都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「現代美術をどう見るか」 「李禹煥 余白の芸術」展レクチャー 横浜美術館 9/23
横浜美術館レクチャーホール(横浜市西区みなとみらい)
アーティトが語る1 「現代美術をどう見るか」
9/23 15:00~16:30
講師 李禹煥氏
「李禹煥 余白の芸術」展の関連事業である、李本人による「現代美術をどう見るか」というレクチャーです。場所は、もちろん展覧会の会場である横浜美術館のレクチャーホール。客席はほぼ満席です。随分と活況を呈していました。
内容は、西洋美術史の批判的概観から、現代美術へのつながりと問題点を、自作の引用を交えながら簡潔に述べていくものです。李は全く原稿を読まずに、殆ど一気呵成に話を進めていましたが、時には冗談を交えながら会場を笑いに誘います。質疑応答を含め、講演時間は約一時間半。氏が持つ美術への厳しい眼差しや、制作の根底にある意欲も垣間見ることが出来る、有意義な講演会でした。早速ですが、以下、いつもの通りレクチャーの内容をまとめてみます。
現代美術がはらむ問題
・「現代美術」は「現在進行形」
価値が定まらない。
現代美術は果たして「美術」であるのか。
専門的な領域において「それらしいこと」をしているが、確信的な理論は不在。
一部のエリート的な層だけが「分かったふり」をしている側面
→特定の層の驕り=ジャーナリズムとの結託
大方の一般的な反応は「わけが分からない。」
→正直な反応であり、また見方でもある。(自作についても良く言われること。)
↓
何故現代美術は「意味不明」なものなのか?
=西洋美術史から考えてみる。
西洋美術史の流れと現代美術
・美術の根源としての「古代」
神々の時代
封建的・宗教的なものの絶対的地位にある者の優位性
→大勢はそれに無条件に従う。
モノ(美術)を見る目を持っているか否かは問題外
・信仰の「中世」
信仰のための美術=聖書の題材に基づく絵画など。
教会の強い権威
→権威による一般大衆への「啓蒙」としての美術(半ば相互了解的に。)
・観念的な「近代」
封建社会から産業社会へ
人間とモノの拡散(大陸から大陸へ。)=時間と空間の世界的短縮
都市化・産業化による生活の変化
イデオロギーの登場→後の帝国主義へ。
神よりも人間が優位=ヒューマニズムの誕生
↓
産業社会は美術にも多大な影響を及ぼす。
絵や彫刻の世界的展開
受け手としての「ブルジョワ」が誕生
絵画の主題は神から人間へ。
帝国主義・植民地主義時代
一つの考えが普遍的な力を持って世界を覆う=観念の優位
ある意味で閉ざされた共同体
→絵の主題も次第に内面的なものへと移る。
↓
抽象画の誕生
特定の人間による特定の人間のための芸術世界=「芸術家による芸術家のための」
閉鎖的な空間と外部性の欠如=芸術家の頭の中で構成(コンポジションなど。)
分かる人にしか分からない美術→「芸術は難解」というイメージ
→ピカソやマティスは、ジャーナリズム等によって「解説」されることで初めて理解され得る。
・混迷の現代
第二次世界大戦以降
芸術家による閉鎖的な空間と、特定の層による知の独占の崩壊
植民地主義とは異なったグローバリゼーションによる異文化の混合
主人のいない大衆の完成=多様な人々の寄り合い
特定のイデオロギーの力の喪失
↓
多種多様な考えが可能となった現代美術へ
閉じられた空間(キャンバスや彫刻)からの解放=素材も多様化
モノを作ることよりも、モノを寄り合わせた「新たな場」を作る。
芸術家の内面の露出だけではなく、外との関わり合いを重視=「作品の外部性」と「外との対話」
