hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

雨の記憶

2017年02月26日 | 昔の話2

      

 

 一番古い雨の記憶は私の小学校入学の日だ。母の傘の中で手をひかれて帯び芯で作ったズックのかばんを下げ、隣の隣に住むS君親子と一緒に小学校へ行った。S君の父親は社長でお金持で、彼はランドセルを背負い、ゴム長靴で水たまりをピチャピチャさせていた。ズックは恥ずかしくなかったし、ランドセルも欲しくなかったが、長靴はうらやましかった。しかし、我が家は貧しく、自分には関係ない世界であることも良く解っていた。一人っ子の私は、小学校がはじめての集団生活で、緊張と期待でわくわくし、雨も、貧しさも楽しかった。

 

 最初の授業のとき、窓から雨の降る校庭を見た誰かが叫んだ。「おーい、傘をさして誰かくるぞ!」 先生が止めるまもなく、皆総立ちになり窓に殺到した。背伸びしても外が見えない子が多く、「良く見えない!」と声があがった。そこで私が机の上に立ち、「机にのればよく見えるぞ!」と皆に得意げに教えてやった。先生が冷たく言った。「机にのってはいけません!それは悪い子のやることです」。七十年近く経った今でも、あの驚きと、哀しみが蘇る。

 

 1950年当時、都内山の手の私の通っていた小学校は二部授業だった。子供の数に比べ充分な校舎がなかったため、午前中授業があると、翌日は午後からの授業になる。午後から授業の時は、昼飯後に登校し、午前の組の授業が終わるのを廊下で待つ。この時の思い出もなぜか外は雨で、私はしずくのたれる傘を下げている。木造の校舎の油を引いてこげ茶色になった板張りの廊下のあのにおいを思い出す。

 

 明治生まれの父は無口で怖かったが、一人っ子の私は可愛がられ、めったに怒られることはなかった。ある雨の夜、父が「新聞を取って来い」と言った。何かをしていた私は何気なく「いや」と言った。その言い方がいけなかったのだろう、突然父が「親に向かって何を言うか」とほっぺたをぶった。それまで一度も殴られた事がなかった私は、一瞬ボーとして、何が何だかわからなくなり、静寂の後、大声で泣き出した。そして泣きながら廊下を走り、玄関から外に出た。外に出てからハッと我に返ったが、冷たい雨は降っているし、どこへ行ったら良いのかわからない。玄関からの石畳をトボトボと歩き、門のかんぬきを足がかりに、いつも遊んでいるコンクリート製の四角い門柱の上へ登った。門柱の上には松が張り出していて雨宿りにもなる。

 べそをかきながらそこにじっと座り込んでいると、傘をさして母がやってきた。キョロキョロあたりを捜しながら、名前を呼ぶ。このままでは行ってしまうと思い、小声で「ここ、ここ」と言った。母は「まあまあ、何でそんなところに」と言って微笑んだ。母に連れられて部屋に戻り、父にモゾモゾ言って、下を向いたまま遊びを続けた。父も黙っていた。

 

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裁縫箱と母

2017年02月24日 | 昔の話2

        

 

 昔々、我家に裁縫箱があった。和裁用で、上蓋を開けると、針山とはさみなどが入っており、その下には三段くらいの引き出しがついていた。横には穴があり、ものさしが斜めに刺さっている。もちろん鯨尺だ。全体は幅四十センチ、高さ三十センチほどの木の箱で、表面に模様のある木の皮が貼り付けてあった。

 

 母は良くこの裁縫箱の蓋をあけ、四角い棒“くけ”を起こして立てて、先端から延びたひもの先の物干しバサミのような“かけはり”に布地の一方を挟んで、針仕事をしていた。小学校に上がる前だろうに私の記憶にこびりついているということは、しょっちゅう内職でもしていたのだろう。

 

