都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「この素晴らしき世界」 チェコ映画祭2005 9/4
2005-09-09 / 映画
東京都写真美術館(目黒区三田)
「この素晴らしき世界」
(2000年/チェコ/ヤン・フジェベイク監督)
9/4(チェコ映画祭2005)
今、東京都写真美術館のホールでは、チェコ共和国の愛知万博関連プログラムである「チェコ映画祭2005」が開催されています。先日の日曜日に、2000年に日本でも公開された「この素晴らしき世界」という作品を見てきました。
舞台はナチス占領下のチェコです。子供のできないヨゼフとマリエ夫婦、マリエに執拗に迫りながらも、夫婦を不気味に追い回すナチス党員のホルスト、それに収容所を逃げてヨゼフとマリエ夫妻にかくまわれたユダヤ人ダヴィトなどが、入れ代わり立ち代わり登場し、占領下の厳しい状況の中で、それぞれが必死に生き延びる様を描きます。実話をヒントにして仕上げられたというストーリーは、収容所から逃亡してきたダヴィトを、ナチス党員のホルストから隠すために思いついた夫妻の凄まじい奇策の成功によって、思いがけない方向へ進みますが、最後には戦争が終結し、妙に後味の悪いハッピーエンドを迎えます。
ともかく喜劇として見るべき作品だと思います。展開は途中まで、ナチス占領下のチェコの極限の状況を色濃く反映したような、かなりシリアスな雰囲気で進みますが、「とんでもないアイデアを思い付いた。」というある事件をきっかけに、突如ドタバタ劇的な、コミカルな視点が全面に押し出されます。と言っても、逆にそのコミカルさが、当時のチェコの状況の悲惨さを喚起させる面もあり、完全な喜劇として腹の底から笑うことは出来ないような様相も呈しています。シリアスさとコミカルさ。題材として戦争を取り上げた場合、喜劇的な要素を多く取り入れると、全くの娯楽映画と化す場合もありますが、この作品は決してそうでありません。笑いと恐怖の隣り合わせ。ある意味で非常に恐ろしい作品でしょう。
ヨセフとマリア、ダヴィトなどという登場人物の名からも推測される通り、この作品にはキリストの生誕を思わせる一種の鍵が隠されています。結果キリストは、映画の一番最後に誕生し、それが戦争の集結と、未来への期待に重なり合うのですが、その後のチェコの歴史を鑑みる時、それが決して救済とならないことを痛感させられます。
もう少しそれぞれの登場人物への掘り下げがあっても良く、特にホルストの描写に物足りなさを感じたのですが、アイロニー的な笑いと、その背後で垣間見せる作品自体の強いメッセージは、希有なバランス感覚で体現出来ていたと思いました。
「この素晴らしき世界」
(2000年/チェコ/ヤン・フジェベイク監督)
9/4(チェコ映画祭2005)
今、東京都写真美術館のホールでは、チェコ共和国の愛知万博関連プログラムである「チェコ映画祭2005」が開催されています。先日の日曜日に、2000年に日本でも公開された「この素晴らしき世界」という作品を見てきました。
舞台はナチス占領下のチェコです。子供のできないヨゼフとマリエ夫婦、マリエに執拗に迫りながらも、夫婦を不気味に追い回すナチス党員のホルスト、それに収容所を逃げてヨゼフとマリエ夫妻にかくまわれたユダヤ人ダヴィトなどが、入れ代わり立ち代わり登場し、占領下の厳しい状況の中で、それぞれが必死に生き延びる様を描きます。実話をヒントにして仕上げられたというストーリーは、収容所から逃亡してきたダヴィトを、ナチス党員のホルストから隠すために思いついた夫妻の凄まじい奇策の成功によって、思いがけない方向へ進みますが、最後には戦争が終結し、妙に後味の悪いハッピーエンドを迎えます。
ともかく喜劇として見るべき作品だと思います。展開は途中まで、ナチス占領下のチェコの極限の状況を色濃く反映したような、かなりシリアスな雰囲気で進みますが、「とんでもないアイデアを思い付いた。」というある事件をきっかけに、突如ドタバタ劇的な、コミカルな視点が全面に押し出されます。と言っても、逆にそのコミカルさが、当時のチェコの状況の悲惨さを喚起させる面もあり、完全な喜劇として腹の底から笑うことは出来ないような様相も呈しています。シリアスさとコミカルさ。題材として戦争を取り上げた場合、喜劇的な要素を多く取り入れると、全くの娯楽映画と化す場合もありますが、この作品は決してそうでありません。笑いと恐怖の隣り合わせ。ある意味で非常に恐ろしい作品でしょう。
ヨセフとマリア、ダヴィトなどという登場人物の名からも推測される通り、この作品にはキリストの生誕を思わせる一種の鍵が隠されています。結果キリストは、映画の一番最後に誕生し、それが戦争の集結と、未来への期待に重なり合うのですが、その後のチェコの歴史を鑑みる時、それが決して救済とならないことを痛感させられます。
もう少しそれぞれの登場人物への掘り下げがあっても良く、特にホルストの描写に物足りなさを感じたのですが、アイロニー的な笑いと、その背後で垣間見せる作品自体の強いメッセージは、希有なバランス感覚で体現出来ていたと思いました。
