浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

TPP参加は、日本を嵐の中に放り込むこと

2013-03-13 20:51:10 | 日記
 売国奴安倍政権、アメリカの国益のために日本を人身御供として差し出す自公政権。

 アメリカの狙いは、日本に非関税施策を解除させることだ。関税に関わることは、新聞は報道するが、それ以外は報道しない。

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/-tpp-6820.html

 まさにこのサイトに記されているのが、アメリカの目的なのだ。

アメリカ合州国の狙いは、米日貿易関係において、関税よりずっと重大な邪魔者であり続けている非関税施策、ある種の政府規制等を、日本に解除させることにある


 http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/tpp52-79bd.html


 前野田政権が衆議院を解散したのは、自民党を勝たせ、そしてTPPに参加させるための謀略ではなかったかとボクは思っている。円安、株価の上昇も、である。

 しかし、TPPに参加した後、日本の経済はまた悪化すると思う。円高は進み、株価は下がるだろう。
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危険なTPP

2013-03-12 08:11:48 | 日記
 今日の『中日新聞』第二面に、民主党政権時代に、アメリカ側がTPPに関してどのようなことを持ち出してきたかが明らかにされた。

 まったくアメリカの要求一辺倒になっている。

 1 米国が輸入乗用車に2・5%、トラックに25%を課している関税撤廃を、猶予期間を設定し遅らせる。

  ◎日本では、自動車に関する輸入関税は、アメリカ車を輸入する際、まったく課していない。一方的にアメリカは自国の自動車産業を保護している。

 2 米国の安全基準を満たした車は日本の安全審査なしとする輸入枠を米韓自由貿易協定と同様に設ける。

  ◎車など、日本の安全基準は、おそらく加盟国の最低に変えられるだろう。これは車だけの問題ではない。薬なども同様だ。こういう規定は、すなわち大企業により多くの利益を得させるための手段であって、決して国民のためではない。それはもちろん、TPPに参加する国民のためでもない。あくまで国境を越えて利益を求める企業のための施策である。

 3 かんぽ生命の学資保険の内容変更。

  ◎これについては内容が公表されていないので、コメントしようがない。おそらくアメリカの保険会社の利益を確保するためだろう。


 しかしいずれにしても、この事例に見られるように、アメリカは自国(自国の大企業)を利するための要求を突きつけてきているのだ。

 いままで、日米交渉で、日本側が自らの利益確保でまとまったことはあったか。日米繊維交渉など、すべてがアメリカの一人勝ちであった。

 今度も、安倍政権は、TPPに参加して、日本を売るのか。果たして誰が「売国奴」なのかを考えて欲しい。
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正しいこと

2013-03-11 16:05:16 | 日記
 「正しいこと」というと、「正しいこと」なんかないんじゃないか、という声が聞こえてきそうだ。しかし、「正しいこと」はある。2011・3・11を経た後の「原発ゼロ」は、絶対に正しい。

 しかしその「正しいこと」は、「原発推進」勢力によって、その実現が強い力で拒まれている。「正しいこと」を「正しいこと」だからこそ、実現させたいという人びとの集会・デモ行進が3月9日、東京で行われた。

 その集会の全体を、私たちは下記のサイトでみることができる。

http://www.ustream.tv/recorded/29873305#/recorded/29841475

 演題に立つ人びとは、「正しいこと」を、みずからの正義感を背景にして、強く、強く訴えている。鎌田慧さん、大江健三郎さん(その話の中で、長崎の被ばく者、作家林京子さんの声を紹介している)、内橋克人さん(代読)、落合恵子さん、沢地久枝さん、広瀬隆さん。

 その訴えは、しかし、なかなか伝えられない、伝わらない。なぜか、を考えたい。

 「正しいこと」は、それだけで力があるはずなのだが、しかし「正しいこと」は、日本では力がない。「正しいこと」を、カネ儲け、「強欲」という資本主義の「本性」が、覆い隠しているのである。

