桂公園の北側に移設建立されている山隅衛の歌碑で、表側には「ふるさとの 町のいらかを 見にのぼる 城あとの山 春蝉のなく 衛」と刻されている。この歌碑は刻銘によると皇紀2600年(昭和15年-1940)11月23日に晩鐘誌創刊20周年記念として建立されたようである。
桂公園の北側に移設建立されている山隅衛の歌碑で、表側には「ふるさとの 町のいらかを 見にのぼる 城あとの山 春蝉のなく 衛」と刻されている。この歌碑は刻銘によると皇紀2600年(昭和15年-1940)11月23日に晩鐘誌創刊20周年記念として建立されたようである。
昨日紹介した桂公園碑脇の野芝の中に小さな赤いキノコが沢山生えていた。当ブログ主の分類では名前が分からないのでクソナバだ ‼ 赤いキノコをネットで検索するとアクヌマベニタケ、ベニヤマタケ、アカタケなどがみられるが、なんという名前であろうか?
桂太郎旧宅-萩市川島
昨日紹介した桂公園内には大きな桂公園碑が建立されており、碑文には大勲位公爵桂太郎書と刻されている。中世、芸防引き分け後に毛利元就は桜尾城に重臣の桂元澄を配置して約15年間在城していた。大正元年(1912)に旧城主桂元澄の末流である公爵桂太郎が縁故深い城址の荒廃を惜しみ全山を買収して公園とし廿日市町に寄付して桂公園と称したのである。当時町会の決議で「一、桂公爵ノ寄贈ニ係ル山林ハ桂公園ト命名シ永久町ノ公園トシテ維持スルコト」とあり、町ノ公園とは城址公園として維持すると決議されたのであろうが・・・
桂太郎は憲政史上最長の首相通算在職日数の記録を保ってきたが、現安倍晋三首相に記録を塗り替えられた。
桜尾本町にある桜尾山の麓には桂公園とある石柱の上側に桜尾城址とあり、反対側には廿日市町指定史跡桜尾城址と刻された石碑がみられる。かつて標高31mの桜尾山には桜尾城の遺構が残されていたが、昭和42年(1967)頃から埋立用土砂採取場となって削平され城の遺構は全くなくなり現在の桂公園となった。
以前紹介した岩国市祖生にある新宮神社の拝殿内にかつての草葺き屋根本殿の写真が掲額されていた。写真を見ると妻側屋根の箕甲は美しいカーブを描いて刈込されて特徴的である。数年前に参詣した茨城県大洗町にある大洗磯前神社の本殿草葺き屋根の箕甲(下画像)も同じような形状の美しいカーブを描いて刈込されたものであった。 草葺き屋根(茅・麦藁・藁など)
先日来紹介している二所山田神社の門前から漢陽寺にかけて遊歩道が整備されており懐かしい水車小屋が復元されていた。当ブログ主が子供の頃母親の里には大きな水車があり、水車で精米をしたり発電機を回して電気を起こしていた。またベルトを掛けて製材機や木工加工の機器を動かしていたのを記憶している。下画像は伯父が作ってくれていた水車小屋の模型で長らくほこりを被っていた。
昨日紹介した二所山田神社の境内にみられる石造物は通常のものとは少し変わったデザインのものがみられたので紹介する。二の鳥居の手前にある文化9年(1812)の刻銘のある二の狛犬で、猛々しい姿の狛犬でなくユーモラスなスタイルの狛犬である。参道途中に建立されている注連柱の頂部は擬宝珠形状とされており珍しいものである。拝殿のある手前の段にある一対の石燈籠は見たことが無いような斬新なデザインであり菊の紋章がみられる。刻銘の確認を怠ったが画像を見ると勝間田信右衛門通宏と刻されており、勝間田信右衛門通宏は江戸期酒造業を営んで庄屋や大庄屋、勘場役人などを勤めていたようである。