 私はこの裁縫箱、というより母のまわりでよく遊んでいた。おもちゃらしいおもちゃがない時代だ。裁縫箱をおもちゃにして、引き出しを開け閉めし、針山の針を刺し直し、使われていないときには、“くけ”を起こしたり、寝かせて裁縫箱の蓋をしめたりした。“かけはり”で、こわごわ指を挟んだりもした。すずめの舌をちょん切った糸きりばさみ、指ぬき、くじらの骨でできたヘラもおもちゃ道具だった。ちょこまか邪魔をする私を、記憶の中の母は叱ることもなく微笑んでいる。

 

 しかし、何と言っても良く遊んだのは、裁縫箱に斜めに刺してあるものさしだ。これを刀にして一人チャンバラするのだ。ズボンのベルトに刺し、するりと抜いて、構えて正面の敵を切り、すぐ振り返って後ろの敵を切る。漫画雑誌でみたエジプト王朝のアメンホテプが大好きで、タオルケットを持ち出して来てマントにし、なぜか刀を差したアメンホテプに成り切ったりもした。そして、あきると、結局なんだかだと、母のそばに行ってちょっかいを出した。

 

 割烹着を着て、針を髪の毛に触れさせてから、針仕事をする若い母の姿がそこにはある。昨日のことのようだが、もうあれから70年近くが過ぎ去った。そして、母が亡くなって20年近くになる。庭に花でもあれば摘んでくるところだが、久しぶりに仏壇に線香でもあげるとしよう。

 

 

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歌は時とともに 

2015年03月05日 | 昔の話2

 

幼いころの好きな曲は、母がよく歌ってくれた「お山の杉の子」でした。おぶわれた背中から私が母の声に合わせて、最後のところで、「声かけた 声かけた」と必ず歌ったと言って、母がよく笑っていました。

 

高校の頃は石原裕次郎でしょう。「錆びたナイフ」「夜霧よ今夜も有難う」は、今でも数少ない私の持ち歌です。といってもカラオケにはもう20年ほど行っていませんが。

学生だった頃、彼女と歩いていたとき、突然きかれました。

「冷水さんって、歌手だと誰が好き?」

想定外の質問にとまどって、とっさに

「石原裕次郎・・・かな」

と答えました。

一瞬、彼女の顔に戸惑ったような表情が浮かびました。

「君は?」と聞くと、

にこやかに、「アダモ」と言うのです。

「アダモか! やられた! 石原裕次郎はまずかったな」と思いました。なにしろ私は見栄っ張りです。

 

会社に勤め始めた頃、その頃の彼女にも

「どんな歌手が好き?」

と聞かれました。まだ大人になり切れず、新左翼に共感し、たびたびデモなどに参加していた私は、

「う~ん、加藤登紀子あたりかな」と答えました。「君は?」と聞くと、

ちょっと得意そうに「浅川マキ」と言うのです。

「浅川・・・?」

「知らない?」と言われてしまいました。

帰ってから調べると、浅川マキはアングラのジャズ歌手で、加藤登紀子が友人の浅川マキを「歌がうますぎて嫉妬する」と言っていたと知りました。

今回も、完敗でした。

 

その後、谷村新司、井上陽水、山崎ハコなどといった歌手が好きになりました。フランス帰りの友人の真似をして、まだ日本では知られていなかったジョルジュ・ムスタキに凝ったこともありました。数年して、日本でもブームになり、それじゃ意味ないと遠ざかってしまいました。


しかし、なんと言っても一番は、今でもビートルズです。激しい曲も、甘い曲もすべてがお気に入りです。CDを聞きながら、歌詞を見ながら、何回歌ったことでしょう。

ビートルズの曲の中で、特に好きな曲というと、ポールがジョン(Jo Jo)に対し「戻って来い」と呼びかけていると言われる「ゲット・バック」("Get Back")」でしょう。しかし、この曲は英語が早すぎて、私には歌えません。「ミッシェル」("Michelle")や「イエスタデイ 」 ("Yesterday")などいくつかは簡単な英語で私でも歌えますが、ちょっと甘すぎます。

 

