かぶれの世界(新)

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窮地の町の名医

2014-04-17 22:40:00 | 社会・経済

 先月末の食事中に奥歯の金属の詰め物がとれた。昔からの行きつけの歯医者の予約を取り治療を開始した。二度目の治療が終わった時、明日18日から田舎に行く予定だと先生に相談した。すると3日続けて予約を取って治療してくれ、昨日無事新しい詰め物を付けて治療が終わった。

 私の都合に合わせて治療してくれたのは嬉しいのだが、余りにも無理なく日程を調整してくれたので心配になった。今回いつ行っても治療中の患者はいるが、待合室に人がいなかった。先代の先生の時代から治療をしてもらってきたが、その間ずっと待合室には必ず数人は患者がいた。

 私の経験では歯医者として先生の腕はいいと思う。近くの他の歯医者や米国や田舎でも診て貰った経験があるが、今の先生が治療してくれた歯は長持ちするのだ。問題はいささか治療が乱暴なことだ。痛くなるほど思い切り口を開けさせ、口の中を乱暴狼藉する感じだ。それに比べると私が行く田舎の歯医者は先生も看護婦(技師)もやさしくやってくれる。怖くない。

 私の勘では痛い治療に耐えかねて患者が他の歯医者に逃げたのではないかと思う。幾ら名医でも痛いのは嫌だ。それが命にかかわる病気の治療だと話が違うが。20年前は自宅の半径500m以内に歯医者は2軒しかなかったが、今は5軒もある。新しい所はピカピカの建物の中だ。

 以前は写真を専用のモニターに表示したが、今回はレントゲンを撮った直後モニタの隣に取り付けられたiPadに表示して治療の説明を受けた。設備投資の回収ができるのか心配になった。そういえば普通の看護婦は見かけず、歯科技師が二人で窓口業務もこなしていた。多分リストラしたのだろう。

 数年前に歯科医が急増して競争が激化し、年収500万円にも満たないでやっていけなくなって廃業する歯科医が増えていると聞いたことがある。このニュースを思い出して私の「町の名医」には何とか頑張ってほしいと思った。田舎の「歯医者崩れ」の友人はとっくに見限ったようだ。先見の明があったのか、はたまた腕が悪かったのか今度聞いてみよう。■

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波長が合わない日米首脳

2014-04-16 12:40:12 | 国際・政治

オバマ大統領が国賓として来週訪日し安倍首相と首脳会談に臨む。会談のテーマは軍事膨張を続け海洋権益の拡大を図る中国対応と沖縄基地移転問題、北朝鮮の核兵器、ウクライナ騒乱、TPPなど両首脳が話し合うべき喫緊で重要な問題が山積している。しかし、国賓として23日の日程になったのはケネディ大使の助言があったからと報じられている。ここに両国関係のむつかしさが象徴的に表れていると推測し、私の懸念を紹介したい。

私は安倍首相とオバマ大統領の波長が合わずギクシャクした関係にあり、スムーズに会談が進むか不安を感じている。例によって誤解を恐れず大胆に人物評をすると、安倍首相は用心深い原理主義者、オバマ大統領は無駄を省いて損得勘定で取引をする企業お抱えの弁護士であり、水と油までとは言わなくても二人は肝胆相照らすお友達にはなりそうもない。

 報じられたニュースから判断するに、私にはオバマ大統領の気質により問題があるように感じる。そもそも安倍首相が最初にホワイトハウスを訪れた時、必要性が無いからと記者会見で安倍首相をそっけなく扱い私はおやっと思った。安倍首相は恥をかかされたとまではいかなくても内心不愉快だったはずだと推測する。それ以降日米首脳の関係は何かとギクシャクしている。

 オバマは何が重要かハッキリした判断があって、それに基づきそのまま行動に移す。最も重要なのは明らかに急拡大する中国への対応だ。彼は今は必要なくともいざという時の為に同盟国の首脳と信頼関係を作りあげておくとかいう手間のかかることを省略する傾向がある。それが裏目に出たのは、シリア問題で振り上げた拳の降ろしどころがなくなった時、急に安倍首相に擦り寄り会談を求めて来たことがあった。安倍氏がその時どう感じたか容易に想像できる。

