hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

宮地尚子『傷を愛せるか』を読む

2015年01月15日 | 読書2

 

宮地尚子著『傷を愛せるか』(2010年1月20日大月書店発行)を読んだ。

 

精神科医で、トラウマの研究者として、傷ついた人と向き合うなかで生み出されたエッセイ23編。

 

「なにもできなくても」(最初のエッセイ)

子どもが階段で転げ落ちるのを少し離れたところでただ見ていた。そのときは医師としての自分になっていて、どのように落ちていったかをきちんと見ておくことが、その後の対処に役立つと思ったからだろう。

医師になっても、医療が進歩しても、ただ、見守るしかないことも多い。

傷ついた心を癒す特効薬はないし、回復が促されるよう周囲の環境を整えるにも、時間と精神的なエネルギーがおそろしくかかる。目の前で状況が悪化しつつあっても、本人や家族がいったん「底つき」をするまで、待つしかないこともある。

何もできなくても、目を凝らして、一部始終を見届けなければいけない。「なにもできなくても、見ているだけでいい。なにもできなくても、そこにいるだけでいい」

  

「内なる海」

精神科医の書き物や臨床のテキストブックには、自殺を止めるための言葉がいろいろ挙げられている。当のクライアントにとっては、なにをいわれようと気休めにしかならない。死なないでほしいといってその場をやり過ごす自分、自殺を防ぎつづけることでいつか生きる喜びを取り戻してもらおうと思いつつ、それがあきらめて生きていってもらうことと紙一重であるのに気づいている自分に、わたしは嫌気がさす。

 

病院を出て子どもたちを預けている保育園に向かう。門を開けると、元気いっぱいの子どもたちがこちらに向けて駆けてくる。クライアントの苦しみを置き去りにする罪悪感を押し流し、自分の内なる海を取り戻す。

 

 

「弱さを抱えたままの強さ」

日本にも強く波及しつつある米国のネオリベラリズム(新自由主義)が危険なのは、弱みにつけ込むことがビジネスの秘訣として称賛されることで、弱さをそのまま尊重する文化を壊してしまうからだとわたしは思う。そして医療をビジネスモデルで捉えるのが危険なのは、病いや傷を負った人の弱みにつけ込むことほど簡単なことはないからである。

 

 

「傷を愛せるか」(最後のエッセイの最後の部分)

傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷のまわりをそっとなぞること。身体全体をいたわること。ひきつれや瘢痕(はんこん)を抱え、包むこと。さらなる傷を負わないよう、手当てをし、好奇の目からは隠し、それでも恥じないこと。傷とともにその後を生きつづけること。

傷を愛せないわたしを、あなたを、愛してみたい。

傷を愛せないあなたを、わたしを、愛してみたい。

 

 

 

宮地 尚子(みやじ・なおこ)

1961年生まれ。日本の精神科医、一橋大学教授。

1986年京都府立医科大学卒。93年同大学院修了、医学博士。89-92年ハーバード大学医学部研究員。

2001年一橋大学大学院社会学研究科地球社会研究専攻教授。

専門は文化精神医学、医療人類学、ジェンダーとセクシュアリティ。

『異文化を生きる』、『トラウマの医療人類学』、『環状島=トラウマの地政学』、『傷を愛せるか』、『震災トラウマと復興ストレス』、『トラウマ』

 

 

私の評価としては、★★★★(四つ星:お勧め)(最大は五つ星)

 

精神科医として病に絶望する人を受け止め、トラウマなど厳しい状況を探る精神医学の国際的研究を進め、異国の進んだ、あるいは遅れた医療環境を良く知る、二人(?)の子の母、それが著者だ。そして、その著者が受け止めたものをしっかりかみしめてから、もう一度、味わい、慈しむように見つめて、そして静かに筆を進めたエッセイだ。

 

傷ついた人の重みに喘ぎ、掛ける言葉に詰まり、少なくともただ見つめることだけでもと決意する、心痛む人に寄り添うなかで生みだされたエッセイだ。

   

コメント
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