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「写真はものの見方をどのように変えてきたか 第3部 -再生- 」 東京都写真美術館 9/4
東京都写真美術館(目黒区三田)
「写真はものの見方をどのように変えてきたか 第3部 -再生- 」
7/23~9/11
東京都写真美術館による「写真はものの見方をどのように変えてきた」シリーズの第三部は、「再生」と題された、第二次大戦前後の日本の写真表現を追った展覧会でした。木村伊兵衛や濱谷浩、または福島菊次郎など、この時期に活躍した12人の写真家の視点は、戦争の色を濃く反映しながらも、とても多様に提示されています。一筋縄ではいきません。
報道を含んだ写真表現、または芸術としての写真など、様々な統制の元にあった戦争中の写真には、写真家の表現の方向と、それを抑圧する大きな力のせめぎ合いが見られます。国策雑誌であった「フロント」で活躍した木村伊兵衛の戦中の写真には、当然ながら国威発揚的な勇ましい作品も多く見られますが、反戦の意を滲ませる表現を追求した小石清の作品を見ると、この時期の写真を、一概に全体主義的な方向として捉えることの危険性を感じさせます。
広島の惨状を捉えた福島菊次郎や、米軍基地の様子をおさめた東松照明の作品などには、大戦後にも敢然と残る、ある意味で現在進行形だった戦争の痕跡が見事におさめられています。被爆者の生々しい傷跡が、写真によってさらに克明に、そして人の生死を超えて半永久的に残されます。見る者それぞれが何を汲み取るのか。芸術としての写真云々以前に、ここからは様々な問いかけが発しそうです。
12人の写真家の中で最も印象に残ったのは、雪の降り積もる新潟県の様子をシリーズ化した濱谷浩の「雪国」です。この作品は戦中戦後に渡って制作が続けられたものようですが、そこには雪の圧倒的な質感が、人間や家、そしてそこから発生する生活の匂いなどを半ば支配して存在します。もちろん、雪の中での不自由な生活に負けずに、人の生き生きとした生活感を見せている面もあるのですが、それよりも主役はあくまでも雪です。雪原の上に儚く残る人間の足跡を見ていると、まるで雪にそのまま埋もれてしまいそうな気持ちにさせられます。モノクロの雪景色が雄弁に語りかけて来るような雰囲気でした。
その他には、砂丘の上に人を配した独特の演出写真を手がけた植田正治や、戦後のグラフ・ジャーナリズムを活気づけたという林忠彦の作品が印象に残りました。中でも林の「復員」は大変に見事です。品川駅集まる復員兵が、底抜けの明るい笑顔を見せて、生き生きとしている様が深く記憶に残ります。この作品一枚が戦争の多くを語っているとも言えるでしょう。極限の状況から解放された者にしか得られない笑顔。そんな気もしました。
「写真はものの見方をどのように変えてきたか」展シリーズとしては、今までで最も地味な印象を受けました。決して個々の作品が見劣りするわけではないのですが、不思議と全体のトーンが低めです。もちろん、第二次大戦前後という時期を取り上げたテーマの重みは受け止めなくてはいけませんが、私としては国内のみの写真家という構成に、もう一つ物足りなさを感じてしまいました。次回最終回の「混沌」は、1970年以降の写真表現を捉えた企画です。今月17日からの開催です。
「写真はものの見方をどのように変えてきたか 第3部 -再生- 」
7/23~9/11
東京都写真美術館による「写真はものの見方をどのように変えてきた」シリーズの第三部は、「再生」と題された、第二次大戦前後の日本の写真表現を追った展覧会でした。木村伊兵衛や濱谷浩、または福島菊次郎など、この時期に活躍した12人の写真家の視点は、戦争の色を濃く反映しながらも、とても多様に提示されています。一筋縄ではいきません。
報道を含んだ写真表現、または芸術としての写真など、様々な統制の元にあった戦争中の写真には、写真家の表現の方向と、それを抑圧する大きな力のせめぎ合いが見られます。国策雑誌であった「フロント」で活躍した木村伊兵衛の戦中の写真には、当然ながら国威発揚的な勇ましい作品も多く見られますが、反戦の意を滲ませる表現を追求した小石清の作品を見ると、この時期の写真を、一概に全体主義的な方向として捉えることの危険性を感じさせます。
広島の惨状を捉えた福島菊次郎や、米軍基地の様子をおさめた東松照明の作品などには、大戦後にも敢然と残る、ある意味で現在進行形だった戦争の痕跡が見事におさめられています。被爆者の生々しい傷跡が、写真によってさらに克明に、そして人の生死を超えて半永久的に残されます。見る者それぞれが何を汲み取るのか。芸術としての写真云々以前に、ここからは様々な問いかけが発しそうです。