自分でも歌って楽しめる曲というと、「レット・イット・ビー Let It Be」でしょう。ポール・マッカートニーの訴えるような歌声、宗教的とも言える歌詞がしみじみと身にしみます。ピアノの前奏を聴いただけで、もう別世界へ引き込まれてしまいます。

あらゆるものに怒っていた若いころも、「レット・イット・ビー」にせつない思いを募らせました。忙しく働いていた中年のころも、「あるがままに受け入れよう」という歌声に慰められました。そして、もうこれ以上なにも欲しいものはないという歳になった今も、なつかしい甘酸っぱさに満たされるのです。これこそ私のお気に入りの一曲です。

 

ちなみに、アナと雪の女王 の「レット・イット・ゴー ~ありのままで~」“Let It Go”は、ありのままの自分を積極的に自分で勝ち取っていくということなのでしょう。どうも私にはなじめません。

 

 

 

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だまされて楽しい八幡様のお祭り

2011年09月16日 | 昔の話2

子どもの頃代々木八幡宮の近くに住んでいた。八幡様は木々がうっそうとしたちょっとした山になっていて、境内の林の中には、復元された縄文時代の堅穴式住居があった。作家の平岩弓枝の父親が宮司だった。

九月にはお祭りがあり、八幡様の階段の登り口からお社まで出店がずらりと並ぶ。小学生の頃は、お祭りのときだけもらうお小遣いを握り締めて、出店を端から一つずつのぞき込んでいくのが楽しみだった。居並ぶお店の大半はお菓子やお面などの店だが、なにしろまだ戦後の匂いの残る昭和二十年代である、ちっと変わった、というか、いかがわしく、いんちきくさい店も多かった。

先に針をたらした棒が円盤の上で回転するルーレットのようなゲームがあった。針が止まったところに書いてある商品がもらえる。もう少しですばらしい商品のところで止まりそうになるのに、いつもわずか行き過ぎたり、手前で止まったりする。何人もの子供が失敗するのをじっと見ていて、友達と、「あれはきっと板の下に磁石があって、おじさんが当たらないようにしているんだぜ」「インチキだ。止めだ、止めだ」と言いながら、今度こそとついつい見とれてしまう。

望遠鏡のような筒状のおもちゃを売っていた。おじさんが言う。「これで見ると、なんでも透けて見えちゃうんだよ」。 手の指を広げて、このおもちゃでのぞいて、「ほら、骨が透けて見える」。覗かせてもらうと、確かに手のひらが骨と肉に見える。おじさんが追い討ちをかける。「女の子を見れば、洋服が透けて見えるよ」。色気が付いた中学に入ってからだったと思う。握り締めて汗をかいた百円玉を渡して、さっそく買った。家まで待ちきれず、さっそく、「物」を見てみる。なんだか、スカートの周りがぼやけて見えるだけだった。
家へ帰って、腹立ち紛れにばらしてしまった。目を当てるところに鳥の羽が一枚入っていて、物がずれて二重に見え、周辺がぼやけるだけのものだった。

実際にがまの油売りもいた。林の中のちょっとした広場で、竹棒で地面に円を書いて、「この線から入っちゃだめよ」と言ってから、「さあさ、お立会い、御用とお急ぎのないかたは、」と、あの有名な口上をはじめる。日本刀を構えて、紙を何枚も切って切れ味を示し、そして自分の腕を切って血が出るのを示す。そして、がまの油をつけて、布で拭き取ると、あら不思議、傷口もなくなっている。
そして、がまの油を入れた小さなカンを売る。最初はお客さんが互いに顔を見合わせているだけなのだが、取り囲んだ輪の外側から誰かがお金を出して買うと、何人かが争うように買い始める。一度すべてが終わってからもう一回見ていると、また同じ人が最初に買う。“さくら”だった。


八幡様のお祭りは、なにか怪しげで、怖いもの見たさの楽しみもあった。そして、今になって思うと、なんだかいんちきも今のようにギスギスしていないで、どこかユーモラスで、だまされることも楽しむ雰囲気もあったと思えてくる。

