではないのだ。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011041101001184.html
最大で1時間1万テラベクレル 国際尺度、最悪の7も
福島第1原発の事故で、原子力安全委員会は11日、原発からは最大で1時間当たり1万テラベクレル(テラベクレルは1兆ベクレル)の放射性物質が放出されていたとの試算を明らかにした。
政府はこれを受け、原発事故の深刻度を示す「国際評価尺度(INES)」で最も深刻な、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故に並ぶ「レベル7」とする方向で検討に入った。
INESの評価によると、放射性のヨウ素131換算で外部への放射性物質の放出量が数万テラベクレル以上である場合は、レベル7であるとしている。
原子力安全委の班目春樹委員長は、1時間当たり1万テラベクレルの放出が「数時間」続いたとの推計を明らかにした。
1時間当たり1万テラベクレルの放出が数時間続けば、レベル7に当たることになる。現在は同1テラベクレル以下になったとみられるとしており、安全委は、放射性物質の総放出量については「検討している」とするにとどめた。
政府は暫定的に「レベル5」としている現在の評価を見直し、レベル7に格上げすることの検討を始めた。
福島第1原発の事故で、原子力安全委員会は11日、原発からは最大で1時間当たり1万テラベクレル(テラベクレルは1兆ベクレル)の放射性物質が放出されていたとの試算を明らかにした。
政府はこれを受け、原発事故の深刻度を示す「国際評価尺度(INES)」で最も深刻な、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故に並ぶ「レベル7」とする方向で検討に入った。
INESの評価によると、放射性のヨウ素131換算で外部への放射性物質の放出量が数万テラベクレル以上である場合は、レベル7であるとしている。
原子力安全委の班目春樹委員長は、1時間当たり1万テラベクレルの放出が「数時間」続いたとの推計を明らかにした。
1時間当たり1万テラベクレルの放出が数時間続けば、レベル7に当たることになる。現在は同1テラベクレル以下になったとみられるとしており、安全委は、放射性物質の総放出量については「検討している」とするにとどめた。
政府は暫定的に「レベル5」としている現在の評価を見直し、レベル7に格上げすることの検討を始めた。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011041101001184.html
卒業時、何か書いて欲しいと頼まれると、私は躊躇せずこう記す。
道のない道、行ったり来たり、何度も歩けば道になる。
実はこれは中国の作家、魯迅のことばを意訳したものだ。藤井省三訳の『故郷』ではこうなる。
僕は考えたー希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ。(光文社古典文庫)
つまり、希望について僕は書いていたのである。
さて、岩波新書の最新刊『魯迅』を読み終えた。藤井省三氏が書いたものだ。これはすばらしい本だ。知的刺激に満ちあふれている。知らなかったことを教えてくれ、今まで気づかなかったことを気づかせてくれる、あるいはあたらしいことを考えるきっかけを与えてくれる。
藤井氏の本は、以前藤井氏らが訳した『中国の地の底で』(原作は鄭 義)を読んではじめて藤井氏のことを知った。その後もいくつかの本を読んでいるが、このたびの『魯迅』は多くの人にすすめたい本である。
魯迅は、教科書にも載るほどの有名作家であるから、知らない人はいないだろうが、『阿Q正伝』、『吶喊』など、中国を代表する作家である。中国語を選択した人は、魯迅を必ず読んでおく必要がある。いや若者は、魯迅を必ず通過しなければならない。
さてこの本は、魯迅という作家が何を書こうとしたのか、それが時代背景と共に描かれ、さらに東アジア諸地域で魯迅がどう読まれてきたのか、さらには村上春樹の小説の中にどのように魯迅が入り込んでいるのかなど、古今東西の魯迅にまつわる話(研究)をコンパクトにまとめたものだ。