「関係項」(李禹煥の彫刻作品)から考える現代美術
・鉄板と石の組み合わせ
石:長い年月を経て生まれて来た=自然
鉄板:石の成分を加工して作られる=産業社会に生きる者としての自覚
→兄弟でもあり親子。対立的には捉えない。
・作品における質感と構成
極めて重い石から重量感を削ぐ。
薄い鉄板を紙のように置いてみる。
鉄板を合わせる際は、なるべく支え合い、寄り添うかのように並べる。=自主性を持たせない。
石は少し起こすように置く。=石に動きを与える。
・作品から何が見えるのか
モノ同士の反発や融合
寄り添ったり離れたりの繰り返し=流動性
↓
「これ」と言った美的解釈や特定の意味を提示しない=「一種の実験」
フォルムや色など、近代美術の重要な構成要素を超越させる。
作品外部の空気を作品へ作用させたい=作品の境界を曖昧に。
「何だろうこれは。」という、見る者の素朴な問いを呼び込む。
現代美術の曖昧さと無限の可能性
・現代美術の表現
作品の意味をあえて提示しない。
素朴な疑問点をそのままさらけ出す。
美術の仕組みからの解放=日常性への回帰
バーチャル(映像等)な世界へも進出=身体性を切り離す。
・現代美術を超えて(問題点とともに)
美術の枠を崩すことによる混乱
「高度な精神世界」が体現されているのか、そうでないのか。
モノを介在させない美術の問題
↓
誰も分からない美術の行く末
以上です。現代美術がはらむ問題やその意義と、それに関連する氏の自作へこめる思い。「ようやく最近になって、元来やりたかったことが出来るようになった。」とも仰られましたが、まさに「余白」とその周囲が主人公である展覧会と、今回のレクチャーを合わせて見聞きすると、氏の近作での、ある意味で「過激な表現」に納得させられます。如何でしょうか。
「余白の芸術展」の関連事業としては、11月13日に、李禹煥と菅木志雄氏による「もの派とその時代」というディスカッションが予定されています。こちらも出来れば聞いてみる予定です。
*8/28に開催された、美術館学芸員柏木智雄氏による、「90分でちょっとのぞいてみる李禹煥の世界」のレクチャーの記録はこちらへ。「その1」、「その2」。
アーティトが語る1 「現代美術をどう見るか」
9/23 15:00~16:30
講師 李禹煥氏
「李禹煥 余白の芸術」展の関連事業である、李本人による「現代美術をどう見るか」というレクチャーです。場所は、もちろん展覧会の会場である横浜美術館のレクチャーホール。客席はほぼ満席です。随分と活況を呈していました。
内容は、西洋美術史の批判的概観から、現代美術へのつながりと問題点を、自作の引用を交えながら簡潔に述べていくものです。李は全く原稿を読まずに、殆ど一気呵成に話を進めていましたが、時には冗談を交えながら会場を笑いに誘います。質疑応答を含め、講演時間は約一時間半。氏が持つ美術への厳しい眼差しや、制作の根底にある意欲も垣間見ることが出来る、有意義な講演会でした。早速ですが、以下、いつもの通りレクチャーの内容をまとめてみます。
現代美術がはらむ問題
・「現代美術」は「現在進行形」
価値が定まらない。
現代美術は果たして「美術」であるのか。
専門的な領域において「それらしいこと」をしているが、確信的な理論は不在。
一部のエリート的な層だけが「分かったふり」をしている側面
→特定の層の驕り=ジャーナリズムとの結託
大方の一般的な反応は「わけが分からない。」
→正直な反応であり、また見方でもある。(自作についても良く言われること。)
↓
何故現代美術は「意味不明」なものなのか?