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オヤジのギャグ

2010年06月06日 | 昔の話2

オヤジ・ギャグではない。私の父親の冗談だ。
明治生まれの父は無口で冗談をいう人ではなかったが、
それでも思い出すオヤジのギャグが2つある。

いつもコタツに座ったきり、「あれを出せ」「あれとってこい」とお袋を使っている父が、
「こればっかりは、頼めない」
とトイレに立った。

隣の隣で葬式があり、すぐに隣家にも不幸があった。
今月は臨時出費が重なり困ったと嘆く母に、年老いた父は力強く言った。
「よし、こんどは俺が取返してやる」


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すさまじきかな天災    

2010年03月10日 | 昔の話2

幸いなことに今まで特に大きな災害に会わずにきた。しかし、身近に感じた災害もいくつかある。

1959年9月、潮岬に上陸した伊勢湾台風は、死者・行方不明者5千人と大きな被害をもたらした。私は、高校の卒業旅行で直後に名古屋を通った。列車の窓から見た名古屋港は倒木でうずまり、市内には破壊された家々が限りなく広がっていた。その中で蟻のように小さく見える人びとが懸命に後片付けしていた。そんななかで旅行など申し訳ないと思った。半世紀ほど経った今でも倒木の海の間にうごめく人々の姿が目に焼きついている。


1978年1月14日の昼時に突然やってきた伊豆大島近海地震は、マグニチュード7.0、当時住んでいた横須賀で震度5と大きな地震だった。
いきなりドンと大きな縦揺れが来て、酔いそうになるほど横揺れが続いた。結局、自宅の被害はそれほどでもなかったが、山の上にある職場の建物は大きな被害を受けた。当日は土曜日で人はほとんどいなかったのが幸いしたが、月曜日に出社すると、天井の羽目板は室内に散乱し、物品をしまった壁際の棚は倒れ、キャスター付きの台はとんでもないところに移動していて、上にあった測定器は床に落ちていた。しばらくは、片付けと転倒防止策で、仕事にならなかった。自宅でも、家具を壁に固定したりしたが、10年も経つと、すっかり忘却のかなたになってしまった。

伊豆の旅館が観光客のキャンセルで困っているとの新聞情報があり、これはサービスの良い宿に泊まるチャンスとばかり余震が続く、伊豆へ車を走らせた。海岸線を走り、熱海を過ぎると、ところどころ山側の崖が崩れている。果たして、伊東の近くで道路封鎖になっていた。少し戻って、伊豆スカイラインに入ろうとしたが、これも封鎖。係員に道を聞いたが、「こんなときに観光?」と、相手にしてもらえない。やむなく、戻って熱海で宿泊した。確かに、どこへ行ってもガラガラだったが、人影まばらな観光地は寂しく、楽しめない。ひねくれたお調子者の失敗談になってしまった。


1986年11月の三原山大噴火では、大音響が聞こえ、横須賀の住宅団地は大騒ぎになった。直接大島は見えないのだが、三浦半島先端部の向こう側から空に吹き上げる花火のような噴火が夜になっても続いた。三浦半島の向う側に大島があったとはついぞ気付かなかった。全島民約1万人の避難をTVに釘付けで見た。自然の猛威の桁外れさをあらためて思い知った。




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銭湯の思い出

2009年11月13日 | 昔の話2
もう何十年も風呂屋に行ってないのだが、散歩の途中で風呂屋を見た。それにしても、風呂ロックとは。これが銭湯、普通公衆浴場なのだろうか。確かに、吉祥寺の繁華街で風呂屋のままではもったいないとは思うし、江戸時代には銭湯は庶民の社交場だったと聞いたことがあるが。



それにしても、入浴料金を調べてみて驚いた。現在、東京は大人450円、私が中学生だった1955年は、15円だった。当時、ラーメン40円、コーヒー60円とあるから、風呂代の上がり方は大きい。自宅に風呂のある人が圧倒的に増えたのだからやむをえないのだろう。