私は、朝鮮半島の歴史に多大な興味関心を抱いているが、韓国では魯迅は「民主化運動を闘う人びとの心の支えであり、論理的支柱でもあった」、「植民地時代に始まる「魯迅読み」の伝統が、現在も脈々と続いている」という記述に心を動かされた。
私も若い頃から魯迅に親しみ、その頃は竹内好の翻訳が主流であったから、竹内訳の『魯迅文集』は全巻読んでいる。
魯迅の「阿Q正伝」は、「草の根の民衆が変わらぬ限り革命はあり得ないとする国家論を語った」(234ページ)と藤井氏が記すように、中国で近代国家を建設するプロセスにおける中国の民衆について洞察し、それを小説というかたちにしたものだ。
また私は村上春樹が書いたものを何冊か読んだことはあるが、実はあまり好きではない。どうも深さが感じられない。人間とか社会などの「表面」を軽くさらさらと描いているとしか思えなかったからだ。しかし村上の背後に魯迅がいるという指摘を読み、これはもう一度村上を読んでみようかと思った。
この本の帯に「現代中国は魯迅文学を抜きには語れない!」とある。言うまでもなく、東アジアの近現代史にとっても、さらに今においてさえ、「魯迅文学抜きには語れない」という状況がある。
なお、末尾に中国の若手作家の韓寒のブログにまつわるエピソードが記されている。そこには魯迅が今も健在であること、魯迅から学ぶもの、魯迅を読んで考えなければならないことが明確に示されている。
最近の本の値段は高くなっている。しかしこれはという本にぶち当たるとき、線を引き、書き込みをするためには、本は買わなければならない。そういう本をみつけることができるようになったら本物である。
この本は、そういう本であり、またそこから魯迅の作品を読もう、村上春樹を読み直そう・・・そういう発展性がある本だ。
希望は、こういうような本にたくさん出会い、それを糧にしてつくり出されるものだ。
道のない道、行ったり来たり、何度も歩けば道になる。
実はこれは中国の作家、魯迅のことばを意訳したものだ。藤井省三訳の『故郷』ではこうなる。
僕は考えたー希望とは本来あるとも言えないし、ないとも言えない。これはちょうど地上の道のようなもの、実は地上に本来道はないが、歩く人が多くなると、道ができるのだ。(光文社古典文庫)
つまり、希望について僕は書いていたのである。
さて、岩波新書の最新刊『魯迅』を読み終えた。藤井省三氏が書いたものだ。これはすばらしい本だ。知的刺激に満ちあふれている。知らなかったことを教えてくれ、今まで気づかなかったことを気づかせてくれる、あるいはあたらしいことを考えるきっかけを与えてくれる。
藤井氏の本は、以前藤井氏らが訳した『中国の地の底で』(原作は鄭 義)を読んではじめて藤井氏のことを知った。その後もいくつかの本を読んでいるが、このたびの『魯迅』は多くの人にすすめたい本である。
魯迅は、教科書にも載るほどの有名作家であるから、知らない人はいないだろうが、『阿Q正伝』、『吶喊』など、中国を代表する作家である。中国語を選択した人は、魯迅を必ず読んでおく必要がある。いや若者は、魯迅を必ず通過しなければならない。
さてこの本は、魯迅という作家が何を書こうとしたのか、それが時代背景と共に描かれ、さらに東アジア諸地域で魯迅がどう読まれてきたのか、さらには村上春樹の小説の中にどのように魯迅が入り込んでいるのかなど、古今東西の魯迅にまつわる話(研究)をコンパクトにまとめたものだ。
私は、朝鮮半島の歴史に多大な興味関心を抱いているが、韓国では魯迅は「民主化運動を闘う人びとの心の支えであり、論理的支柱でもあった」、「植民地時代に始まる「魯迅読み」の伝統が、現在も脈々と続いている」という記述に心を動かされた。
私も若い頃から魯迅に親しみ、その頃は竹内好の翻訳が主流であったから、竹内訳の『魯迅文集』は全巻読んでいる。
魯迅の「阿Q正伝」は、「草の根の民衆が変わらぬ限り革命はあり得ないとする国家論を語った」(234ページ)と藤井氏が記すように、中国で近代国家を建設するプロセスにおける中国の民衆について洞察し、それを小説というかたちにしたものだ。
また私は村上春樹が書いたものを何冊か読んだことはあるが、実はあまり好きではない。どうも深さが感じられない。人間とか社会などの「表面」を軽くさらさらと描いているとしか思えなかったからだ。しかし村上の背後に魯迅がいるという指摘を読み、これはもう一度村上を読んでみようかと思った。