 覆い隠そうとする勢力が、マスメディアを駆使して、「正しいこと」を知らせない、忘れさせる、考えさせないようにしているのだ。

 だから、ボクたちは、意識的に学ばなければならない。

 広瀬さんが紹介した、『毎日新聞』の「記者の目」を次に掲載させていただく。


記者の目:震災2年 フクシマの教訓=関谷俊介(西部報道部)
毎日新聞 2013年03月08日 東京朝刊

 ◇原発固執の値上げ認めるな

 電力各社の電気料金値上げ申請が相次いでいる。九州電力も火力発電の燃料費増加を理由に経済産業省に申請中だが、その内容は原発推進の姿勢が鮮明だ。原発に依存してきた経営をどう反省し、原発のリスクとどう真剣に向き合おうとしているのか、東京電力福島第1原発事故の教訓は見えてこない。将来のエネルギー政策決定を引き延ばす政府にも同じことが言える。事故から2年がたつ今も苦しみが続く福島の惨禍を政府は直視し、原発推進に固執するだけの値上げを安易に認めるべきではない。

 ◇九電の料金改定、再稼働盛り込む

 九電の家庭向け電気料金の値上げ申請は、経産省の有識者会議「電気料金審査専門委員会」が審査し、6日に査定結果を経産相に報告した。

 申請では、前回(08年)の料金改定に比べ今後3年間で、火力発電の燃料費が年平均1669億円増加すると試算する。その陰で原発にも前回より手厚い費用を充てている。運転から37年で老朽化が指摘される玄海原発1号機(佐賀県)を含む全6基に年平均14億円増の維持費(年平均539億円)を費やすほか、安全対策費として新たに年平均428億円を盛り込む。さらに申請の原価には入れていないが、追加の安全対策費として数百億円を見込んでおり、川内原発(鹿児島県)3号機増設計画(建設費約5400億円)も捨てていない。

 1、2月にあった消費者の意見を聴く同省主催の公聴会では、陳述人の多くが九電に原発依存からの脱却を求めた。だが審査委員は「審査するのは電気事業の原価が適正か否かで、エネルギー政策ではない」と話し、陳述人の声が審査に反映される仕組みにはなっていない。その結果、審査委によって顧問の報酬などが原価として認められず値上げ率が圧縮される一方、原発推進方針は依然として守られる。今後、消費者庁による検討を経て、関係閣僚が会議を開き、最終的に経産相が値上げの認可を決める。

 九電役員OBが震災直後、私に言った言葉が思い出される。「数年たてば多くの国民が原発事故のことを忘れる。原発はまた元の通り動くよ」
.

 
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学ぶこと

2013-03-10 16:57:36 | 日記
 現在の政治経済・社会情勢について、きちんと学びたいと考えるなら、岩波書店の『世界』を推奨する。マスコミ関係への就職を考えている人は、熟読すべきである。

 ボクは、『世界』を高校生の時から購読している。『世界』に掲載された様々な論文は、いろいろなことを教えてくれた。『世界』の各月号の論文には、その時期に考えなければならないこと、学ばなければならないことがきちんと、知性と論理性を前提にして、批判的に記されている。

 今の時代、インターネットのように、短文というか省略文字に慣れた人びとには、そのような論文を読むことは苦しいことかもしれない。しかし、知性とは、そういうものを乗り越えてこそ身につくというものだ。

 さて今月号の特集は、「終わりなき原発災害」と「アベノミクスと日本経済」である。特に後者は、アベノミクスの本性を的確に指摘している。それぞれの論文を紹介することはしないが、いずれも時宜にかなった論文である。

 民主党政権の末期、総選挙が日程に上がり始めると、日本の株価が上昇し、円安が進んだ。アメリカやヨーロッパの経済情勢がわずかながら好転したことからかもしれないが、しかしボクはそこに陰謀めいたものを感じるのだ。