=西洋美術史から考えてみる。
西洋美術史の流れと現代美術
・美術の根源としての「古代」
神々の時代
封建的・宗教的なものの絶対的地位にある者の優位性
→大勢はそれに無条件に従う。
モノ(美術)を見る目を持っているか否かは問題外
・信仰の「中世」
信仰のための美術=聖書の題材に基づく絵画など。
教会の強い権威
→権威による一般大衆への「啓蒙」としての美術(半ば相互了解的に。)
・観念的な「近代」
封建社会から産業社会へ
人間とモノの拡散(大陸から大陸へ。)=時間と空間の世界的短縮
都市化・産業化による生活の変化
イデオロギーの登場→後の帝国主義へ。
神よりも人間が優位=ヒューマニズムの誕生
↓
産業社会は美術にも多大な影響を及ぼす。
絵や彫刻の世界的展開
受け手としての「ブルジョワ」が誕生
絵画の主題は神から人間へ。
帝国主義・植民地主義時代
一つの考えが普遍的な力を持って世界を覆う=観念の優位
ある意味で閉ざされた共同体
→絵の主題も次第に内面的なものへと移る。
↓
抽象画の誕生
特定の人間による特定の人間のための芸術世界=「芸術家による芸術家のための」
閉鎖的な空間と外部性の欠如=芸術家の頭の中で構成(コンポジションなど。)
分かる人にしか分からない美術→「芸術は難解」というイメージ
→ピカソやマティスは、ジャーナリズム等によって「解説」されることで初めて理解され得る。
・混迷の現代
第二次世界大戦以降
芸術家による閉鎖的な空間と、特定の層による知の独占の崩壊
植民地主義とは異なったグローバリゼーションによる異文化の混合
主人のいない大衆の完成=多様な人々の寄り合い
特定のイデオロギーの力の喪失
↓
多種多様な考えが可能となった現代美術へ
閉じられた空間(キャンバスや彫刻)からの解放=素材も多様化
モノを作ることよりも、モノを寄り合わせた「新たな場」を作る。
芸術家の内面の露出だけではなく、外との関わり合いを重視=「作品の外部性」と「外との対話」
「関係項」(李禹煥の彫刻作品)から考える現代美術
・鉄板と石の組み合わせ
石:長い年月を経て生まれて来た=自然
鉄板:石の成分を加工して作られる=産業社会に生きる者としての自覚
→兄弟でもあり親子。対立的には捉えない。
・作品における質感と構成
極めて重い石から重量感を削ぐ。
薄い鉄板を紙のように置いてみる。
鉄板を合わせる際は、なるべく支え合い、寄り添うかのように並べる。=自主性を持たせない。
石は少し起こすように置く。=石に動きを与える。
・作品から何が見えるのか
モノ同士の反発や融合
寄り添ったり離れたりの繰り返し=流動性
↓
「これ」と言った美的解釈や特定の意味を提示しない=「一種の実験」
フォルムや色など、近代美術の重要な構成要素を超越させる。
作品外部の空気を作品へ作用させたい=作品の境界を曖昧に。
「何だろうこれは。」という、見る者の素朴な問いを呼び込む。
現代美術の曖昧さと無限の可能性
・現代美術の表現
作品の意味をあえて提示しない。
素朴な疑問点をそのままさらけ出す。
美術の仕組みからの解放=日常性への回帰
バーチャル(映像等)な世界へも進出=身体性を切り離す。
・現代美術を超えて(問題点とともに)
美術の枠を崩すことによる混乱
「高度な精神世界」が体現されているのか、そうでないのか。
モノを介在させない美術の問題
↓
誰も分からない美術の行く末
以上です。現代美術がはらむ問題やその意義と、それに関連する氏の自作へこめる思い。「ようやく最近になって、元来やりたかったことが出来るようになった。」とも仰られましたが、まさに「余白」とその周囲が主人公である展覧会と、今回のレクチャーを合わせて見聞きすると、氏の近作での、ある意味で「過激な表現」に納得させられます。如何でしょうか。
「余白の芸術展」の関連事業としては、11月13日に、李禹煥と菅木志雄氏による「もの派とその時代」というディスカッションが予定されています。こちらも出来れば聞いてみる予定です。
*8/28に開催された、美術館学芸員柏木智雄氏による、「90分でちょっとのぞいてみる李禹煥の世界」のレクチャーの記録はこちらへ。「その1」、「その2」。
コメント ( 8 ) | Trackback ( 0 )