この本の帯に「現代中国は魯迅文学を抜きには語れない!」とある。言うまでもなく、東アジアの近現代史にとっても、さらに今においてさえ、「魯迅文学抜きには語れない」という状況がある。
なお、末尾に中国の若手作家の韓寒のブログにまつわるエピソードが記されている。そこには魯迅が今も健在であること、魯迅から学ぶもの、魯迅を読んで考えなければならないことが明確に示されている。
最近の本の値段は高くなっている。しかしこれはという本にぶち当たるとき、線を引き、書き込みをするためには、本は買わなければならない。そういう本をみつけることができるようになったら本物である。
この本は、そういう本であり、またそこから魯迅の作品を読もう、村上春樹を読み直そう・・・そういう発展性がある本だ。
希望は、こういうような本にたくさん出会い、それを糧にしてつくり出されるものだ。
東北地方の余震は、いまだ続く。大きな余震が起こるたびに、被災者たちの引きつった顔がテレビ画面に映る。子どもの泣きじゃくる顔が続く。
そして福島原発では、再び電源が切れたりする。注水ができなくなると冷却がとまり、大変なことになる。まだまだ危険性はなくなっていない。
今日、放射能汚染が強い地域から避難することが政府から発表された。当然のことだ。原発から西北の方向は、南東の風によって多量の放射性物質が運ばれたようだ。
被災者、避難民の心情を思うとやりきれない思いに駆られる。大地震や津波については、ある意味で耐えるるしかないとも思う。しかし原発事故だけは、許せない。東京電力の、事故後の対応その他を見ても、怒りはおさまらない。東京電力の責任は重大である。
だが、日本の経済界のボスは、ひたすら東京電力をかばい、賠償については日本政府がすべきであると何度ものたまう。東京電力の株価が下がったことを気にしていたのだろう。
そして福島原発では、再び電源が切れたりする。注水ができなくなると冷却がとまり、大変なことになる。まだまだ危険性はなくなっていない。
今日、放射能汚染が強い地域から避難することが政府から発表された。当然のことだ。原発から西北の方向は、南東の風によって多量の放射性物質が運ばれたようだ。
被災者、避難民の心情を思うとやりきれない思いに駆られる。大地震や津波については、ある意味で耐えるるしかないとも思う。しかし原発事故だけは、許せない。東京電力の、事故後の対応その他を見ても、怒りはおさまらない。東京電力の責任は重大である。
だが、日本の経済界のボスは、ひたすら東京電力をかばい、賠償については日本政府がすべきであると何度ものたまう。東京電力の株価が下がったことを気にしていたのだろう。
経団連会長、東電国有化論けん制 賠償免責を
日本経団連の米倉弘昌会長は11日の記者会見で、原発事故による巨額の賠償が想定される東京電力の経営問題について「国有化というのは全然ない。(国が法律に基づいて)民間事業者としての東電を支援するということだ」と述べ、一部で取りざたされた東電の国有化論をけん制した
原子力損害賠償法に定められている、大規模な天災時には賠償を免責する条項は世界共通の考え方と指摘。「国が全面的に支援するのは当然」との認識を示した。
さらに「国有化論に政治家が触れたことで、どれだけ東電の株価が下落したか。正しく世の中や法律を理解して発言しないと日本の経済や産業、世界の原子力産業が全部だめになる」と語った。
この問題では、枝野幸男官房長官が東電への免責適用を否定。国の出資についても「否定された選択肢には入っていない」と発言している。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011041101000952.html
日本経団連の米倉弘昌会長は11日の記者会見で、原発事故による巨額の賠償が想定される東京電力の経営問題について「国有化というのは全然ない。(国が法律に基づいて)民間事業者としての東電を支援するということだ」と述べ、一部で取りざたされた東電の国有化論をけん制した
原子力損害賠償法に定められている、大規模な天災時には賠償を免責する条項は世界共通の考え方と指摘。「国が全面的に支援するのは当然」との認識を示した。
さらに「国有化論に政治家が触れたことで、どれだけ東電の株価が下落したか。正しく世の中や法律を理解して発言しないと日本の経済や産業、世界の原子力産業が全部だめになる」と語った。
この問題では、枝野幸男官房長官が東電への免責適用を否定。国の出資についても「否定された選択肢には入っていない」と発言している。