12人の写真家の中で最も印象に残ったのは、雪の降り積もる新潟県の様子をシリーズ化した濱谷浩の「雪国」です。この作品は戦中戦後に渡って制作が続けられたものようですが、そこには雪の圧倒的な質感が、人間や家、そしてそこから発生する生活の匂いなどを半ば支配して存在します。もちろん、雪の中での不自由な生活に負けずに、人の生き生きとした生活感を見せている面もあるのですが、それよりも主役はあくまでも雪です。雪原の上に儚く残る人間の足跡を見ていると、まるで雪にそのまま埋もれてしまいそうな気持ちにさせられます。モノクロの雪景色が雄弁に語りかけて来るような雰囲気でした。
その他には、砂丘の上に人を配した独特の演出写真を手がけた植田正治や、戦後のグラフ・ジャーナリズムを活気づけたという林忠彦の作品が印象に残りました。中でも林の「復員」は大変に見事です。品川駅集まる復員兵が、底抜けの明るい笑顔を見せて、生き生きとしている様が深く記憶に残ります。この作品一枚が戦争の多くを語っているとも言えるでしょう。極限の状況から解放された者にしか得られない笑顔。そんな気もしました。
「写真はものの見方をどのように変えてきたか」展シリーズとしては、今までで最も地味な印象を受けました。決して個々の作品が見劣りするわけではないのですが、不思議と全体のトーンが低めです。もちろん、第二次大戦前後という時期を取り上げたテーマの重みは受け止めなくてはいけませんが、私としては国内のみの写真家という構成に、もう一つ物足りなさを感じてしまいました。次回最終回の「混沌」は、1970年以降の写真表現を捉えた企画です。今月17日からの開催です。
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ラ・トゥール展始末記 「図書」9月号
「徒然なるまままに」のak96さんに教えていただいた、岩波書店の「図書」9月号の「ラ・トゥール展始末記」ですが、先日ようやく手に入れて読むことが出来ました。これは、今春に上野の国立西洋美術館で開催された「ラ・トゥール展」を企画された高橋明也氏の寄稿で、氏の展覧会開催へ向けた大変なご努力や、ラ・トゥールとロレーヌ王国のつながりからひも解くそのメッセージなど、とても読み応えのある記事となっています。
真作が非常に少ない中、通例では考えられないほど短い準備期間(一年間)で開催されたというラ・トゥールの展覧会は、私も二度ほど拝見して、その静謐な世界観に大いに感動させられました。(一回目、二回目の感想。)この始末記には、日本では殆ど無名だったラ・トゥールの展覧会を企画すること自体の難しさや、ヨーロッパの各美術館との交渉などが書かれていて、私のような一介の素人美術ファン(?)には、ただただ頭が下がる思いのご尽力をなされたことが良く分かります。もう日本では二度とない展覧会かもしれません。見られたこと自体がとても幸運だったと、改めて思いました。
始末記には、ラ・トゥール展を取り上げたブログについても少々触れられていました。展覧会は、予算の関係上、大々的な広告を殆ど打つことが出来なかったそうですが、氏によればそれを補う形となったのが、メディアによる展覧会の取り上げと、ブログを通した話題の広がりだったそうです。ネットの検索では、開催初日に「ラ・トゥール展」のヒット数が2000件だったのに対して、会期末には2万件ほどと十倍に広がり、その中で「多くの人がこの展覧会とラ・トゥールの芸術について熱く語っていた」(寄稿より。)とのこと。ちなみに、現在同様の検索をすると、yahooで約42000件のヒット数があって、そこには日頃お世話になっているブログの方々のお名前が散見されます。確かにこれは、多くの方がブログを通して情報発信しながら、それを共有しているとも言えます。ブログが、ラ・トゥール展の素晴らしさを伝えた大きなツールになったのは事実のようです。
最後のラ・トゥールについて書かれた箇所には、ラ・トゥールについて「戦乱のチェチェンやボスニアやイラクで制作した画家のイメージ。」という言葉(一部改変)がありました。私はこれまでこうしたイメージを持ったことはなかったのですが、ラトゥールの生きたロレーヌ王国地方の、ラ・トゥール自身と作品が忘却され、そして再評価されるに至った歴史の混沌は、そういった面を伝える要素が多大にあるのかもしれません。一人の希有な画家をこのような視点で切り込むこと。私にはとても新鮮であった上に、深く感銘させられました。
「図書」は定価100円とありますが、書店によっては無料で配布しています。少し前の感動をまた新たにすることが出来る、とても素敵な寄稿だったと思います。
真作が非常に少ない中、通例では考えられないほど短い準備期間(一年間)で開催されたというラ・トゥールの展覧会は、私も二度ほど拝見して、その静謐な世界観に大いに感動させられました。(一回目、二回目の感想。)この始末記には、日本では殆ど無名だったラ・トゥールの展覧会を企画すること自体の難しさや、ヨーロッパの各美術館との交渉などが書かれていて、私のような一介の素人美術ファン(?)には、ただただ頭が下がる思いのご尽力をなされたことが良く分かります。もう日本では二度とない展覧会かもしれません。見られたこと自体がとても幸運だったと、改めて思いました。
