廿日市参道の30丁碑手前に石積みがみられ上部は平坦地となっており、この場所は幕末期の砲台跡であると先人から聞いたことがある。大正期の地誌などに第二次長州戦争時、極楽寺山の南方頂に近き所に広島藩が砲台を設けたことが記されており、陣小屋場、篝焚小屋などがあったようで何と木炮が配備されていたようである。
平坦部の北端には石塚があり境界杭もみられるので旧平良村・原村・佐方村の山境塚とみられる。
廿日市参道の30丁碑手前に石積みがみられ上部は平坦地となっており、この場所は幕末期の砲台跡であると先人から聞いたことがある。大正期の地誌などに第二次長州戦争時、極楽寺山の南方頂に近き所に広島藩が砲台を設けたことが記されており、陣小屋場、篝焚小屋などがあったようで何と木炮が配備されていたようである。
平坦部の北端には石塚があり境界杭もみられるので旧平良村・原村・佐方村の山境塚とみられる。
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