 内政でも同様の問題が何度かあった。その典型的な例は、債務上限を巡り共和党と対立し一部政府機関を閉鎖した時、オバマの演説は上手いが交渉は下手という限界が露呈された。Bウッドワード氏はベストセラー「政治の代償」の中でオバマは「友達が必要になって作ろうとする」、つまり必要ない時は友達はいないと指摘した。ホワイトハウス内では側近政治、外に出ると信頼できる友達がいないと多く人が指摘するところだ。

 一方、安倍首相は失敗に懲りて極めて用心深くなったものの、第1次内閣時代の政策を執拗に追及する姿勢を貫いている。中でも安全保障の領域では妥協する積りはない、ある種の原理主義の臭いが多くの人を不安にさせる。国民や相手国が今何を求めているかよりも、我が国が将来どうあらねばならないか信じるところを追求する人だ。個人的に中間選挙を睨んで点数を稼ぎたいオバマに都合よく合わせることはないだろう。判断の基準は唯一国益にかなうかどうかだ。

 この二人が相反する国益を乗り越えて浪花節的な関係を結ぶ可能性はなさそうだ。米国の影響力が低下してきた現在、特にスタッフを含めたオバマ政権全体の経験不足が事態を難しくしている様に思う。何とか成果を出してほしい、会談の行方を注目したい。■

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送られる人

2014-04-14 15:48:41 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日品川の長男の家に家族が集合して家内の誕生パーティをやった。2月に孫が生まれたばかりなので外出を避けてホームパーティにした。長男の嫁さんの負担を減らすために、彼等の勧めで品川駅中のDEAN & DEDUCAに前日予約した食材を受け取り大崎の家に向かった。お店はお洒落だけど高価と思ったが、お客で一杯で景気が回復しつつあるのを実感した。

 久し振りに家族全員揃って楽しく過ごせたが、主役は家内より孫達だった。パーティ食材は多様で美味しかったけどいかにも高カロリーで食べ過ぎないように気を付けた。私と娘の夫君はワインで気持ちよくなり気が付くとソファーでうとうとしていた。日曜日なのに帰りの電車が思ったより混んでいた。五反田、恵比寿、目黒、渋谷、原宿、新宿とどこでも乗降客は多く若い人が殆どだった。

 今週末に行く四国の田舎の駅の様子を想像して、この混雑が早くも懐かしく思えた。今週末から半年間田舎の実家で過ごす予定だ。何だか少し寂しい。

 先週土曜日にバドミントンクラブの練習に参加し、リーダーに挨拶しお礼のカードを渡し「また海外に行ってくる、これが最後かもしれない」と伝えた。彼女は「駄目よ、東京に戻ったら是非また来てね」と繰り返し言われた。私は「なるべく顔を出すようにする、だからメンバーには言わなくていい」と答え会話を打ち切った。だが、多分これが最後だ、彼女も薄々分かっていたと思う。

 私はこのところ意識して「送られる人」になっている。大袈裟に芝居がかったサヨナラをした訳ではないが、あの時が最後だったと思い出してもらえるような言い方をしている。先日家内と息子の3人で新しいラーメン店の試食に向かう途中、数年前まで参加していたボランティア活動の世話役の女性に偶然会った。久し振りなので連れを先に行かせ甲州街道の歩道で長目の立ち話した。

 彼女は仕事に戻り今ではボランティア活動に常時参加出来なくなったそうだ。今はメンバーが若い人達に入れ替わった、残っているのはリーダーだけとかいう。次々と新商品が出てきてIT教育の内容が変わってきた。私のやってた頃は今月からサポート中止になったWindows-XPだったし、パソコンより今ではスマホやタブレットが主要となったからちゃんとした知識がない。

 以前何度か活動に戻るよう依頼されたが、今となっては新技術の知識が無く講師復活も出来ない。ともあれ会えて良かった、皆さんに宜しくお伝え下さいと彼女に頼んで別れた。実際、彼女も次いつ参加するか決めてないそうだ。そもそも送られる人はその程度で良い、誰も困らない。私が納得できる形でサヨナラを言えればそれでいい。予想もしない意外な人になるかもしれない。■

