先日紹介した住吉神社の境内に建立されている句碑で、芭蕉(はせを)の葉が彫られ北村湖春または松尾芭蕉の句といわれる「にょきにょきと 帆はしら寒き 入江かな」が刻されており、この句碑は弘化3年(1846)に建立されている。北村湖春は、江戸時代前期から中期にかけての歌人・俳人であったようである。
先日紹介した住吉神社の境内に建立されている句碑で、芭蕉(はせを)の葉が彫られ北村湖春または松尾芭蕉の句といわれる「にょきにょきと 帆はしら寒き 入江かな」が刻されており、この句碑は弘化3年(1846)に建立されている。北村湖春は、江戸時代前期から中期にかけての歌人・俳人であったようである。
昨日紹介した住吉神社の周囲に巡らせてある玉垣の中で、親柱に「廿日市券番中」とあるものが2本と「三味線、古と商・・・」と刻されたものがある。明治・大正のころ廿日市には佐伯郡役所や警察署、税務署、登記所などが置かれ、己斐以西の佐伯郡6町35ケ村の中心地として繁栄しており、町中には帆月楼、大新楼、大谷楼、笠岡旅館、森井旅館、唐木旅館などがあったようで、これらの玉垣は廿日市のよき時代の名残りである。
廿日市港に出入りする船の航海や漁業の守護神として祀られたものとみられ江戸期には潮音寺近くの波戸ノ根に祀られていた。江戸後期に住吉新開の築調により港の南岸住吉浜(下画像)に移築され、昭和58年(1983)臨港道路築造に伴って現在地に移築された。
廿日市港脇にある広電の廿日市バス停待合所跡の壁面に5枚の地域の案内看板が掲げられており、その中に廿日市町時代のものが2枚みられる。昭和63年(1988)に市制施行されているので30数年前のものとみられ、マルシン、宮島信用金庫、家納喜酒造、ダイイチ、山田医院、日通など懐かしい名前がみられる。
(昭和27年(1952)の国土地理院の地図)
七尾中学校の校門手前の校舎横に「標高二〇・一メートル」「緯度 北緯三十四度二十一分」「経度 東経百三十二度十九分三十二秒」と刻された石碑があり、当ブログ主が在学中は木造本校舎中央入口脇に建立されていた。
この石碑の標高は当ブログ主が1年生のときにクラブ活動で先生、上級生に連れられ佐方橋の西側にあった水準点(下画像赤丸)3.32mから、測量器具のレベルで見通しが出来る範囲で次々と高低差を測ってこの石碑頂部の標高を計測したのを思い出した。この石碑は移設されているので標高、緯度・経度値は実際とは違っている。
節分の昨日、速谷神社において中世に行われていた湯立神事が再興され、鬼やらい儀式など節分祭が行われた。速谷神社の湯立については厳島野坂文書の毛利隆元書状に「早田社江立願之事、御湯立七年可進之由得其心候、即従今月可遂其節候」とあり、毛利隆元が早田社(速谷神社)の湯立を七年に亘り今月より執り行うよう寄進をしている。斎館の神楽殿前では年男・年女の人々により豆撒き・餅撒きが行われて、参詣者に御久米が配られた。
廿日市の町並みを歩いていると舟板を使用した古い両開きの扉があり、この地は古い地図をみると丸玉別荘とあった。舟板は長年海水などに浸されていて腐朽に強い効果があるので建物の腰壁に張ってあるのを見たことがある。中画像は以前紹介した長浜市の町並みで見た土蔵に張られたもので、下画像は地御前の民家に張られたものである。
①
②
③
④
高松港・高松城周辺にあったマンホール蓋で①②は屋島の戦いでの扇の的の場面を表したもので、③は高松工芸高校デザイン科でデザインしたものとみられ高松城と矢を背にしているので那須与一が讃岐うどんを食している場面がデザインされているものとみられる。④も同校デザイン科のデザインで高松市の花のツツジと高松張り子の奉公さん、讃岐提灯がデザインされているようである。
高松港近くにある高松城跡を何十年ぶりであろうか訪れた。天守閣跡の天守台は石積みの修復工事が行われて違和感のある石垣となっており、現在天守閣復元に向けて資料収集などがされているようである。城跡には遺構の月見櫓、水手御門、渡櫓、艮櫓が残されており、国の重文指定がされている。
城址公園には初めて見る松ぼっくりで作られたツリーが7基あった。公園内には松の木が多くあるのでその松ぼっくりを利用して作られているようであり、昨日まで設置されていたようである。