私は、自宅に風呂のなかったので、銭湯に通っていた。のれんをくぐり、男と書いた方の下駄箱に靴を入れる。番号は、昔ほど打てなくなっていたが、巨人軍の川上の背番号16番に決めていた。下足札を持って、番台にお金を置き、板の間の脱衣場に入る。女湯との境の回転ドアが揺れて、ちらりと女湯が見え、あわてて目をそらす。脱いだ洋服と下足札を竹製の脱衣かごに入れ、かごをロッカーに入れて、アルミの鍵についたゴムを腕に巻きつける。タオルと石鹸を持って、両開きのガラス戸を開けて洗い場に入る。

まず、空いているカラン(蛇口)に陣取り、湯を桶にとって、体を簡単に洗う。これを掛け湯という。
湯船は多少ぬるめの大きい湯船と、深く熱い小さい湯船があった。とても耐えられない熱い方には、たいてい頑固そうなオヤジが入っていて、蛇口から水を出してぬるくなったところに足を入れようとすると、オヤジがにらんで言う。「ぼうず。やたらと薄めるんじゃねえ!」
「そんな事言って、本当はお湯をかき混ぜると、熱い湯が身体の回りに来るから我慢の限界を超すんじゃないの」と思うが、もちろんそんなことは言わない。

ぬるい方の湯船につかってから、身体を洗っていると、ようやくオヤジが赤い顔して出て行く。よしとばかり、熱い方にそろりと足を入れる。足の爪と指の間がジンジンする。エイヤと、一気に身体を沈める。熱い!痛い!我慢できずにあっという間に飛び出す。体中が真っ赤だ。

小学校にも上がらないころのことだと思う。母親と女湯に入っていると、さらしを巻いた三助さんが入ってきて、長い板で熱い方の湯船をかき混ぜて湯温を調節したり、お代を払ったという木の札を置いてある女性の背中を洗ったりしていた。いい商売だと思うが、今ではなりたくとも、三助さんを雇う風呂屋はないのだろう。
東京では今は廃止になったが、昔昔女性が風呂で髪を洗うときには、番台にお金を払って、木の札をもらうことになった。洗い場にその札を置いて、自分で髪を洗うのだ。お湯を多く使うから、別に料金を徴収するということだったと思う。

脱衣場で、一人前にタオルで前を隠しながら、ガラスの両開きの小さな冷蔵庫をあけ、コーヒー牛乳を取り出す。お代は番台に払いに行ったのだろう。戸を開けて狭い庭を見る。ミニチュアのような築山と池のコイを眺めながらコーヒー牛乳を飲む。ようやく冷えた身体に洋服をまとい、銭湯を後にする。
家までは15分ほどかかり、「洗い髪が芯まで冷えて、小さな石鹸カタカタ鳴った」。そして、自分自身の身体を抱きしめて帰った。



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雷さんと虫歯菌

2008年08月22日 | 昔の話2

昨日の夜はけっこうカミナリがひどく、340m/秒 * 2秒 = 約700m位まで近づき、地響きがした。

子供のころ、カミナリがなると、「おなかを出してるとおへそを取られるわよ」などと注意されたものだった。おなかが冷えることへの注意だったのだろう。
そう言われると、皮のパンツをはいて、クルクルのパーマ頭の鬼が雲の上で太鼓を叩いている姿が目に浮かんだものだ。最近は雷さんの鬼の出番は少ない。


そういえば、歯を磨かないでいると、虫歯菌にやられる光景が目に浮かび、あわてて歯を磨きに行ったものだった。
とんがり帽子をかぶり黒い服を着た痩せこけたいかにもバイキンといった虫歯菌が、つるはしを持って、歯をキンコン、キンコンを壊している絵を良く見かけた。歯を磨かないと、この虫歯菌が歯を壊しているような気がして、歯が実際に痛いように感じたものだった。
今はミュータンス菌という名前で科学的に解明されていて、黒いとんがり帽子の針金のような虫歯菌の絵も見かけなくなってしまった。


「食べたばかりでゴロゴロしてると、牛になるわよ」とも言われた。今の子どもにこんなこと言っても、「ちゃんと理由を説明してよ」といわれるか、頭から馬鹿にされるかだろう。