始末記には、ラ・トゥール展を取り上げたブログについても少々触れられていました。展覧会は、予算の関係上、大々的な広告を殆ど打つことが出来なかったそうですが、氏によればそれを補う形となったのが、メディアによる展覧会の取り上げと、ブログを通した話題の広がりだったそうです。ネットの検索では、開催初日に「ラ・トゥール展」のヒット数が2000件だったのに対して、会期末には2万件ほどと十倍に広がり、その中で「多くの人がこの展覧会とラ・トゥールの芸術について熱く語っていた」(寄稿より。)とのこと。ちなみに、現在同様の検索をすると、yahooで約42000件のヒット数があって、そこには日頃お世話になっているブログの方々のお名前が散見されます。確かにこれは、多くの方がブログを通して情報発信しながら、それを共有しているとも言えます。ブログが、ラ・トゥール展の素晴らしさを伝えた大きなツールになったのは事実のようです。
最後のラ・トゥールについて書かれた箇所には、ラ・トゥールについて「戦乱のチェチェンやボスニアやイラクで制作した画家のイメージ。」という言葉(一部改変)がありました。私はこれまでこうしたイメージを持ったことはなかったのですが、ラトゥールの生きたロレーヌ王国地方の、ラ・トゥール自身と作品が忘却され、そして再評価されるに至った歴史の混沌は、そういった面を伝える要素が多大にあるのかもしれません。一人の希有な画家をこのような視点で切り込むこと。私にはとても新鮮であった上に、深く感銘させられました。
「図書」は定価100円とありますが、書店によっては無料で配布しています。少し前の感動をまた新たにすることが出来る、とても素敵な寄稿だったと思います。
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「90分でちょっとのぞいてみる李禹煥の世界」 横浜美術館 8/28 その2
横浜美術館レクチャーホール(横浜市西区みなとみらい)
「90分でちょっとのぞいてみる李禹煥の世界」
8/28 15:00~16:30
担当講師 柏木智雄氏(横浜美術館主任学芸員)
先日の「その1」の続きです。
「点より」・「線より」から「照応へ」
・「点より」(1975年)
タンポンに岩絵具を浸し、左から右へと打っていく行為を繰り返す。
徐々に絵具がかすれていく。
紙や線は基本的に使わない。
にかわで延ばされた岩絵具。
一回性の点の跡。その連続
=「一筆一画」:塗り重ね、描き直しを許さない姿勢
↓
1970年代の作品
点と線を中心にした作品群:カンヴァスの中で呼応し合う点と線
↓
1980年代には規則的な点と線が乱れていく
↓
その後、点とも線ともつかない表現へ
例)「点・線より」(1982年)など=縦、横、規則性も崩れていく。
・「風と共に」(1990年)
大自然の中で、強く弱く吹く風のような表現。
風という自然に作者の身体が呼応するかのよう。
↓
「一回性」のものがより自由に伸びやかに。
反復と線や点の呼応がズレていく=「余白」の重要性へ
面的な筆跡が重ね塗りされていくようになる。
=かすれていく点や線が、堆積していく面へ。
例)「風と共に」(1991年):大きな余白に筆跡が二つ。
・「照応」(2003年)
大きな余白と面的な筆跡。静謐感。
余白が外部ではなく中心となった存在感。
今回の展覧会について
90年代以降の作品群を概観=「余白の芸術」
会場レイアウトは李自身による。
高さ3メートルの超大作「関係項-鉄の壁」(2005年)
問題提起的作品「関係項-6者協議」の出品
いわゆる北朝鮮問題への政治的メッセージか。
李自身はこれまで積極的に政治活動に携わってきた。
→そのメッセージが初めて作品化した。
以上です。レクチャーは、スライドで作品を見ながら進行していたので、かなり分かりやすかったのですが、このブログではそれがかないません…。ゴチャゴチャとしてしまったことをお許し下さい。
私は李禹煥の作品から湧き上がる静謐感や、その確固とした存在感そのものに強く惹かれるのですが、レクチャーを聞くと、彼自身の厳しい問題意識の読み取りも重要になってくるのかと思います。今回の展覧会は「余白の芸術」ということで、より伸びやかで穏やかな近作が中心となるようですが、「関係項-6者協議」に見られるような、ある意味で李の根源的な意識が作品化したものも出品されるということで、賛否両論を巻き起こしそうな展覧会となりそうです。
レクチャーでは李の思想へ深く切り込むということはありませんでしたが、作品や作家主体というものよりも、それを取り込んだ全体性(あくまでも開放的な。)を重視する彼の考えは、「もの派」を理論付けた論客としての存在意義が強く感じられると思います。23日の祝日には、李本人が美術館で語るイベント(仮題「現代美術をどう見るか」)が予定されています。こちらも聞いてみるつもりです。
「90分でちょっとのぞいてみる李禹煥の世界」
8/28 15:00~16:30
担当講師 柏木智雄氏(横浜美術館主任学芸員)
先日の「その1」の続きです。