 日本の株を購入しているのは、外国人投資家だそうだ。、TPPに参加させようとするアメリカのグローバルキャピタリストたち(彼らこそが日本の資産を狙っているのだ)が、安倍自民党・公明党政権をつくるために、あるいは次の参議院選挙で自公を勝利させるために、一時的な「支援」を行っているのではないか、と。

 ※TPPの危険性については、鈴木宜弘東大教授が「許しがたい背信行為」という論文を、この『世界』に寄せている。筆法鋭く、TPPの危険性を衝いている。

 アベノミクスは、小泉政権下の経済政策とよく似ていて、小泉政権の諸施策が格差を拡大したように、さらに格差を広げ、多くの庶民の生活に打撃を与えていくことだろう。消費税が増税され(すでにそれ以外の税金もあがっている)、物価が2%上昇し、健康保険や介護保険などの納付金もあがり、可処分所得はもっともっと減っていくだろう。株価があがっても、庶民にはあまり関係はないのだ。

 そしてフクシマ。もう忘却されつつあるようだが、しかしこの問題は日本の本質を如実に示す「事件」である。「原発災害」に、もう一度向かい合うことが求められている。

 とにかく、「学ぶ」ことである。それなしに、「現在」をとらえることはできない。そのために、とりあえず『世界』を読もう。
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教えられること

2013-03-09 19:56:07 | 日記
 年齢を重ねても、次々と教えられること、新しい発見がある。ボクはまだまだ未熟であることを痛感する。

 いくつかのブログを読んでいて、ハッとさせられることがある。たとえばこの詩だ。作者は、神奈川県横須賀市の真宗大谷派長願寺の住職、海法龍(かい・ほうりゅう)さん(1957年、熊本県天草市の生まれ)。

  忘却の悲しみ

 過去を忘れ
 未来を忘れ
 今、生きていることを忘れ
 存在の重さ深さ尊さを忘れ
 忘れてはならないことを忘れる

 同じ過ちを繰り返す悲しみ
 これからの子どもたちの悲しみ
 目先の利益だけで生きる悲しみ
 存在を軽く浅く卑しくしている悲しみ
 悲しみを生み出してきた悲しみ

 人間であることを忘れた悲しみ
 広島・長崎の酷さ
 水俣の苦渋
 福島の呻き
 時計の針はそんなに動いていないのに
 忘却の彼方へ追いやられる

 国策の果てに辿り着いた今
 加害者を作り被害者を作る
 みんな仲間なのに傷つけ合う
 これが行きたかった場所なのか
 何かが違う


『Prati プラ・ティ』(2012 Vol.9)という東本願寺真宗会館(東京都練馬区谷原1丁目)の情報誌に掲載されていたものだそうだ。

 そしてもう一つ。望田幸男というドイツ現代史専攻の学者の言葉。ナチスの政治権力掌握について、

「ドイツ国民は『食えない民主主義』(ワイマール体制)よりも『食える独裁』(ナチス体制)を選んだ」

  ワイマール体制は、憲法上にはじめて生存権を規定した民主的な政権だった。しかし、ドイツ国民は、ナチスにより多く投票した。

 ボクはいつも思う、人は理念に生きることはしない、とりあえず、カネである、と。

 自公両党に投票した人びとと、1930年代のドイツ国民とが重なってしまう。

 
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相対化

2013-03-09 16:45:17 | 日記
 新しく生まれてくる人びとは、自分自身が生まれた環境(自然環境、社会環境などすべて)を所与のものとして、それを前提に生きていく。まわりの環境をすべて受け容れることによってしか生きられない、ということでもある。

 となると、その環境を批判することはなかなか難しくなる。自己を存立させている基盤を疑うということでもあるからだ。

 しかし一定の年齢になると、精神的自立の時期が必ず訪れてくる。自立していくためには、相対化が必要だ。他者(まさに他人、友人、メディアからの情報など)との無数の遭遇のなかで、自分自身を相対化する、あるいは自己を存立させている基盤をも相対化する。