入学式も終わり、新しい生活を始めただろうと思う。落ち着かない日々が続いているであろうが、そろそろ何を履修するかという科目登録が始まるだろう。
その場合、教科書が提示されることもあるだろう。しかしこれは買わなくても良いし、もちろん新刊で買う必要もない。大学の教員の中には、教員になるためには研究したであろうが、その後は何もせずに大学教員の座にあぐらをかいている者も多い。そういう教員ほど、自分が書いたろくでもない内容の本を教科書として提示する。何せ新刊で売れたら、10%の印税が入るのだから、こんな良いことはない。
毎年、毎年、つまらない自分の本を買わせて自らの収入を増やしているとんでもない教員がかなりたくさんいる。
諸君の周囲にいる上級生諸氏に尋ねて、買う必要があるかどうか聞いた方がよい。大学の授業もただ受けるのではなく、その単位を取得しなければならない。最近は2単位のものが多いだろうが、昔は4単位が普通であった。1科目2~4単位である。単位を取得するためには試験を受けなければならない。レポート提出という形式の試験もあるだろう。その試験に、担当教員の書いたこと、話したことを、そのまま記せば単位をとれるのか、それとも関連書籍を自分自身が読み、自分なりの見解を記した方がよいのか、周辺の上級生諸氏に尋ねることをすすめたい。前者のような教員は、これは学者ではない。
教員が指定した本で買わなければならないものは、古本屋からも買える。アマゾンからも古本を買える。つまらない本にかねをかけるのはやめよう。
今は大学では授業の出欠席を確認するところが多いようだが、私は最初に講義に出て、つまらない講義はでるのをやめた。出欠席をとらなかったからでもある。
大学は、みずから勉強するところなのである。
ところで、たとえば社会科学・人文科学を学ぶ際には、知っておかなければならない語彙がある。たとえば「ゲマインシャフト」、「ゲゼルシャフト」である。これはテンニエス『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(岩波文庫)というドイツの社会学者の本に書かれている。政治学や社会学の本を読んでいると、この語彙がでてくる。その本を書いた人は、当然読者は知っているだろうということを前提にして書いているのだ。したがって、今発売されている本を理解するためには、それまでの学問的蓄積を踏まえておかなければならないということになる。
そういう学問的な蓄積となるものを、「古典」という。君たちが学んだ、たとえば日本の平安時代の古文を「古典」というのではない。
古今東西の学者たちが研究し考えたこと、その蓄積の上に今の学問がある。だから、「古典」を読みなさい。たとえば政治学や法学を学ぶなら、イェーリング『権利のための闘争』(岩波文庫)は必読文献である。
みられるように、「古典」は岩波文庫がもっとも多い。白帯、青帯など、分野によって帯の色が異なる。岩波文庫をよむことによって基礎的な教養をみにつけることができる。
4月、遊びやアルバイトの中でスタートするのか、それとも「学ぶ」ことでスタートするのか。もちろん後者であって欲しい。
その場合、教科書が提示されることもあるだろう。しかしこれは買わなくても良いし、もちろん新刊で買う必要もない。大学の教員の中には、教員になるためには研究したであろうが、その後は何もせずに大学教員の座にあぐらをかいている者も多い。そういう教員ほど、自分が書いたろくでもない内容の本を教科書として提示する。何せ新刊で売れたら、10%の印税が入るのだから、こんな良いことはない。
毎年、毎年、つまらない自分の本を買わせて自らの収入を増やしているとんでもない教員がかなりたくさんいる。
諸君の周囲にいる上級生諸氏に尋ねて、買う必要があるかどうか聞いた方がよい。大学の授業もただ受けるのではなく、その単位を取得しなければならない。最近は2単位のものが多いだろうが、昔は4単位が普通であった。1科目2~4単位である。単位を取得するためには試験を受けなければならない。レポート提出という形式の試験もあるだろう。その試験に、担当教員の書いたこと、話したことを、そのまま記せば単位をとれるのか、それとも関連書籍を自分自身が読み、自分なりの見解を記した方がよいのか、周辺の上級生諸氏に尋ねることをすすめたい。前者のような教員は、これは学者ではない。