「点より」・「線より」から「照応へ」
・「点より」(1975年)
タンポンに岩絵具を浸し、左から右へと打っていく行為を繰り返す。
徐々に絵具がかすれていく。
紙や線は基本的に使わない。
にかわで延ばされた岩絵具。
一回性の点の跡。その連続
=「一筆一画」:塗り重ね、描き直しを許さない姿勢
↓
1970年代の作品
点と線を中心にした作品群:カンヴァスの中で呼応し合う点と線
↓
1980年代には規則的な点と線が乱れていく
↓
その後、点とも線ともつかない表現へ
例)「点・線より」(1982年)など=縦、横、規則性も崩れていく。
・「風と共に」(1990年)
大自然の中で、強く弱く吹く風のような表現。
風という自然に作者の身体が呼応するかのよう。
↓
「一回性」のものがより自由に伸びやかに。
反復と線や点の呼応がズレていく=「余白」の重要性へ
面的な筆跡が重ね塗りされていくようになる。
=かすれていく点や線が、堆積していく面へ。
例)「風と共に」(1991年):大きな余白に筆跡が二つ。
・「照応」(2003年)
大きな余白と面的な筆跡。静謐感。
余白が外部ではなく中心となった存在感。
今回の展覧会について
90年代以降の作品群を概観=「余白の芸術」
会場レイアウトは李自身による。
高さ3メートルの超大作「関係項-鉄の壁」(2005年)
問題提起的作品「関係項-6者協議」の出品
いわゆる北朝鮮問題への政治的メッセージか。
李自身はこれまで積極的に政治活動に携わってきた。
→そのメッセージが初めて作品化した。
以上です。レクチャーは、スライドで作品を見ながら進行していたので、かなり分かりやすかったのですが、このブログではそれがかないません…。ゴチャゴチャとしてしまったことをお許し下さい。
私は李禹煥の作品から湧き上がる静謐感や、その確固とした存在感そのものに強く惹かれるのですが、レクチャーを聞くと、彼自身の厳しい問題意識の読み取りも重要になってくるのかと思います。今回の展覧会は「余白の芸術」ということで、より伸びやかで穏やかな近作が中心となるようですが、「関係項-6者協議」に見られるような、ある意味で李の根源的な意識が作品化したものも出品されるということで、賛否両論を巻き起こしそうな展覧会となりそうです。
レクチャーでは李の思想へ深く切り込むということはありませんでしたが、作品や作家主体というものよりも、それを取り込んだ全体性(あくまでも開放的な。)を重視する彼の考えは、「もの派」を理論付けた論客としての存在意義が強く感じられると思います。23日の祝日には、李本人が美術館で語るイベント(仮題「現代美術をどう見るか」)が予定されています。こちらも聞いてみるつもりです。
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「90分でちょっとのぞいてみる李禹煥の世界」 横浜美術館 8/28 その1
横浜美術館レクチャーホール(横浜市西区みなとみらい)
「90分でちょっとのぞいてみる李禹煥の世界」
8/28 15:00~16:30
担当講師 柏木智雄氏(横浜美術館主任学芸員)
今月の17日から横浜美術館で「李禹煥 余白の芸術展」が開催されますが、先日、その展覧会の関連事業の「90分でちょっとのぞいてみる李禹煥の世界」と題された、学芸員の方のレクチャーを聞いてきました。
レクチャーの主旨は「李の世界をのぞく」ということで、彼の作品の変遷を捉えながら、それが今回の展覧会のメインとなる90年代以降の作品へどうつながるのか、また、創作の根本にある李の芸術への意識とは何なのか、さらには今後どのような方向へ歩もうとしているのかなど、様々な観点から幅広く李の世界を理解しようという試みでした。比較的初期のものから近作のシリーズまで、50点あまりの作品をスライドで鑑賞しながら、時間軸に沿って李の芸術を追う。極めてオーソドックスな掘り下げ方ながらも、分かりやすい丁寧なレクチャーだったと思います。
ここではそのレクチャーを私なりにまとめて記事にしたいと思うのですが、何ぶん少々長くなりそうなので、まずは「その1」ということで、李禹煥の創作の原点ともなった彼自身の芸術へ対する批判精神と、初期の「もの派」と言われるグループへの展開を追ってみます。
李禹煥の略歴
1936年 韓国生まれ
伝統的な教育を受ける。
幼少期にワン・ドンチョから詩と書を学ぶ。
「紙の上に点を打ち、線を引くこと。」→李の創作の原点でもある。
1956年 ソウル大学校中退→日本へ
1961年 日本大学にて哲学を学ぶ。
1962年 日本画を学ぶ。
1969年 日本語による美術評論「事物から存在へ」が入選。その後制作活動も始める。
1971年 韓国代表でパリビエンナーレに参加
その後ヨーロッパを中心に国内外で活躍
李禹煥の制作における問題意識
・西洋美術への批判
例1)セザンヌ「ガルダンヌから見たサント=ヴィクトワール山」(1892~95年)
何気ない南仏の山々の光景。セザンヌの目を通すとそれが豊かな色彩を帯び、そして新たな形になる。