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壊された思い出の地

2014-04-12 17:16:30 | 旅行記

 先月からウクライナ騒乱と西オーストラリア沖に墜落した航空機探索に世界中の目が注がれていた時、私は米国ワシントン州スノーホーミッシュ郡で起こった大規模な地滑りの行方が気になっていた。この地域はシアトルの北側に位置するなだらかな山が作る美しい自然があり、「ノースカスケード国立公園」がある。因みにワシントン州は3つの国立公園がある唯一の州だった。96年に家族全員と母が米国に来た時車で「ノースカスケード・ループ」と呼ばれる23日の周遊旅行をした特別な思い出の地だった。

 地滑りがあったのはダーリントン-アーリントン道路(州道530号線)にあるオソという人口300人程度の寒村で、旅行した当時の地図やパンフレットを取り出してみると確かに通った記憶がある。カスケードループはシアトルからカナダに向かい国道i5を北上し、エヴァレットから州道2号線を東に走り美しい街レーベンワースを通り抜け、ワナッチーというコロンビア川沿いの小さな町に出る。川沿いに北上するとリゾート地帯のシェラン湖に、更に反転し20号線を北から西に向かうと西部開拓時代の町ウィンスロップに着く。

 この辺から続く雄大なノースカスケードの景色は素晴らしかった。特にその先にあるロス湖の美しさは今でも忘れられない。暫く西に走り途中ロックポートで530号線に乗換え南下しダーリントンから西に向かうところで今回の地滑りがあった。写真で見るとオソ村は泥に覆われていた。当初行方不明150人と言われていたが、今は死亡36人行方不明7人という。毎日流れていたCNNニュースも今月頃から日本では見られなくなり、米国の国内ニュースの枠に収まっているようだ。

自宅が1/4マイルも押し流された直後にインタビューを受ける老婦人の声には恐怖が感じられた。森の中を走る530号線がなぎ倒された木と土砂に埋もれ、その手前に立つ二人のポリスの姿の写真は懐かしい思い出が壊されたようで衝撃的だった。大変申し訳ないけれど、こういう災害で犠牲者が出ない限りノースカスケードの美しい自然も思い出すことこともなかった。調べるとパソコンに旅行した時のスナップ写真が残っていた。当時私と同じ年恰好の母は随分若く見えた。■ 

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400年ぶりの邂逅

2014-04-10 23:51:11 | 日記・エッセイ・コラム

 このブログには私的な個人名を出さない方針でやってきた。だが、退職後10年以上たち同年代のおつきあいした人達も引退されたはずで、もうそろそろ言っても良いだろうという気持ちになってきた。印象に残った出会いについて折に触れて紹介させていただく。

 実家は戦前まで田舎の地主だったが、残された文書によると関原合戦まで先祖はサムライだった。家康の命を受けて山内一豊が土佐入りした時、それまで長宗我部氏に仕えた家臣は一級下の屈辱の扱いを受け下士として山内家に仕えた。ご承知のようにその子孫は坂本龍馬など明治維新に貢献した。

 一方で山内家に反発した者は殺されるか他国に逃れた。私の先祖は伊予の国大洲に逃れ初めは山間部に住み徐々に平地に出て成功し地主になった。戦後の農地解放で我が家は普通の兼業農家になったが、一族の中には明治維新後日本経済の発展に貢献した名家もある。

長々と能書きを垂れたのは、退職の数年前にあるメーカーの事業責任者が新製品の売り込みに来られ、交渉の席上で山内家の直系だと紹介され驚いたことがあるからだ。大河ドラマで何度も出てくるあの山内かと驚いただけではない。我が家に伝わる歴史から判断して400年ぶりの邂逅と勝手に感慨にふけった。

 山内の殿様と落ち武者に直接の接点などあり得ないが、多分その頃に私の先祖と最も近づいた瞬間があったはずだと思った。打ち合わせの後接待を受けた。400年前に命からがら逃げた落ち武者の子孫が、追い出した殿様の子孫に接待を受けたのだ。凄くないですか!

当然ながらそんな手前勝手な感慨を伝える程私は馬鹿ではなかった。戦国時代から江戸時代にかけ山内家と戦った敵対者はごまんといるはず、一々話を聞いてられないだろう。落ち武者の子孫の私には感慨にふけったのは許して頂きたい。ボケて忘れないうちに子供にも伝えようと思う。人生何があるか分からないと。実はその後二三度彼に会ったが商談は不成立だった。■

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