教員が指定した本で買わなければならないものは、古本屋からも買える。アマゾンからも古本を買える。つまらない本にかねをかけるのはやめよう。
今は大学では授業の出欠席を確認するところが多いようだが、私は最初に講義に出て、つまらない講義はでるのをやめた。出欠席をとらなかったからでもある。
大学は、みずから勉強するところなのである。
ところで、たとえば社会科学・人文科学を学ぶ際には、知っておかなければならない語彙がある。たとえば「ゲマインシャフト」、「ゲゼルシャフト」である。これはテンニエス『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(岩波文庫)というドイツの社会学者の本に書かれている。政治学や社会学の本を読んでいると、この語彙がでてくる。その本を書いた人は、当然読者は知っているだろうということを前提にして書いているのだ。したがって、今発売されている本を理解するためには、それまでの学問的蓄積を踏まえておかなければならないということになる。
そういう学問的な蓄積となるものを、「古典」という。君たちが学んだ、たとえば日本の平安時代の古文を「古典」というのではない。
古今東西の学者たちが研究し考えたこと、その蓄積の上に今の学問がある。だから、「古典」を読みなさい。たとえば政治学や法学を学ぶなら、イェーリング『権利のための闘争』(岩波文庫)は必読文献である。
みられるように、「古典」は岩波文庫がもっとも多い。白帯、青帯など、分野によって帯の色が異なる。岩波文庫をよむことによって基礎的な教養をみにつけることができる。
4月、遊びやアルバイトの中でスタートするのか、それとも「学ぶ」ことでスタートするのか。もちろん後者であって欲しい。
「中日新聞」の配信記事であるが、たいへん勇気ある発言である。こういう発言を孤立させないようにすることが大切だと思う。
静岡・湖西市長「原発反対運動」表明
静岡県湖西市の三上元・市長は9日、福島第1原発の事故を受けて「原発の反対運動を行っていく」と表明した。浜松市西区であった浜名漁協主催の行事のあいさつで述べた。
同県御前崎市の中部電力浜岡原発をめぐり津波や直下型地震が起きた場合の危険性を指摘。「もともと原発には反対だった。今後は市長という立場で表明していかなければならないと思っている」と述べた。
静岡県湖西市の三上元・市長は9日、福島第1原発の事故を受けて「原発の反対運動を行っていく」と表明した。浜松市西区であった浜名漁協主催の行事のあいさつで述べた。
同県御前崎市の中部電力浜岡原発をめぐり津波や直下型地震が起きた場合の危険性を指摘。「もともと原発には反対だった。今後は市長という立場で表明していかなければならないと思っている」と述べた。
京都大学小出教授出演ラジオを発見しました。
http://www.ustream.tv/recorded/13851905
過去のラジオはこちらになります。
http://www.youtube.com/watch?v=1bKJwIJTSIQ&feature=autoplay&list=ULMyENUuyhhwg&index=4&playnext=6
http://hiroakikoide.wordpress.com/
1号機の異常と東京放棄の可能性 小出裕章2011年4月8日 2011年4月8日20:30から放送されたFM797京都三条ラジオカフェの録画です。小出裕章氏が福島第一原発の最新情勢と想定される事態について語っています。
「東日本大震災支援特別番組 福島原発事故による影響について 汚染水 海への流出は止まった? 原子炉の現状は?」http://www.ustream.tv/recorded/13851905
出演 ゲスト:京都大学原子炉実験所 助教 小出裕章先生 パーソナリティ;下村委津子(NPO環境市民)
2011年4月8日OA 小出裕章氏の発言の簡単な要約は以下の通りです。
・1号機の格納容器の放射線量が7日から8日にかけて2~3倍に激増した。原子炉内の異常(温度上昇、圧力上昇)により噴きだしてきた可能性。窒素注入とは関係ない別の理由によるものかもしれない。
・格納容器には大量の水素だけでなく酸素も蓄積してきているようだ。東電はそのように考えているようだ。酸素がたまっているのは、従来考えられてきた放射線による水の分解だけによるのではなく、外部から酸素から入ってきているのではないかということを心配している。