 その時、相対化の波が、どこまで及ぶのか。自分自身、家族、学校、地域、政府・・・そして政治や経済。

 その相対化の波がどこまで及ぶのかは、時代に依存するようだ。最近は、相対化の波が狭い範囲、自分自身が直接関わる範囲で止まっている。もちろん考えようによっては政治は直接関わる分野ではあるが、そこまではとても及ばない。

 自己を存立させている基盤に絶対的信頼をもち、その基盤を相対化し変革しようとする傾向には眉をひそめ、生理的に拒否反応を示す。とくにそれはインターネット世界で激しい。

 同時に、一定の学歴を経た者にもそのような傾向を感じる。最近ボクに問い合わせしてきた、イギリスの大学院にいる若者のメールに、それを強く感じた。

 ボクは、今それについて考え始めている。
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表記の統一について

2013-03-08 20:55:50 | 日記
 今、某女史の遺稿集の校正をしています。

 気がついた点で、参考にして欲しいことをここに記していきます。

 ほとんどが歴史関係の文ですから、年代がしばしば出てきます。残念ながら、日本の年代表記は、西暦と元号によるものがあり、2013年、平成25年というように。日常生活の中でも、併用されています(なおボクは基本的には西暦で表記しますし、西暦で思考しています)。

 歴史関係の文章では、たいがい西暦と元号を併記します。たとえば「1995年(平成7)」、「平成7(1995)年」とか・・・もちろん年代が出てくるたびに併記するのもたいへんですから、ページの最初だけ併記するとか、いろいろ工夫もあります。

 ここで言いたいことは、一つの文の中では、その表記は統一しておいてほしいということです。あるときは西暦で表記し、あるときは元号で表記するというのは、やめてほしいと思います。

 ついでに年齢表記も統一してほしいし、数字の表記も統一して欲しいのです。

 たとえば縦書きの場合、四三歳、四十三歳、43歳の表記があります。どれかを選択したら、それで表記すべきなのです。

 こういうことは、きちんと意識していないと、不統一になります。

 文を書く人は、注意してください。


 
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余力

2013-03-08 20:25:56 | 日記
 「教職員駆け込み退職235人に 知事、再任用強く牽制 静岡」は、昨日の産経新聞が流した記事。まず全文を読んでいただこう。


 

 公務員の今年度からの退職手当削減方針に伴い、教職員では定年退職者の4割にあたる235人が年度末前の“駆け込み退職”を申し出ていることが分かった。校長はいないが、教頭は6人含まれている。6日の静岡県議会2月定例会の質疑で明らかにされた。県職員も定年退職者の6%にあたる10人が早期退職を希望している。警察職員には「現時点で条例施行前の辞職願を提出した職員はいない」という。

 駆け込み退職者の処遇について、安倍徹教育長はこの日の県議会で「25年以上勤めた自己都合退職者は、定年退職者と同様に再任用の対象」と答弁し、早期退職者235人のうち50人を再任用する方針を明らかにした。

 しかし、川勝平太知事はこの答弁を受けて「再任用についての教育委員会は開かれていない」と発言。答弁は安倍教育長の独断であり、教育委員会で承認されたものではないとの見方を示して、早期退職者の再任用を強く牽制(けんせい)した。

 また、県職員と県警職員も退職手当削減については同じ条件でありながら、教職員にのみ大量の早期退職者が出ていることについて、安倍教育長は「一人一人が苦渋の選択をしたと思っている」と弁護した。

これに対して川勝知事は「警察官の駆け込み退職はゼロ。一方で教職員は4割というところに、矜持(きょうじ)のありようが見える」と、教職員のモラルを批判した。

 退職手当が削減される定年退職者は、教職員588人▽県職員168人▽警察職員125人の計881人。現在県議会で審議中の退職手当引き下げ条例案の施行予定日は20日で、成立すれば、同日以降の退職者は19日以前に比べて手当が約150万円減額される。