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昔の子どものお手伝い

2008年06月29日 | 昔の話2

もう50年以上昔になってしまった私の子どもの頃の話だ。

雨戸閉め
子供のころの借家には長い廊下があって、雨戸が 8 枚以上あった。この雨戸の開け閉めが私の役目だった。
雨戸はもちろん木製で、戸袋から引っ張り出して、木の溝の上を滑らせる。良くすべるように、溝にはローソクを塗っておくのだが、それでも 8 枚の雨戸を一遍には押すことはできない。最初の何枚かは、勢いをつけて遠くへ押し出す。それでも 5,6 枚目で押し切れなくなり、先のほうへ行って、2, 3 枚だけ、最後まで押していく。最後の雨戸の下の棒を溝の穴に刺し、上の棒を溝に押し上げ、落ちてこないように止めの棒を横に引いておしまいになる。
外が暗くなると、ヨッシャとばかり立ち上がり雨戸を閉める。ちょっとした力仕事なので、男の子の私には好きなお手伝いだった。

縁側の廊下の雑巾がけ
だいたいは母が廊下の雑巾がけしていたが、ときどきお手伝いした。端から端まで両手を雑巾の上に乗せて腰を立てて足で廊下をけって進む。行って、雑巾を裏返して、戻って、バケツで雑巾を濯ぐ。これも結構きつい。ときどき、オカラを入れた袋で磨いた。廊下が黒光りする茶色に、ピカピカになって気持ちよいのだが、よく滑るようになって危なかった。

靴磨き
お小遣いをもらうわけでもなく命じられて、父親の靴を磨く。2足磨き、なんだか物足りなくなり、棚の中の靴も取り出してくる。だんだん熱中してきて、靴がピカピカになると、じっと眺めて、なんだか満足する。気がつくと、手はもちろん、顔まで墨がついてしまっていた。「靴磨き」については、2007年1月11日のブログに書いた。


鰹節削り
大工道具のカンナをひっくり返したような箱の上で鰹節を滑らして削る。小さくなってもう削れなくなったのを食べるのだけが楽しみだった。口に入れてしばらく舐めて多少柔らかくなったのを噛むと、ジワッと味が出てくる。そのまんま噛んで、どんどん味が濃くなってきて、幸せ!


毛糸巻き
買ってきたままの大きなループ状の新しい毛糸をボール状に巻き取る。片方の人が両手をループに入れて、スムーズにほどけるように左右にゆっくりゆする。少し離れて座ったもう一方の人がほどけてきた毛糸をボール状に巻き取る。私は多分ループを持ったと思うが、ほどけぐわいを見ながら、手を左右にゆするのだが、ときどき2つほどけてしまい、オットトトとなる。
奥さんの話だと、今は、毛糸は楕円形に巻かれた状態で売っているという。このお手伝いは時間がかかるので、母と私で何か話しながらしたのだろう。どんな話だったか、遠すぎて覚えていない。

精米
一升瓶に精米していない米を入れて、棒でつついて精米する。一升瓶を両足で押さえ、少し斜めにして、棒をザクリ、ザクリと突く。
これは主に父の役目で、私はときどきしかやらなかった。かすかに覚えているだけなので、まだ幼いときだったのだろう。2007年9月3日のブログ「米穀通帳」に当時の米事情を書いた。



また、お茶ガラや濡らしてちぎった新聞紙を撒いて箒で掃くのも手伝った。そのほか、ポストから新聞を取ってくるなど、いくつか私のお決まりの役目があった。



あの頃の子どもは、お小遣いももらわず、当然のようにお手伝いをした。子どもの世界も今よりもっと生活に密着していた。洗濯機も電気釜もなく、主婦は家事で多忙だった。そんな親を見て、お手伝いで親子のコミュニケーションがとれていたのだろう。
今の娘さんみたいな母親と異なり、当時の母親は割烹着を着て、髪に手ぬぐいを巻いて、お母さんはお母さんとすぐ判った。「おはぐろ」はしていなかったが。








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