昨日紹介した女子道社のある二所山田神社は鹿野上村にあった二所神社(二所大明神)と鹿野村にあった山田神社(山田権前)を明治期に合祀して二所山田神社となったようである。境内社の菅原神社が隣接してみられ、何れの社殿も当市域でみられる社殿の造りとは少し違った造りで、楼拝殿と言われる造りのようである。唐破風の向拝に続いての拝殿は楼門風の高い屋根で左右に翼廊を設けたもので山口地方にみられる社殿造りのようである。
昨日紹介した御神籤機に山口県鹿野町女子道謹製とあったので周南市鹿野町の女子道社のある二所山田神社を参詣した。明治期に当社の宮司が女性自立のための全国組織「大日本敬神婦人会」を設立し、その機関紙「女子道」を発刊した。その資金源として御神籤を製造し自動御神籤機を考案して製作されたようで、現在も御神籤の製造と自動御神籤機を製作されているようである。大正11年(1922)9月6日の官報広告では「自動おくじ箱」とある。
新宮神社の御神籤機
万倉天満宮の御神籤機
宮尾八幡宮の御神籤機
先日訪れた岩国市周東町祖生の新宮神社拝殿脇にレトロな御神籤機が置かれており、上部には5銭を投入すれば御神籤が頂けると記されていた。一昨日紹介した宇部市西万倉にある宮尾八幡宮の境内社万倉天満宮に置かれた御神籤機は大正11年(1922)10月昇格紀念とあり、この頃に製造されたものであろう。上部には1銭を投入すれば御神籤が頂けると記されているが、まだ現役のようであり下には100円投入すると多分!!!御神籤が頂けるとあったが、残念ながら出てこなかった。
宮尾八幡宮の拝殿には現在の御神籤機が置かれており、山口県鹿野町女子道謹製と記されていたが・・・
山陽自動車道の佐波川SA(下り線)で休憩することは無いが、今回立ち寄ってみると緑地に変わった石橋があった。看板表示によると江戸中期に三田尻浜の入浜式塩田の入川にこのような石橋が9基架橋されていたようで、現地には1基現存しておりこの石橋は移設したもののようである。石橋は迫持ちの形式をよく見るがこの石橋は両側から持ち出した二段の石桁の上に中央石桁を載せた珍しい形式のものである。
宇部市西万倉にある宮尾八幡宮を訪れ参詣した。参道脇にはかつて宮競馬が行われていた競馬場跡地があり、拝殿・本殿脇には万倉天満宮、薬師堂が祀られている。江戸期の寺社由来に薬師堂がみられるので薬師像は神仏習合時代の名残りとみられる。看板表示によると薬師如来坐像は元享4年(1324)に造立されたようである。
旧西国街道の玖珂宿の町並みも3、40年前に訪れた頃には入母屋造り妻入りの町屋が多くみられていた。上画像は平入の町屋で厨子二階の中央には横格子の虫籠窓が設けられ、酒店であったものとみられ中央に杉玉の屋根が設けられているのが特徴的である。
旧西国街道の高森宿があった岩国市周東町高森の町並みを訪れてみた。3、40年前に訪れた頃には歴史的な多くの町屋がみられたが現在は少なくなっている。高森本陣跡と酒造場の大きな屋敷が並んでいたが現在は門塀のみの一部が残されている。街並みの特徴として妻入りの町屋が多く見られていたが、唯一三連棟の妻入り町屋が良い状態でみられた。
岩国市周東町祖生にある新宮神社を久しぶりに参詣した。江戸期の地誌に「・・・当社者嘉禄二年丙戌始、而奉勧請厳島於郷内、号新宮大明神・・・」とある。ここ祖生の地は治承4年(1180)頃厳島社水精寺の寺領となっており、これらから厳島社との関わりが深い地であったことがわかるのである。拝殿内には厳島神社を描いた絵馬が掲額されていた。かつて本殿の屋根は古写真のように茅葺きで20年毎に葺き替えしていたようであるが、昭和60年(1985)に銅板葺きとされたようである。