 退職手当の官民格差は400万円とされており、これを埋めるために県は、平成26年度末までに1人当たり総額400万円を3段階に分けて引き下げる方針だ。


 この内容について、まず退職金を大幅に、それも年度途中で引き下げることは、まったくもってあるべきことではない。私は引き下げそのものに懐疑的であるが、それでも少なくとも、4月1日から施行とすべきであった。したがって、この前提からすれば、それ以後の記事内容は、まったく問題とはならない。

 再任用制度についてのみここに記す。
 
 定年退職した教職員が再び教壇に立つことを再任用という。この制度は他の公務員にもあり、教職員だけではない。公務員の多くは、再任用されている。

 私はそういう制度があってもよいとは思う。基礎年金支給は65歳からであるから、共済年金だけでは経済的に苦しい家庭も当然あるだろう。

 しかし、再任用というのは、授業だけやってその外の業務はない。きわめて楽な仕事である。再任用教員はおそらく教員数にカウントされる。すると、新しく採用される教員が減ることになる。

 ボクは、楽な仕事、新採用教員を増やすという点から、やむを得ない場合のみ再任用すべきだと思う。

 ボクが見聞きした範囲で思うことは、在職中、熱心に仕事をしていた教員たちは再任用教員になっていない。在職中、あまり仕事をしていなかった人が再任用教員となっている。「余力」を残して退職した人びとが、楽な仕事でカネを稼ぐことができる制度だという見方もできる。ついでにいえば、彼らは授業もそう熱心ではなかったようだ。

 何のために再任用教員となるか、何人かに聞いたことがある。家にいてもすることがないから、再任用は楽だから・・・・であった。少なくとも、生徒のこと、学校のこと、教職を目指す若者のことなどは視野に入ってはいない。

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「帝国意識」

2013-03-07 12:53:10 | 日記
 今日、東京大学出版会が出しているPR誌『UP』が届いた。これもぱらぱらとみていたら、近世史学者の深谷克己の『東アジア法文明圏の中の日本史ー東アジアの中の日本史』(岩波書店)の書評を、成田龍一が書いていた。その内容はとても刺激的で、必ず読もうという気になってきた。というのも、深谷の問題意識は、最近のボクの問題意識と重なるからだ。

 深谷は、その本で、冒頭「日本史認識を問い直す」ということで、家永三郎や北島正元らを批判しているというのだ。両者とも、戦後歴史学を中心となって担ってきた方々で、いずれも亡くなられてる。

 深谷は、彼らは「戦時体制」に抵抗しながらも、「日本と中国・朝鮮を優劣、先進ー後進論との認識をみせていたこと」、「「戦後歴史学」は、「世界に対しては「日本異質論」、アジアに対しては「日本先進論」に行き着く性格を持っていたとし、その「脱アジア」ないし「非アジア」的認識構造からの脱却を、現今の歴史学の重要な課題と」(成田の文からの引用)して提起しているようなのだ。

 ボクは、戦後歴史学の担い手たちは、もちろんきわめて良心的な人びとではあるが、やはり「帝国意識」の軛からは逃れられなかったのではないかと思うのだ。

 「帝国意識」とは、木畑洋一によると、少し長くなるけれども以下のような意識である。

 「帝国意識」とは、自らが、世界政治の中で力を持ち、地球上の他民族に対して強力な支配権をふるい影響力を及ぼしている国、すなわち帝国の「中心」国に属しているという意識である。それは、自国に従属している民族への、しばしば強い人種的差別感に基づく侮蔑観と、それと裏腹の関係にある自民族についての優越感に支えられており、自民族による従属民族の支配を、「遅れた」人々を指導、教化し、「文明」の高みに引き上げてやっているのだとして正当化するパターナりズムを伴っている。そのような国としての自国が世界の中での大国であるということは自明視され、帝国支配領域を守るために戦うことは義務であると考えられて、大国としての自国の位置や帝国領土をめぐる戦争では好戦的な「愛国心」がかきたてられる。そして帝国の「一体性」が重視され、自国が帝国の「中心」としての責任を果たす代わりに、帝国内の人々が「中心」国に忠誠を尽くし、帝国としてのまとまりを持続させていくのは当然のことであるとみなされるのである。
 木畑洋一『支配の代償』(東京大学出版会)

