浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「涙の思想」

2024-01-13 11:30:57 | 

 昨日、柳宗悦の「死とその悲みに就て」を紹介した。

 そのなかに、「涙なき思想をまことの思想と呼ぶ事は出来ぬ」という文言があった。

 日本の政治家たち、とりわけ岸田首相はじめとする自民党、公明党の政権与党の議員たちが何らかの「思想」をもっているのかどうか。おそらく持ってはいないだろう。もっているとするなら、どんな悪事をしてもカネを儲け、それによってみずからの自尊心を満足させるべく、地位や名誉を求める、という思想なのだろうと思う。岸田首相の場合は、それに加えて「天真爛漫」がある。

 能登半島の地震災害では、首相官邸は、できるだけ被害を小さくみせようと画策したようだ。首相官邸の面々は、地震被害で苦しんでいる人びとの涙、不意に襲ってきた身近な人の死に見舞われた人びとの涙、そういう涙に共感し、何とかしようという感情すら持っていないようだ。

 彼らの「思想」は「涙なき思想」であろう。涙を流す人びとに共感する能力を持ち合わせない人びとだ。

 この世界には、いろいろなことに際会し、悲しみのなかで涙を流す人びとがたくさんいる。そういう人びとに共感する思想、「涙の思想」が求められていると思う。

 今の日本の支配層には、そうした「涙の思想」がまったく欠如している。「今だけ、オレだけ、カネだけ」という思想とも云えない「思想」が世の中を席捲している。

 こうした世の中は、間違いだ、あるべきではない。改めなければならない。つくづくと思う。

 

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腐乱する自民党議員

2024-01-13 08:47:03 | 政治

二階派「裏金1億円プール」報道…統一教会問題で「自民党はビクともしない」と発言した二階元幹事長、いまは内心ビクビク?

エッフェル姉さん「政治刷新本部」の初会合を欠席…事務所は「イギリスにいます」と不在認める

丸川珠代・元五輪相『中抜き700万円』報道に「愚か者めが!」ネットから過去の発言ブーメラン

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能登の志賀原発ー危険がいっぱい

2024-01-13 08:40:16 | 社会

 大きな地震が日本各地で起きている。地震列島といわれる日本は、どこでも大きな地震がおきる。そんな日本列島に、たくさんの原発をつくっている。なんという危険なことを、自民党・公明党政権は続けていることか。

 能登半島にある志賀原発、元日の大きな揺れでたいへんな状態に陥った。しかしその内容は詳しく報じられてはいない。

 『毎日新聞』の記事があるので紹介する。

能登半島の志賀原発、審査長期化必至 トラブル続発、情報も二転三転

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これは見るべき価値あり

2024-01-13 07:41:17 | 社会

地震救援、初動の遅さという不可解【内田樹の談論風発6】

 岸田政権は、能登半島地震への救援を遅らせた!!

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【本】石井正己編『関東大震災 文豪たちの証言』(中公文庫)

2024-01-12 14:42:40 | 

 能登半島の地震被害が徐々に明らかになってきた。被災された方の苦難を思うと、頭を下げるしかない。老いた私が遠くにいてできることは、祈ること、そして義援金を送ることくらいしかない。悲しい現実だ。

 本書には、芥川や菊池寛など高名な方々の文が並んでいる。実際能登半島で大きな地震が起きたときなので、書かれていることは決して過去のことではないこと、きわめて現実的であることが書かれていると思った。

 そのなかで、柳宗悦の「死と悲みに就て」は考えさせられる内容であった。

私達の運命は予期し得ない未来に托されている。誰も次の瞬間を保証する事は出来ぬ。確実に保証し得る論拠は一つだに手に握られてはおらぬ。只それは望ましき「予想」に頼りつつあるに過ぎぬ。巨大な自然に向う時、私達が占める空間と時間とが如何に意味淡く思えるであろう。私達が用意なきうちに、死は私達に用意される。生きたい思い生かしたいと希う心を自然は常に受けてはくれない。吾々の存在は宿命によって定められている様にさえ考えられる。死は何ものをも顧慮せずに人と人とを別れさせる。誰も離別の苦みを味わずして一生を過ごす事は出来ぬ。而も一つの死は一切を暗からしめる勢いをさえ伴うのである。生きると云う事には苦むという事さえ意味されている。

 人は、あらゆる生物は死を免れることはできない。死は、確実に用意されている。そして死は、周りの人びとを次々と巻き込む。あの人も、この人も、その人も・・・・・・この世から去って行く。何という悲しみか、何という欠如か。

