このブログに時々登場する友人のアマチアカメラマンSのお父さんが先週金曜日に亡くなった。日曜日の夜お通夜があると聞き、彼の家に徒歩で向かうと真っ暗で人影が無かった。灯が見えた向かいの家に行き若いお母さんに聞くと、農協系のスーパーの近くにあるやはり農協系の葬儀場らしいと教えてくれた。最近はお通夜も葬儀場でやるのかと訝り呟くと、彼女もそうですねと曖昧に返事した。
礼を言って急ぎ家に戻り車で葬儀場に向かった。夜の田舎道は暗くハイビームにしないと数十メーター先は真っ暗で何も見えなかった。少し怖かったが、数分で国道沿いに商店街の灯が見えた。葬儀場の駐車場はまばらに外灯があるだけで薄暗く人影が無かった。葬儀場の裏は窓が無くどこにも灯が見えなかった。表に回るとわずかに入り口のドアの形の灯が見え、その横にS家のお通夜を伝える白い看板が立っていた。
ドアを開けて入るとすぐ左手に受付があり中年の男性二人がいた。二人とも会った記憶が無かったが、一人は私を知っていて東京から戻ったのかと聞いた。指差された右手方向の部屋に入るとちょうど和尚さんのお経が始まった。お経の後焼香をして受付に戻ると、Sの奥さんがいてお父さんの最後の様子を聞いた。
私の父と仲の良い同級生で、42年前父が死んでから何かと母のことを気にかけてくれたらしい。母が介護施設に入居した頃はもう90を過ぎていたはずだが、Sの車で松山まで見舞いに来てくれた。彼はお盆明けの22日に体調が悪くなり、正式に介護認定が出る前に二度ばかり介護ヘルパーに来て貰い、29日に亡くなったという。平均的な高齢者の死に方と比べると家族に負担をかけなかったのではないかと思う。私の理想にする死に方だ。
お通夜で見た死に顔は穏やかだった。亡くなった直後は厳しい顔だったが、徐々に穏やかになったという。担当医は日頃から必要最低限の治療に留めるべきという方針が、穏やかな死に顔の一因ではないかとSは言った。私もその説には合点がいった。というのは、数年前に亡くなった親戚の顔がひどく歪んでおり、原因は胃瘻(いろう)のせいだと聞いたことがあるからだ。
お通夜で焼香の順番を待っている間、孫も曾孫も見ないで死んだ父のことを思い出して胸が痛んだ。心筋梗塞で死んだ父の42年前の死に顔は老人と言うには若過ぎた。若くして死ぬといつまでたっても若い時の記憶だけが残る。私は父より12年も長く生きたことになり、見た目は写真の父より老けた印象になった。今になって思えば、父はもっと長生きできたと思う。
今日の夕方ジョギング中のSに会った。お通夜と葬式の日に全く眠れなかったが、昨日ジョギングするとぐっすり眠れたという。お通夜と葬式を葬儀場でやる家が最近増え始めたという。我々の集落ではS家が2軒目だそうだ。親族が助けに来てくれたものの、Sと奥さんの二人で式と生活の両方を仕切るのは大変で、葬儀場が表の通夜・葬式だけでなく裏の家族や親族の食事からお風呂まで纏めて「おまかせサービス」があり凄く楽だったという。私も母が死んだ時は是非そうしたいものだと言った。■