 このような意識は、現在、領土問題に関わる日本人の意識にも、大いに入り込んでいるものであると、ボクは考えている。少なくとも、中国や韓国を差別的な視線で、中国や韓国よりも優越した「国民」として、見続けているように思われる。

 「戦後歴史学」も、日本が早く西欧的な近代化を推進することができたが故に、自らの国をアジアの中では「先進国」であり、日本がアジアの「中心」にあるかのような発想を十分に止揚できなかったのだろう。

 今、すべての学問を、深谷のような視点を持って洗い出す作業が行われなければならないと思う。

 己の中に巣くう「帝国意識」をしっかと把握し、それをどう克服していくのかを考える、それは今を生きる人びとの使命ではないか。

 深谷がどういうような提起をしているか、これは読んでみなければならない。
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「適度」ということ

2013-03-06 21:35:27 | 日記
 今日は暖かい日でした。花壇にも、白や黄色の花が増えてきています。自然は、確実に春へとボクたちを運んでいます。

 図書館で、『ネット・バカ』(青土社)という本を借りてきました。ニコラス・G・カーというアメリカ人が書いたものです。副題は「インターネットがわたしたちの脳にしていること」です。

 今では、ほとんどの人がコンピュータ機能を持った端末をもって、それを利用しています。ボクも、インターネットをつかい、原稿もコンピュータの画面を見ながら打ち込んでいます。ワープロソフトは、「一太郎がいいよ」なんて助言しながら、もう原稿は「書く」ではなくキーボードを「打つ」ことによって綴られていきます。

 しかしあるとき、これでよいのだろうかと思い始め、人との連絡は、できるだけメールではなく、絵はがきにしようと思い、それを実践しています。ボクはたくさんの絵はがきを買い、あるいは自分が写した写真を絵はがきにプリントして(このときはコンピュータを使います)、そして50円切手(通常切手ではありません)をたくさん用意して、折に触れて絵はがきを出します。

 「書く」という行為を忘れないようにしたいのです。

 また検索する時も、インターネット、Googleを使います。とはいっても、Wikipediaはみることはありますが、基本的には使いません。記述されている内容の出典も明確ではなく、信用できないからです。だから、ボクが何らかの文を書く時には、必ず「本」で調べます。

 先ほどの『ネット・バカ』をぱらぱらとみていたら、「ウェブ使用率が高い者ほど、長い文章に集中するのがたいへんだ」、「読む力と集中力」が衰えている、というのです。

 「読書離れ」が既定事実となっていますが、これもコンピュータの仕業でしょうか。

 ボクはまだまだ長文を読むことができるし、読まなければならないことをしているし、集中力もにぶってはいないと思っています。

 読むということと、書くということは、とても大切なことだと思います。バラバラにされた情報ではなく、がっちりとした知識をみずからの「知」として血肉化し、それを練り上げて、自らの思考や研究の結果として「書く」。

 人間にとって大切なことが妨げられないように、コンピュータは「適度」でなければならないと思います。
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【本】長田弘『なつかしい時間』(岩波新書)

2013-03-05 16:22:23 | 日記
 このブログを読めば分かるように、村上春樹(今ほかのことで忙しくなっているので、時間的余裕ができたら続きを読むつもり)を除いて、ボクはかなり新しい本ばかり読んでいます。時の流れを理解し、きちんとした批判していかないと、その流れが「悪い」方向に行ってしまうのではないか、何とか食いとめなければならないという思いがあるからです。

 しかしこの本を読むと、過去の、ずっと前に書かれた本にも、含蓄のある素晴らしい本がたくさんでていることを知ることができます。最初に紹介されているバジェッホというひとの詩は、短いけれども鋭く心を打ちます。