例2)ゴッホ「足の靴」(1887年)
くたびれた靴を豊かな質感で描いている。また、靴を履いている人々の営み(労働など)も想像させる。
→「見えるもの」と「見えないもの」の狭間を通して、「見えない何か」に気付かせる力
=画家が芸術の導き手となる。
↓
特殊的な才能を持った画家による「見えない世界」の構築=それが西洋近代美術ではないのか。
・西洋近代価値概念への批判
デカルト懐疑主義「われ思う、故にわれあり。」=人間の主観による世界の認識と構成
→人間中心主義・二元論、主体の絶対性
↓
西洋文明・文化の進展=自然破壊、事物の溢れ
事物によって人間が遊ばれているのではないか。
セザンヌやゴッホという「主体」が生み出す西洋美術全体を、批判の対象として捉えてみることの有用性。
人間が際限なくイメージを増幅して作り上げた世界=近代美術は息苦しくないか。
見ることが絶対的なことなのか。=錯視・ダブルイメージ
↓
視覚の不確かさを見せる作品の創作
「第四の構成」(1968年)・「関係項」(1968年)など
関根伸夫の影響=「もの派」へ
関根伸夫「位相-大地」
円筒形の土盛りとその痕跡となる穴による作品
掘って積み上げるだけの行為
砂の位置が変わっただけなのに、全く違った全体が開けてくる。
物理的移動を最小限にしながらも、その結果としての芸術が圧倒的な姿となる。
→「もの派」の仕事を理論付けていく
主義、主張によるグループではなく、偶然的に同じような仕事をしていた人たちが集まった。
李禹煥・関根伸夫・菅木志雄・小清水漸・吉田克郎ら
↓
作る行為の絶対性への懐疑、あえて作ることを制限し、空間と物そのものを作品へ取り込む。
作品と制作者は平等な関係へ=制作者が「主体」とならないように。
→その後、李は「関係項」などの制作により、この主旨を作品に実現させる。
関係項
李の立体作品
近作ではサブタイトルが付くようにもなった。
例)「関係項-サイレンス」(2005年)
鉄板と石の組み合わせが主流。
「鉄板=産業」と「石=自然」
ただし、鉄板は自然に深く関わりのあるものとして捉えられている。
=単純な二元論的な視点ではない模様。
「その2」では、李の平面作品である「点より」や「線より」から、近作の「照応」と呼ばれる作品群へどうつながっていくのかについて見てみたいと思います。
「90分でちょっとのぞいてみる李禹煥の世界」
8/28 15:00~16:30
担当講師 柏木智雄氏(横浜美術館主任学芸員)
今月の17日から横浜美術館で「李禹煥 余白の芸術展」が開催されますが、先日、その展覧会の関連事業の「90分でちょっとのぞいてみる李禹煥の世界」と題された、学芸員の方のレクチャーを聞いてきました。
レクチャーの主旨は「李の世界をのぞく」ということで、彼の作品の変遷を捉えながら、それが今回の展覧会のメインとなる90年代以降の作品へどうつながるのか、また、創作の根本にある李の芸術への意識とは何なのか、さらには今後どのような方向へ歩もうとしているのかなど、様々な観点から幅広く李の世界を理解しようという試みでした。比較的初期のものから近作のシリーズまで、50点あまりの作品をスライドで鑑賞しながら、時間軸に沿って李の芸術を追う。極めてオーソドックスな掘り下げ方ながらも、分かりやすい丁寧なレクチャーだったと思います。
ここではそのレクチャーを私なりにまとめて記事にしたいと思うのですが、何ぶん少々長くなりそうなので、まずは「その1」ということで、李禹煥の創作の原点ともなった彼自身の芸術へ対する批判精神と、初期の「もの派」と言われるグループへの展開を追ってみます。
李禹煥の略歴
1936年 韓国生まれ
伝統的な教育を受ける。
幼少期にワン・ドンチョから詩と書を学ぶ。
「紙の上に点を打ち、線を引くこと。」→李の創作の原点でもある。
1956年 ソウル大学校中退→日本へ
1961年 日本大学にて哲学を学ぶ。
1962年 日本画を学ぶ。
1969年 日本語による美術評論「事物から存在へ」が入選。その後制作活動も始める。
1971年 韓国代表でパリビエンナーレに参加
その後ヨーロッパを中心に国内外で活躍
李禹煥の制作における問題意識
・西洋美術への批判
例1)セザンヌ「ガルダンヌから見たサント=ヴィクトワール山」(1892~95年)
何気ない南仏の山々の光景。セザンヌの目を通すとそれが豊かな色彩を帯び、そして新たな形になる。
例2)ゴッホ「足の靴」(1887年)
くたびれた靴を豊かな質感で描いている。また、靴を履いている人々の営み(労働など)も想像させる。
→「見えるもの」と「見えないもの」の狭間を通して、「見えない何か」に気付かせる力
=画家が芸術の導き手となる。
↓
特殊的な才能を持った画家による「見えない世界」の構築=それが西洋近代美術ではないのか。
・西洋近代価値概念への批判
デカルト懐疑主義「われ思う、故にわれあり。」=人間の主観による世界の認識と構成
→人間中心主義・二元論、主体の絶対性
↓
西洋文明・文化の進展=自然破壊、事物の溢れ