・大量の放射性物質を外部に放出することを前提にして窒素注入をせざるを得ない状況になっている。
・手当ての方法はひとつだけで、水を入れるということ。水を入れ続けても1号機の温度が下がらないのは、再臨界が起きている可能性を示している。1号機で燃料棒が70%以上壊れているために、制御棒がうまく入らなくなり、核分裂反応がとまっていないかもしれない。
・原子炉周辺で中性子が検出されているかどうかは分からない(東電が発表していない)。敷地の周辺で検出されている中性子は、原子炉で再臨界が起こっているかどうかの判断には使えない。
・いまは1号機から目を離せない状況。再臨界が起こっているとしたら、その状態でベント(排気)をすると高濃度の放射性物質が吹き出してくる。
・影響は風向き次第。現在すでに広島にも沖縄にも届いている。いま恐れている最悪の事態になったときは、福島はチェルノブイリと同じ規模の事故になる。チェルノブイリでは700kmのところまで放射線管理区域になった。
・一次情報(発表される数字)の意味を理解する必要がある。東京電力や政府は混乱を恐れているために「ただちに~」「安全です」が先に出てしまい、適切な説明が二の次になる。
・「水棺冷却」という言葉は初めて聞いた。今すべきことは原子炉を冷却すること。そのためには水を入れること。ただし、再臨界が起きてしまうと崩壊熱を冷やすだけでは足りないため、難しい状況になる。それに失敗すると水素爆発という最悪の事態になり、まだその可能性はある。そうなったときには日本全体で自分たちの生き方を考え直すことになる。
・爆発した際は、風向きによっては東京も放棄しなくてはいけない事態になる。発表されるデータを注意深く見ることが大切。
・臨界という状態は長くは続かない。臨界になるとその部分は膨張し、いったん臨界は止まる。温度が下がるとまた臨界になる。それを繰り返す。そのようなグツグツしている状態になっていると推測している。
http://www.ustream.tv/recorded/13851905
過去のラジオはこちらになります。
http://www.youtube.com/watch?v=1bKJwIJTSIQ&feature=autoplay&list=ULMyENUuyhhwg&index=4&playnext=6
http://hiroakikoide.wordpress.com/
1号機の異常と東京放棄の可能性 小出裕章2011年4月8日 2011年4月8日20:30から放送されたFM797京都三条ラジオカフェの録画です。小出裕章氏が福島第一原発の最新情勢と想定される事態について語っています。
「東日本大震災支援特別番組 福島原発事故による影響について 汚染水 海への流出は止まった? 原子炉の現状は?」http://www.ustream.tv/recorded/13851905
出演 ゲスト:京都大学原子炉実験所 助教 小出裕章先生 パーソナリティ;下村委津子(NPO環境市民)
2011年4月8日OA 小出裕章氏の発言の簡単な要約は以下の通りです。
・1号機の格納容器の放射線量が7日から8日にかけて2~3倍に激増した。原子炉内の異常(温度上昇、圧力上昇)により噴きだしてきた可能性。窒素注入とは関係ない別の理由によるものかもしれない。
・格納容器には大量の水素だけでなく酸素も蓄積してきているようだ。東電はそのように考えているようだ。酸素がたまっているのは、従来考えられてきた放射線による水の分解だけによるのではなく、外部から酸素から入ってきているのではないかということを心配している。
・大量の放射性物質を外部に放出することを前提にして窒素注入をせざるを得ない状況になっている。
・手当ての方法はひとつだけで、水を入れるということ。水を入れ続けても1号機の温度が下がらないのは、再臨界が起きている可能性を示している。1号機で燃料棒が70%以上壊れているために、制御棒がうまく入らなくなり、核分裂反応がとまっていないかもしれない。
・原子炉周辺で中性子が検出されているかどうかは分からない(東電が発表していない)。敷地の周辺で検出されている中性子は、原子炉で再臨界が起こっているかどうかの判断には使えない。