 けれどもその屍は ああ 死につづけた

 その死を、あきらめることができないという想いが、短いことばに凝縮されています。バジェットというひとは、宮沢賢治と同時代のひとだそうです。

 ボクは、長田さんの本を読む時、いつも、はっとさせられることばに出会います。ことばというものが、こんなにも豊かな意味を持って綴られるのかという驚き。だから、ことばの無限に広がる可能性をも信じることができます。

 記憶は、言いかえれば、自分の心の中に、自分で書き込むという行為です。

 ムムム・・・・難しいことばではありません。でも長田さんは、そのなかに新しい意義を吹き込んでいくのです。

 ほんとうに、長田さんは文学を始め、古今東西の本をよく読んでいます。だから、

 文学は人間を知る営み

 ということばも書けるのです。

 そして、とてもボクには書けないようなことを静かに指摘するのです。

 言葉むなしければ、人はむなしい。語彙というのは、心という財布に、自分が使える言葉をどれだけゆたかにもっているかということです。その言葉によって、いま、ここに在ることが生き生きと感じられてくる。そういう言葉を、どれだけもっているか。

 ああボクは、語彙の貧困さにうなだれるしかありません。

 もう引用するのはいいでしょう。長田さんの本からは、しみじみと考えさせられるようなことばを無数に拾い出すことができます。それは文に関わる者にとって、貴重な財産となるはずです。

 読んでみてくれませんか、皆さん!
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2013-03-04 22:02:50 | 日記
 この冬は寒かったと過去形で書いてよいのかどうかわからないが、ここ数日は春を感じられるようになった。庭の草花をみると、彼らは春の到来を確信しているらしく、茎を伸ばし、葉を広げ、つぼみをふくらませてきている。中には花をつけているものもある。

 もう3月である。いったい何をしてきたのかと、振り返ってみると、あまり成果を出していないことに気づく。

 ボク自身の仕事としては農作業と読書があるが、それ以外の仕事は他人のためのものだ。地域福祉のために自転車や徒歩で歩き回り、歴史研究会の中枢メンバーであった方が亡くなられて、その遺稿集編纂に多くの時間を割き、議員の視察や調査などに同行していろいろ意見したり・・・そうしているうちに時間はどんどん過ぎていく。

 それに、今取りかからなければならない大事な事業がひとつあるし、歴史講座の準備もしなければならない。

 忙しい日々が続く。

 『なつかしい時間』のなかに、長田弘さんの詩があった。

 人は死ぬ。

 赤ん坊が生まれる。

 ひとの歴史は、それだけだ。

 そうやって、この百年が過ぎてゆくのだ。

 何事もなかったように。



 ボクが生まれてきて、そして生きて、さいごに死を迎える。こうしてボクの時間が過ぎていく。ボクの時間が終わっても、時間は時を刻んでゆく、何事もなかったように。だからこそ、チェーホフのことば(『三人姉妹』)が沁みる。

 こうして生きていながら、何を目あてに鶴が飛ぶのか、何のために子供は生まれるのか、どうして星は空にあるのかーということを知らないなんて。・・・何のために生きるのか、それを知ることーさもないと、何もかもくだらない、根なし草になってしまうわ

 ボクの書棚には、チェーホフ全集がある。ボクを待っているはずだけど、なかなかそこに行けない。


 
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読んで!読んで!

2013-03-03 21:55:39 | 日記
 ボクのとても好きな作家・詩人が、本を出しました。『なつかしい時間』(岩波新書)という本です。著者の名を、長田(おさだ)弘といいます。ボクは、この人が著した『私の二十世紀書店』(中公新書)からずっとファンです。

 長田さんは、古今東西の文学を幅広く、そして深く読み込んで、そして含蓄のあることばで、いろいろな思想を示してくれます。思想といっても難しいものではありません、ボクたちが生きていて、なかなか気づかないこと、あるいは見過ごしていることを、そっと教えてくれます。