 この悲しみと欠如が簡単に埋められないために、人びとは信仰への途を歩むのだろう。

 私たちは死に行く人びとに、何を贈れば良いのだろうか。柳はこう書いている。

死にし人々にとっては、残る人々から贈られる涙が、どんなにか嬉しいであろう。

 確かに、人がこの世を去るとき、残された者は、涙を流す。そのながされる涙が、死者にとっては贈り物となるのか。

逝く者は黙する。だが残る者はその魂に向って叫んでいる。死す者の血は冷かになるとも、弔う者の心によってそれが温められる。大きな同情を促す事なくして大きな苦痛が現る場合はない。充さるる事なき欠乏はこの世に許されておらぬ。

 残る者は、静かに心の中で叫ぶのだ。あるいは祈りを捧げるのだ。

 その残る者も、いずれは死す者になる。柳は、末尾にこう書く。

 死が不意に来るのではない。只吾々が死を不意に迎えるだけである。

 

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歴史を学ばぬ俗吏たち

2024-01-11 21:24:41 | 社会

灰色の東京を見下して、最も心づよく眼にうつるものは、緑の立木である。上野公園、芝公園、日比谷公園、山王の森、愛宕山、宮城などを見渡すとき、これ等の森の木が、どんなに猛火と戦ったかを、今更のように感ぜずにはいられない。それにつけても、新しく造られる大東京は、緑の都市でなくてはならない。

清水公園を宅地に開放したり、弁慶橋を撤廃して堀を埋めて住宅を造るという議があったが、そんなにまで人間が、自然の風光を無視して、利殖のために、たださえ住みにくい東京をもっと狭苦しく趣きのないものにしようとした俗吏達も、いまは思い知ったであろう。

上の文は、1923年の関東大震災を体験した竹久夢二が書いたものだ。首都直下地震の可能性も云々されるとき、東京都や巨大企業は、原宿周辺の緑を奪い、また日比谷公園をなきものにしようとしている。

巨大企業の利殖活動に全面的に協力している俗吏たちは、公共性をかなぐり捨てて、歴史の教訓を学ぼうともしないで、「開発」という破壊に狂奔している。

いいかげんにしろ!と言いたい!

 

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傲慢な権力

2024-01-11 20:58:08 | 政治

 大川原化工機国賠訴訟で敗訴した国と東京都が控訴したという。完全な冤罪をつくりあげた警察と検察が、いかに反省しない組織であるかということを証明したといえよう。

 今日届いた『週刊金曜日』に、東京地裁判決で、警察と検察の違法性が断罪されたことが詳しく書かれている。

 裁判では、この事件について証人尋問で、現役の現職警察官が「事件は捏造です」と証言し、事件が虚構であることが証明されたはずであるにもかかわらず、である。

 記事には、厳しく執拗な取り調べを行った安積伸介警部の名が書かれ、さらに起訴した塚部貴子検事も証人尋問で「同じ状況なら起訴する」と居直った。東京地検は外為法違反で起訴を取り下げたが、塚部はそのことについて情報不足を言い訳にしたというが、原告側代理人は国賠訴訟でそれがウソであったことを暴いたのに、ウソがばれても居直る塚部。こういう人間が権力を笠にして威張っているのだ。

 私はそういう輩は、きちんと個人名を明らかにして社会的に断罪していかなければならないと思う。

 

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腐臭を放つものの自壊

2024-01-11 08:30:36 | 社会

 権力を振り回した安倍派が、集めたカネをひそかに自らのものにしていたことがばれて、そのなかの政治家が証拠隠滅をはかったりして逮捕もされている。

 安倍首相は、政界の良識を一切顧慮せずに、好き勝手なことをして日本国を混乱に導いた。アメリカに好印象をもってもらいたいがためにアメリカのいうがままになり、世界各国から良く思われようと国庫から莫大なカネをばら撒き、祖父の望みを実現すべく反民主主義的で、好戦的な言動をおこなっていた。それらを強引に推し進める姿を見て、多くの政治家がそのもとにはせ参じた。その背景には、そのほうがみずからの地位・名誉が得られやすいし、カネも入ってくるということがある。

 しかしそれが崩壊しつつある。

 ジャニーズ事務所。同事務所は、テレビや雑誌を通して王国を築いてきた。人気のあるタレントを擁して、ジャニーズ事務所はテレビ業界や雑誌を自由に操ってきた。テレビはジャニーズ事務所とつるむことにより視聴率もあがり、カネが入る。雑誌も、同事務所のタレントをつかうことによって販売部数を伸ばしてきた。要するに、ここにもカネが介在する。