・いまは1号機から目を離せない状況。再臨界が起こっているとしたら、その状態でベント(排気)をすると高濃度の放射性物質が吹き出してくる。
・影響は風向き次第。現在すでに広島にも沖縄にも届いている。いま恐れている最悪の事態になったときは、福島はチェルノブイリと同じ規模の事故になる。チェルノブイリでは700kmのところまで放射線管理区域になった。
・一次情報(発表される数字)の意味を理解する必要がある。東京電力や政府は混乱を恐れているために「ただちに~」「安全です」が先に出てしまい、適切な説明が二の次になる。
・「水棺冷却」という言葉は初めて聞いた。今すべきことは原子炉を冷却すること。そのためには水を入れること。ただし、再臨界が起きてしまうと崩壊熱を冷やすだけでは足りないため、難しい状況になる。それに失敗すると水素爆発という最悪の事態になり、まだその可能性はある。そうなったときには日本全体で自分たちの生き方を考え直すことになる。
・爆発した際は、風向きによっては東京も放棄しなくてはいけない事態になる。発表されるデータを注意深く見ることが大切。
・臨界という状態は長くは続かない。臨界になるとその部分は膨張し、いったん臨界は止まる。温度が下がるとまた臨界になる。それを繰り返す。そのようなグツグツしている状態になっていると推測している。
政府、東電、大手マスメディアが、「安全」「安全」を繰り返しているが、そう言われれば言われるほど、国民は不信感を抱く。なぜなら、国民は放射能汚染について、まったく無知ではないからだ。
しかしメディアは、無知な国民だと思っているのだろう、原発推進論者を出して今まで原発は安全だという「安全神話」を言ってきた延長で、今回の福島原発事故での放射能汚染についても「安全神話」を作りあげようとしている。
そうなると国民は、大手メディアではないこのインターネットを駆使して情報をやりとりするようになった。すると政府は情報を統制することができないとして、ついに情報統制に乗り出した。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1104/07/news026.html
しかしメディアは、無知な国民だと思っているのだろう、原発推進論者を出して今まで原発は安全だという「安全神話」を言ってきた延長で、今回の福島原発事故での放射能汚染についても「安全神話」を作りあげようとしている。
そうなると国民は、大手メディアではないこのインターネットを駆使して情報をやりとりするようになった。すると政府は情報を統制することができないとして、ついに情報統制に乗り出した。
総務省は4月6日、東日本大震災に関連してインターネット上でデマが広がっているとして、内容が法令や公序良俗に反する場合はサイト管理者が自主的に削除することも含め、業界4団体に対応策を要請した。
政府の「被災地等における安全・安心の確保対策ワーキングチーム」が同日、被災地での犯罪防止や治安維持について対策をまとめたのを受けた。
同チームは、震災や原子力発電所事故について、「不確かな情報等、国民の不安をいたずらにあおる流言飛語が、口伝えや電子メール、電子掲示板への書き込みなどにより流布されており、被災地等における混乱を助長している」として、関係省庁が連携して実態を把握した上で、ネットユーザーへの注意喚起や、サイト管理者に対し、法令・公序良俗に反する情報の自主的な削除を含めて適切な対応をとるよう要請している。
これを受け、総務省は電気通信事業者協会、テレコムサービス協 会、日本インターネットプロバイダー協会、日本ケーブルテレビ連盟の4団体に、加盟するISPなどの事業者などが「表現の自由にも配慮しつつ、『インターネット上の違法な情報への対応に関するガイドライン』や約款に基づき、適切な対応」をとるよう周知を要請している。
同チームは、国や自治体がTwitterなどソーシャルメディアを活用する際は、認証を取得するなどして情報源としての信頼性を確保するよう求めている。
政府の「被災地等における安全・安心の確保対策ワーキングチーム」が同日、被災地での犯罪防止や治安維持について対策をまとめたのを受けた。
同チームは、震災や原子力発電所事故について、「不確かな情報等、国民の不安をいたずらにあおる流言飛語が、口伝えや電子メール、電子掲示板への書き込みなどにより流布されており、被災地等における混乱を助長している」として、関係省庁が連携して実態を把握した上で、ネットユーザーへの注意喚起や、サイト管理者に対し、法令・公序良俗に反する情報の自主的な削除を含めて適切な対応をとるよう要請している。