 注文していたこの本が、今日届きました。ボクは、読む前からドキドキしています。こんどはどういうことを気づかせてくれるのか。

 長田さんの文は、強く自己主張するものではありません。静かにそっと語りかけてくるような文です。でもそこには、深い深い思索の結果が詰まっています。

 ボクはひとつひとつの文を読み終わると、いつも本を置くのです。そして考えたりするのです。そして、長田さんが引用された本を読みたくなるのです。古今東西の人間たちが表現してきたことの重さと広さを、ボクはまだまだ知っていないということを反省するのです。

 名文とはどういうものか。Hさん、この本は読む価値があります。文を書く意味というものが、おそらくあなたの心にしみわたっていくことでしょう。

 こういう書き方もあるのです。もちろん、その書き方として表現されているものの背後には、著者が一歩一歩積み重ねてきた知の集積があるのです。それを是非感じてください。
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TPPの本質

2013-03-03 21:08:36 | 日記
 TPPが問題となっている。TPPとは何か。それは簡単に言えば、世界的な大企業による世界支配の野望を実現するもの、ということになろうか。

 TPPについて、アメリカ国民が全面的に賛成しているといったら、それは大間違いだ。アメリカ国民にも、TPPによる被害は及ぶ。もちろん、日本でもニュージーランドでも、加盟する国の国民に被害は及ぶ。

 ではTPPによって一体誰が喜ぶのかといえば、それは世界各地にに展開しているグローバルキャピタリスト(国境を越えた資本家)たちだ。グローバルキャピタリストによって、国境を越えた利潤獲得競争が行われているが、その活動をより効率的にさせようというのが、TPPなのである。

 ボクは以前、「グローバリゼーション」ということばを定義したことがある。インターネット国語辞典では、「世界的規模に広がること。政治・経済・文化などが国境を越えて地球規模で拡大することをいう。グローバル化。」とある。

 だが真の意味は、国境をこえた資本家層(グローバルキャピタリスト global capitalist)が、出身国の国家機構を自らの利益拡大に従属させながら(もちろんそこに住む人々の生活なんて顧慮しない、当該国民もglobal capitalistに従属するのである、そうでなければ排除される、オマエは「テロリスト」だ!!として始末されるだろう)、世界的規模で利益をあげようと活動を続けることをいうのだ。

 アメリカでも、TPP に疑問の声を上げている人たちがいる。

http://www.youtube.com/watch?v=HLVKAalmD48

 これこそが、TPPの本質を明示していると云ってよい。

 TPP反対の運動は、グローバルキャピタリストとの闘いなのだ。
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【本】中川淳一郎『ウェブはバカと暇人のもの』(光文社新書)

2013-03-02 22:53:11 | 日記
 おもしろい本だ。ネットの世界を過大評価する傾向に対する、現場からの発言である。

 この本を読んで分かったことは、ネットにヘビーに書き込む人の特徴は、暇な人。そしてあまり金持ちではない。そして凡庸な人。

 なるほど。そしてよくテレビを見る人でもあるようだ。ネットで主に話題になっているものは、テレビで話題になったことだそうだ。

 ネットは、テレビや新聞などで報道されないことを知ることも出来るし、また図書館に読みたい本があるかどうかを検索することが出来るし、あるいはいろいろなものを通販で購入することも出来る。便利なものだ。

 ボクもしたがって、ネットをよく利用している。

 だが大方のネット利用者は、下記のHPよりも、

https://www.pref.saga.lg.jp/web/

 同じ佐賀県のHP、

http://www.pref.saga.lg.jp/web/jinji.html

 のように、バカみたいなこと、B級なことが好きであるし、また人気が出るようなのだ。

 確かに、2チャンネルなどの書き込みをみると、罵声、下品なことばを多用し、また無責任で、アホなことも平気で記すなど、とても読み続けられない。凡庸な人が、ネット世界に巣くっているという著者の説に納得してしまう。

 そして著者は、テレビの情報力がダントツに大きいと指摘する。そうだろうと思う。メディアの望む方向に、「世論」は動く。

 ネットの世界には、凡庸な住人の数が圧倒的に多いのである。

 
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