 ジャニーズ事務所の性加害の問題だけではなく、同事務所とテレビ・雑誌との不健全な関係が暴かれた。

 そして宝塚。あの豪華絢爛たる世界が、長時間労働とパワハラの嵐のなかで維持されてきたことが暴露された。

 さらに吉本興業の松本を中心とした乱倫問題が『週刊文春』によって明らかにされた。

 テレビとタイアップした傲慢な芸能界が放つ腐臭が、とうとう外部に出てきた。そしてそれらジャニーズ事務所や吉本興業が、腐臭を放つ安倍派などの政界とつながっている。

 このような腐臭を放つ芸能界や政界は除去されなければならない。そうでなければ、日本は腐っていくばかりである。

 

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人びとを守る力

2024-01-10 09:00:49 | 社会

 日本国家の支配層が総体となって推し進めている政策の基調に新自由主義がある。コストをできる限り下げ、経営者や株主の利益を最大限に尊重するという、暴力的な資本主義のあり方だ。

 だから政府や自治体も企業も、コストと見做して労働者を減らすことに血眼になっている。できるだけコストをさげるために、正規従業員を減らし、非正規の低賃金で働いてくれる人を雇う。

 浜松市の行政区の再編(区を7つから3つに減らす)も、自治体労働者を減らしてコストを下げるという目的から行われる。市民へのサービスよりも、コスト削減なのだ。マスコミも含めて人びとはコストを下げることがどういう意味を持つかを考えない。コストをさげることによって生じるカネは、どう使われるのかについては、カネには何も書けないから、自治体のトップ(そのトップにみずからの利益確保をさせる経営者)は、はっきりとはさせない。ところがよく調べてみると、そのコスト削減によって生みだされたカネは、企業への様々な補助金として流れていく。

 今の社会は、経営者や株主にとって、これほどおいしい社会となっている。

 さて、羽田で起きた日航機と海保機との衝突事故。

 まず乗客乗員全員が助かったことが、世界から奇跡だと言われている。乗員たちの冷静な対応が賞賛されているのだ。しかし、その賞賛を導いたものは、日本航空という会社ではない。日本航空の労組である。

 日本航空は民間企業であるから、他社と同じようにコスト削減を行っている。コスト削減の最大の手段は、労働者の削減である。会社は、客室乗務員を減らしたくてたまらない。そのようにしようとしていた。その前に立ちはだかったのが、労働組合である。組合は、客室乗務員の数は、脱出口の数プラス1は必要だと主張していた。事故機には、その数がいた。だから適切な対応ができた。

 また日本航空会社は、コスト削減につながらない避難訓練を何度も行うようなことはしたくない。しかし日本航空の組合は、自主的に避難訓練をやっていたという。

 「日本、素晴らしい!」といわれる快挙をなし遂げたのは、労働者の組合であった。決して会社ではない。今や会社は、利益追求だけが目的となっている。しかし安全を守る役割は労働者の組合が担っている。素晴らしいのは、日本の労働者(組合)なのだ。

 そしてもう一つ。管制官が離着陸する機と連絡をとりながら飛行機の安全を守る。ところが、羽田のように離着陸機がとても多いのに、国土交通省は管制官の数を減らし続けている。安全よりもコスト削減である。しっかりと海保機の動きを見ていれば、この事故は防げたのではないか。しかしそれを見る人間(管制官)がいない。

 この事故は、国土交通省の管制官削減が引き起こしたものだと理解すべきである。

 メディアは、こういうことをしっかりと報じるべきである。

 

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芸能ニュース

2024-01-09 20:25:05 | 社会

 Yahoo!ニュースの「主要」というところには、芸能関係のニュースが多いように思う。そこですぐに「国内」をクリックして、芸能ニュースのないニュースをチェックする。

 私は芸能ニュースにはほとんど関心がない。テレビも見ないので、芸能人の顔と名前が一致しない。

 しかし松本人志という人物は知っている。一応知っているが、その第一印象は「下品」というものであった。こういう品のない人もテレビに出るのかと思ったことがある。さらに以前、『週刊金曜日』が松本を特集したこともあった。これには驚いた。同編集部には、松本のファンがいるのかと。私はそのとき、購読をやめようかと思った。