事物によって人間が遊ばれているのではないか。
セザンヌやゴッホという「主体」が生み出す西洋美術全体を、批判の対象として捉えてみることの有用性。
人間が際限なくイメージを増幅して作り上げた世界=近代美術は息苦しくないか。
見ることが絶対的なことなのか。=錯視・ダブルイメージ
↓
視覚の不確かさを見せる作品の創作
「第四の構成」(1968年)・「関係項」(1968年)など
関根伸夫の影響=「もの派」へ
関根伸夫「位相-大地」
円筒形の土盛りとその痕跡となる穴による作品
掘って積み上げるだけの行為
砂の位置が変わっただけなのに、全く違った全体が開けてくる。
物理的移動を最小限にしながらも、その結果としての芸術が圧倒的な姿となる。
→「もの派」の仕事を理論付けていく
主義、主張によるグループではなく、偶然的に同じような仕事をしていた人たちが集まった。
李禹煥・関根伸夫・菅木志雄・小清水漸・吉田克郎ら
↓
作る行為の絶対性への懐疑、あえて作ることを制限し、空間と物そのものを作品へ取り込む。
作品と制作者は平等な関係へ=制作者が「主体」とならないように。
→その後、李は「関係項」などの制作により、この主旨を作品に実現させる。
関係項
李の立体作品
近作ではサブタイトルが付くようにもなった。
例)「関係項-サイレンス」(2005年)
鉄板と石の組み合わせが主流。
「鉄板=産業」と「石=自然」
ただし、鉄板は自然に深く関わりのあるものとして捉えられている。
=単純な二元論的な視点ではない模様。
「その2」では、李の平面作品である「点より」や「線より」から、近作の「照応」と呼ばれる作品群へどうつながっていくのかについて見てみたいと思います。
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いつの間にやら一周年
拙ブログ「はろるど・わーど」が、今日で一周年を迎えました。当初、このブログは、私が以前に持っていたクラシック音楽関連のホームページの一コンテンツからスタートしたのですが、今ではすっかりブログ専門ということで、あっという間の一年です。ともかくもこうして続けられるのは、思いがけないほどの多くの方がご覧になって下さるからです。本当にありがとうございます。
ブログは私の趣味の変化をストレートに反映しているようで、当初クラシック音楽系のブログで始めたつもりが、日々更新するうちに美術系の話題ばかりになっています。殆ど自己満足に過ぎない面もありますが、こうして記事を書くことが、自分の関心を変化させたり、逆に好奇心を刺激したりします。まるでブログが生き物のようです。不思議なものです。
ブログを続けて心から良かったと思える点は、ブログがなければ決して出会うことがなかった素晴らしい方々と、実際にお会いして話すことが出来たことです。また、定期的に拝見させていただいているブログを書いていらっしゃる方と、コメント等々でやり取りすることも楽しく、様々な物の見方やその切り口、語り口など、常に勉強させられることばかりです。
私自身、何かを書くことを苦手にしてきたもので、なかなか気の利いた文章が書けないことにもどかしさを感じるのですが、今、これまで書いてきた記事を自分で振り返ってみると、明快に書けていない、要は何処かモヤモヤとした文章が多いということです。美術展やコンサートの感想では、もっと単刀直入に書ければと思うのですが、これが私には随分難しいことのようで、なかなか上手く出来ません。
今後も美術やクラシック音楽の話題を中心に、雑多でありながらも趣味系一本で更新していきたいと思います。どうかこれからも気長におつきあい下さい。それでは改めましてどうぞよろしくお願いします。
ブログは私の趣味の変化をストレートに反映しているようで、当初クラシック音楽系のブログで始めたつもりが、日々更新するうちに美術系の話題ばかりになっています。殆ど自己満足に過ぎない面もありますが、こうして記事を書くことが、自分の関心を変化させたり、逆に好奇心を刺激したりします。まるでブログが生き物のようです。不思議なものです。
ブログを続けて心から良かったと思える点は、ブログがなければ決して出会うことがなかった素晴らしい方々と、実際にお会いして話すことが出来たことです。また、定期的に拝見させていただいているブログを書いていらっしゃる方と、コメント等々でやり取りすることも楽しく、様々な物の見方やその切り口、語り口など、常に勉強させられることばかりです。
私自身、何かを書くことを苦手にしてきたもので、なかなか気の利いた文章が書けないことにもどかしさを感じるのですが、今、これまで書いてきた記事を自分で振り返ってみると、明快に書けていない、要は何処かモヤモヤとした文章が多いということです。美術展やコンサートの感想では、もっと単刀直入に書ければと思うのですが、これが私には随分難しいことのようで、なかなか上手く出来ません。
今後も美術やクラシック音楽の話題を中心に、雑多でありながらも趣味系一本で更新していきたいと思います。どうかこれからも気長におつきあい下さい。それでは改めましてどうぞよろしくお願いします。