これを受け、総務省は電気通信事業者協会、テレコムサービス協 会、日本インターネットプロバイダー協会、日本ケーブルテレビ連盟の4団体に、加盟するISPなどの事業者などが「表現の自由にも配慮しつつ、『インターネット上の違法な情報への対応に関するガイドライン』や約款に基づき、適切な対応」をとるよう周知を要請している。
同チームは、国や自治体がTwitterなどソーシャルメディアを活用する際は、認証を取得するなどして情報源としての信頼性を確保するよう求めている。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1104/07/news026.html
低濃度放射性物質を含んだ水を海洋投棄するというロンドン条約違反を、日本は行ったが、これについて重要な記事が『東京新聞』にあった。
「海へ放水 米、3日前に内諾」という記事だ。日本国民には直前、周辺諸国には投棄の後、これが日本政府の本質である。いったいどこの政府なのか。
この問題については、この情報も読むべし。
http://astand.asahi.com/magazine/judiciary/articles/2011040500009.html
「海へ放水 米、3日前に内諾」という記事だ。日本国民には直前、周辺諸国には投棄の後、これが日本政府の本質である。いったいどこの政府なのか。
東京電力福島第一原発から低濃度放射性物質を含む汚染水を海へ放出するにあたり、政府が事前に米国側と協議し、内諾を得ていたことが分かった。米国政府関係者が一日に政府高官と面会したり、東電での関係者間の対策会議に参加したりする中で「米国は放出を認める」と意向を伝えていたという。
汚染水放出をめぐっては、韓国や中国、ロシアなどが「事前説明がなかった」と批判している。日本政府は放出発表後に各国に報告したが、放出を始めた四日の三日前に米国とだけ協議していたことで反発が強まる可能性もある。
日本側関係者によると、米エネルギー省の意を受けた同省関係者が日本人研究者とともに一日、官邸で政府高官と面会。「汚染水を海に放出し、早く原子炉を冷却できるようにしないといけない。放射性物質は海中に拡散するので問題ない。米政府は放出に抗議しない」とのメッセージを伝えたという。
政府関係者によると、東電本社内で開かれた政府や米国大使館による対策会議でも、米側から海洋投棄を認める発言があった。
官邸筋は「海に流すのを決めたのは、日本政府の原発チーム。米政府の依頼によるものではない」と説明。一方で「米側から『大丈夫だ』という話はあった」と話している。
他の近隣国に事前に説明しなかったことについて、枝野幸男官房長官は六日の記者会見で「私が指示すべきだったと反省している」と陳謝している。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2011040802000030.html汚染水放出をめぐっては、韓国や中国、ロシアなどが「事前説明がなかった」と批判している。日本政府は放出発表後に各国に報告したが、放出を始めた四日の三日前に米国とだけ協議していたことで反発が強まる可能性もある。
日本側関係者によると、米エネルギー省の意を受けた同省関係者が日本人研究者とともに一日、官邸で政府高官と面会。「汚染水を海に放出し、早く原子炉を冷却できるようにしないといけない。放射性物質は海中に拡散するので問題ない。米政府は放出に抗議しない」とのメッセージを伝えたという。
政府関係者によると、東電本社内で開かれた政府や米国大使館による対策会議でも、米側から海洋投棄を認める発言があった。
官邸筋は「海に流すのを決めたのは、日本政府の原発チーム。米政府の依頼によるものではない」と説明。一方で「米側から『大丈夫だ』という話はあった」と話している。
他の近隣国に事前に説明しなかったことについて、枝野幸男官房長官は六日の記者会見で「私が指示すべきだったと反省している」と陳謝している。
この問題については、この情報も読むべし。
http://astand.asahi.com/magazine/judiciary/articles/2011040500009.html