 今、松本が話題になっている。ただ私が思うのは、ある程度の年齢になると、その人の生き方とか考え方が顔にあらわれる。はたして松本はどういう生き方をし、どういう考え方をもつのか。「下品」というだけではなく、「傲慢」さもあらわれているような気がする。

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災害の階級性

2024-01-08 23:36:18 | 社会

 自然災害が起きると、新聞テレビなどがその被害状況を報じる。その報道に接するたびに、災害の階級性を感じる。つまり被害は富裕な地域にはあまり大きな被害は起きない。そして災害は、貧しい人にこそ大きな打撃を与える。

 まず東日本大震災やこの能登半島地震でも、どちらかというと富裕な地域ではない。そして阪神大震災において、家屋が破壊したところ、破壊されなかったところを比較すると、破壊されなかったところは富裕な地域であった。

 災害による被害は、貧しいところにまず起こる。

 そしてその被害からの回復は、想像するまでもなく、貧しい人ほど遅れる。

 とりわけ新自由主義的な政策が行われる中で、自治体職員など公務員が減らされ、医療・福祉・教育への予算が減らされてきた。災害が起きると、医療・福祉・教育へのアクセスが急増するにもかかわらず、そのキャパシティはすでに大きく減じているのが実状だ。

 これらの背景には、自治体運営のコストを減らさなければならないからということが理由にされるが、では公務員を減らし、医療・福祉・教育の予算を減らした結果生じるカネはどこにまわされるのか。簡単なことだ。企業への補助金に化け、また土木工事などに費消されるのだ。

 階級性ということばはあまり一般的なことばでなくなったが、基本的には自然災害だって階級性があるのだから、あらゆる現象に階級性が貫かれているといってもよい。

 資本主義社会とは、そういう社会なのだ。とくに新自由主義が資本主義世界を席巻してから、その階級性が徹底化されてきている。

 つまり階級性とは、富める者はさらに富を増やし。そうでない者はさらに貧しくなるということなのだ。

 

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残念だが、これが日本の首相

2024-01-06 18:20:31 | 政治

「被災地の声を聞かない」岸田首相「新年会3連チャン」に集まる反感…前日には生放送で「総裁選への抱負」語って猛批判

 少なくとも、人間の感情をもつ人が政治家であってほしい。

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つながり

2024-01-05 23:29:11 | 日記

 高校生のころ、母宛の年賀状のなかに、『聖書』から平和に関する詩句を引用したものがあった。毎年、私はそうした年賀状をみつけた。母に聞いた、この石原正一さんはどういう人?と。母は、父が従軍していたときの上官だった人だと答えた。

 私の父は、私が2歳の時に病死した。父が亡くなったとき、我が家は貧困のどん底にあったという。そんな我が家の窮状を知った石原さんは、現金を送ってくれたようだ。しかしそれは中途で抜き取られ、母のもとへは届かなかった。母は、軍人恩給はもらえないだろうか・・・などと、石原さんに相談したこともあったようだ。

 母の収入が安定してくるなか、石原さんとは年賀状の挨拶だけとなっていた。

 私は、私自身が平和運動に関わっていたことから、石原さんの年賀状に書かれた『聖書』の詩句が気になっていた。石原さんに会いたいと思い、故溝口正先生に相談したところ、石原さんと溝口先生とは旧知の間柄で、早速会えることとなった。いつのことか忘れたが、浜松で行われていた2・11思想と信教の自由を守る静岡県西部集会に石原さんが参加されたことがあった。その集会の後、石原さん、溝口先生、そして私の3人は、駅近くのアーシェントタイムという店で長時間、いろいろな話をした。石原さんは、優しく、温厚な方であった。

 その時から、母だけではなく、私も石原さんと年賀状を交わすようになった。

 あるとき、石原さんが亡くなられたという連絡があった。一度しか会うことがなかったことを後悔した。しかし、人間として、無教会派のクリスチャンとして、石原さんに、私は今も、敬意と信頼を持ち続けている。高潔な人格とはこういう人を言うのだという確信もまた。

 その後、石原さんの息子さんらが岐阜県の恵那市で山のハム工房 ゴーバルで、ハムなどを販売していることを知った。今、我が家は、そこから毎月ハムやソーセージを購入している。

 さて、昨日私は、基督教独立学園で書道の先生であった桝本うめ子先生の生涯がつづられた本を読んだ。うめ子先生は、溝口先生や石原さんと匹敵するような素晴らしい人間であることを知ることとなった。