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9月の予定と8月の記録
9月の予定
展覧会
「写真はものの見方をどのように変えてきたか 第三部」 東京都写真美術館(9/11まで)
「難波田龍起展」 東京オペラシティアートギャラリー(9/25まで)
「アジアのキュビスム」 東京国立近代美術館(10/2まで)
「ローリー・アンダーソン 時間の記録」 ICC(10/2まで)
「百花繚乱 咲き競う花々展」 山種美術館(10/2まで)
コンサート
「新国立劇場2005/2006シーズン」 ワーグナー:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」/レック 9/14~10/2
映画
「この素晴らしき世界」 東京都写真美術館ホール/チェコ映画祭2005 9/4 18:45~
8月の記録(リンクは私の感想です。)
展覧会
6日 「絵のなかのふたり」 ブリヂストン美術館
10日 「中国 美の十字路展/フォロー・ミー!」 森美術館
10日 「フィリップス・コレクション展」 森アーツセンターギャラリー
13日 「きらめく女性たち」 ホテルオークラ東京
14日 「ギュスターヴ・モロー展 前期展示」 Bunkamura ザ・ミュージアム
20日 「ベルナール・ビュフェ展」 損保ジャパン東郷青児美術館
27日 「ゲント美術館名品展/村井正誠・その仕事展」 世田谷美術館
28日 「わたしの美術館展」 横浜美術館
9月の予定を立ててみました。展覧会は全部で5つ程度なのですが、今月から出来れば画廊なども少々見てみようかと考えています。(もちろんまだ未定です…。)コンサートは新国立劇場の新シーズンを飾るマイスタージンガー。バイエルン国立歌劇場の公演との「対決」も見物かとは思いますが、予算の関係で新国立の方だけにしました…。映画は、今月東京都写真美術館で開催されるチェコ映画祭の中からの一作です。ナチス占領下のチェコをコメディタッチで描いた作品ということですが、果たしてどうでしょうか。
8月は展覧会のみ結構廻りました。私としてはビュフェ展が最も印象に残りましたが、フィリップス・コレクションの超名作もまだ忘れられません。また、先月はアートフェア東京へも出向きました。こちらもDADA.さんとfeltmountainさんと楽しく見ることが出来て面白かったです。モローは10月初旬にでも後期展示を見てこようかと思います。
それでは今月も素敵なものに出会えますように…。
展覧会
「写真はものの見方をどのように変えてきたか 第三部」 東京都写真美術館(9/11まで)
「難波田龍起展」 東京オペラシティアートギャラリー(9/25まで)
「アジアのキュビスム」 東京国立近代美術館(10/2まで)
「ローリー・アンダーソン 時間の記録」 ICC(10/2まで)
「百花繚乱 咲き競う花々展」 山種美術館(10/2まで)
コンサート
「新国立劇場2005/2006シーズン」 ワーグナー:「ニュルンベルクのマイスタージンガー」/レック 9/14~10/2
映画
「この素晴らしき世界」 東京都写真美術館ホール/チェコ映画祭2005 9/4 18:45~
8月の記録(リンクは私の感想です。)
展覧会
6日 「絵のなかのふたり」 ブリヂストン美術館
10日 「中国 美の十字路展/フォロー・ミー!」 森美術館
10日 「フィリップス・コレクション展」 森アーツセンターギャラリー
13日 「きらめく女性たち」 ホテルオークラ東京
14日 「ギュスターヴ・モロー展 前期展示」 Bunkamura ザ・ミュージアム
20日 「ベルナール・ビュフェ展」 損保ジャパン東郷青児美術館
27日 「ゲント美術館名品展/村井正誠・その仕事展」 世田谷美術館
28日 「わたしの美術館展」 横浜美術館
9月の予定を立ててみました。展覧会は全部で5つ程度なのですが、今月から出来れば画廊なども少々見てみようかと考えています。(もちろんまだ未定です…。)コンサートは新国立劇場の新シーズンを飾るマイスタージンガー。バイエルン国立歌劇場の公演との「対決」も見物かとは思いますが、予算の関係で新国立の方だけにしました…。映画は、今月東京都写真美術館で開催されるチェコ映画祭の中からの一作です。ナチス占領下のチェコをコメディタッチで描いた作品ということですが、果たしてどうでしょうか。
8月は展覧会のみ結構廻りました。私としてはビュフェ展が最も印象に残りましたが、フィリップス・コレクションの超名作もまだ忘れられません。また、先月はアートフェア東京へも出向きました。こちらもDADA.さんとfeltmountainさんと楽しく見ることが出来て面白かったです。モローは10月初旬にでも後期展示を見てこようかと思います。
それでは今月も素敵なものに出会えますように…。
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