 そして今日、私は新たな事実を知り、大きな感動に包まれた。ネットで、「桝本うめ子」を検索しているとき、桝本華子さんが書いた文を見つけたのだ。桝本華子さんは、うめ子先生の次男・忠雄さんの奥様で、うめ子先生とともに独立学園に行き、貧しい生活を受け容れながら独立学園を支えた方である。

 独立学園がまだまだ貧しいころ、独立学園にみかんが届けられたというのだ。華子さんはこう記している。

独立学園も貧しくとぼしい食糧を皆で分け合うそんな時、1955 年 11 月、
一箱のみかんが我が家に届きました。私の幼い子どもたち 3 人は産まれて
初めて見るみかん、そしてそのおいしさに驚き喜びました。発送元はケリテ
会よりです。子どもたちは画用紙一枚にみかんの画を描き、下手な字であり
がとうと書いて、そのとき初めて送り主、石原正一様のことを知りました。

 石原さんが、独立学園にみかんを送られていた。それを知り、石原さんのあの温和で優しい顔が思い出された。

 そしてそのあとに、「やがて 1960 年には御長女、続いて 5 人のお子様、10 人のお孫様と学園に入学されご夫妻様とは親しく交わらせて頂きました。何時も柔和で謙虚な御人柄でしたが、一面、キリスト信徒として平和への志は高く、中国の南京へ、旧日本軍の謝罪として桜、その他の植林運動を何年か続けられ、又税金の軍事費拒否運動にも参加されたと伺いました。」と書いている。

 そうだったのか、石原さんは子どもさんを独立学園に入れたのか、と。

 さらにもう一つの事実を知った。うめ子先生のお孫さんも、ゴーバルにいるのだということを。

 石原正一さん、桝本華子さん、溝口先生、ゴーバル、そして母と私。すべてがつながっていたのだということを、私は今日知ることになった。私の心は、感動に包まれることになった。

 華子さんのその文に、内村鑑三の文が載せられている。

「勝つこと必ずしも勝つにあらず。負けること必ずしも負けるにあらず。愛すること、これ勝つことなり、憎むことこれ負けることなり。愛をもって勝つことのみこれ永久の勝利なり。愛はねたまず、誇らず、たかぶらず、永久に忍ぶなり。しかして永久に勝って永久の平和を来たす。世に戦闘のやむ時は、愛が勝利を占めし時のみ。」

 溝口先生も、石原さんも、平和を強く希求する人であった。私もまた、平和を希求する一人である。
 

 

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拠点となるところ

2024-01-05 08:44:32 | 

 昨日読み終わった『桝本うめ子 神は愛なり』(読書日和、2023年)を反芻しながら考えた。同書には、基督教独立学園の生活が記されているのだが、学校外の場所で先生も子どもも集まって腹蔵ない対話が行われている。

 対話することはよいことだ。別にテーマを決めなくても、いろいろなことを話し合う。参加者は「神の前の平等」で、先生、子どもという隔たりもなく、ひとりひとりが話し、ひとりひとりがそれに応じて話す。

 この場面を想像するとき、その場には「拠点」、生きていく際の「拠点」が創造されているのではないかと思う。共同体といってもよいだろう。その「拠点」から人びとはその外に出ていく、しかしその「拠点」はいつも開放されているから、いつでも戻ってこられる。

 家族も「拠点」となりうるが、しかし家族はいずればらばらになっていく。現在の家族構成を見れば、成長した子どもたちは他の地で別の生活をしている。社会学者・宮台真司がよく言っているが、中国やイスラエルでは血族が団結をしていて、血族がそれぞれの個人をいつでもどんなところでもサポートする、しかし日本はそうした血族は分解していて、相互扶助の場とはなりえない、と。

 学園につくられる「拠点」は家族とは異なる。ある意味小さな社会ともいえるだろう。

 現在の日本社会は、いわゆる中間団体(労働組合など)が消えて、個人がばらばらになっている、「拠点」をもたずに浮遊している。

 そうしたとき、基督教独立学園における対話をもとにした「場」は、おそらくキリスト教の信仰にもとづく感謝、信頼が基礎になっているのだろうが、個人を結びつけ、かれらの「拠点」たりうる場をつくっていると思われる。

 そうした「拠点」をつくりだすことが、現在の浮遊する人びとにとって必要なことではないだろうか。ひとびとのなかの潜在的にある「拠点」への願望を、カルトが提供することもありうる。

 危うくなっている人びとの存立する基盤である「拠点」を、どのようにしてつくっていくのかが問われているような気がする。

 

 

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2024-01-04 20:49:26 | 

 山形県西置賜郡小国町に基督教独立学園高校がある。そこに桝本うめ子先生がいた。いたと過去形で書いたのは、先生は昇天されたからである。1992年のことであった。先生は、1892年生まれであるから一〇〇歳であった。

 そのうめ子先生から詳しく話しをきいて、先生の生涯をまとめた本が出版された。『桝本うめ子 神は愛なり』(読書日和、2023年)がそれである。今年の元日、この本が送られてきた。いただいた本を必ず読むことを信条としている私は、今日、早速読みはじめた。そして一気に読み終えてしまった。

 読後感は、とてもさわやかであった。さわやかな感動に包まれた。

 先生が書かれた

 うれしいな

 生きている

 本が読めて

 字が書けて

 うれしいな

 生きている

は、先生がどんな苦難に出遭おうとも、生きていることをうれしいと実感しながら生きてきたことを証している。

 先生は貿易商を営んでいる豊かな家庭に生まれた。先生の母はキリスト者であった。先生も幼児の頃に洗礼を受けた。

 戦前は今以上の格差社会であったから、描かれた先生の家庭は、まさに上層階級の一員であった。そして先生は、豊かな家庭出身の軍人と結婚した。彼は軍事研究をし、三菱でも研究を行っていたが、列車の転覆事故で亡くなった。

 その葬儀の際、先生は、葬儀をキリスト教で執り行うことを宣言した。夫君の家庭は日蓮宗であったため、夫の親戚からは激しい反対を受けたが、意志を貫いた。葬儀では、内村鑑三にも話してもらうほどであった。先生はその後、多くのキリスト者と交流し信仰を深めた。先生の生活は、夫が亡くなっても、豊かであった。

 戦後、キリスト者となっていた次男・忠雄は三菱をやめて農業の道に入り、筑波で開拓に励んだ。先生は、次男と共に生活することを決意し、筑波へ。しかしその生活は、今までと異なり、食べるものもない貧しい生活であった。

 そこへ基督教独立学園の校長であった鈴木弼美が訪ねてきて、独立学園に来て欲しいと言いに来る。鈴木は東京大学の教員で、忠雄の家庭教師であった。

 先生一家は、独立学園に移る。給与もない自給自足の生活であった。先生はそのあまりに貧相な校舎をみて驚くが、鈴木に依頼されて子どもたちに書道を教えることになる。そして先生と次男一家は、独立学園とともに生きていく。

 東京にいて豊かな生活をしていた先生が、戦後、それとはまったく逆の、筑波での開拓、独立学園での生活、いずれも経済的には豊かさのかけらもない生活に入ったのだ。しかし先生はそういう生活でも「我慢する」のではなく、その生活を受容し、できるだけのことをして生きた。

 その生き方をみていくと、そこには感謝と信頼があった。先生のまわりにいる人びとへの感謝と信頼。そして謙虚さ。それらの源流をたどると、そこにはキリスト教があった。感謝と信頼、謙虚、それらを結びつけるものは神への信仰であり、愛であった。

 神への信仰が人びとへの信頼につながり、神への感謝がまわりの人びとへの感謝となり、神のしもべとしての自覚が謙虚さとなる。

 私は信仰を持たないが、今までも、キリスト者のなかに人格的に高潔な人を発見してきた。当然、先生をはじめとした独立学園に関わる人びとも、そのなかに入る。独立学園に関わる人びとと共に生きるなかで、「うれしいな 生きている」という感慨をもつことができるなんて、何と素晴らしいことか!!

 近年、私は、他者と交わる中でストレスを感じることが多くなり、できるだけ他者との関わりをもたないようにしようとしてきた(図々しい人間がいるのだ!)。

 しかし、先生の「うれしいな 生きている」ということばを敷衍すれば、「〇〇がいて うれしいな 生きている」ということにもなるだろう。

 「うれしいな 生きている」と生きてきた先生は、そのまま昇天された。

 この本は、人間讃歌であり、人びとのそれぞれの生き方に大いなる示唆を与えるものだ。

 うめ子先生のことば。

自分を愛してない人はいないでしょう。人は皆、自分を愛しています。その愛を、誰にでもあげなくてはいけません。それが、なかなかできないものなのです。私は歳をとってきて、このごろはだんだんと自分を愛するように、だれをも皆愛さなければならないという思いが深まってきました。いろいろ考えて、自分でマルコ伝の「自分を愛するように、あなたの隣人をも愛せよ」と書いて掛け軸にし、自分の部屋にかけて毎日それを見てはお祈りしています。(182~3)

 

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