木村義徳九段が亡くなった。享年86歳。
木村九段は学生時代から強豪として鳴らし、アマ名人、学生名人を獲得した。その後、プロの九段戦にも特別参加した。
棋士デビューは1961年10月。木村九段は木村義雄十四世名人の三男だったから、当時は話題になった。1963年5月4日、第11回王座戦の対大山康晴名人戦で快勝し、存在感を見せた。
さらに1967年11月13日の第22期C級1組順位戦では、順位戦18連勝中の中原誠五段に土を付け、その期は中原五段とともに昇級昇段した。
1969年度の第24期B級2組順位戦で10勝2敗の成績を取り、B級1組昇級&七段昇段。しかし翌期は1勝しか挙げられず、B級2組へ逆戻りとなった。
その後は足踏みが続いたが、突如爆発したのが1978年度である。ここで木村七段は7勝3敗の成績を取り、B級1組に復帰した。
そして1979年度も10勝2敗の成績を取り、A級昇級を決めた。時に44歳で、最高齢初A級だった。
木村十四世名人はかねてから「義徳はA級八段になる」と公言していた。周りは当初、「さすがに義徳氏のA級八段はどうか。大名人でも、身内の評価はメガネが曇ってしまうようだ……」と訝ったが、結果的に十四世名人の予言は当たり、さすが慧眼、と感心したのであった。
ただ、木村七段のこの年度の公式戦成績は15勝16敗だった。年度負け越しの棋士がA級はどうか、とやっかみの声も上がったものだ。
木村八段は勢いに乗り、「弱いのが強いのに勝つ法 勝負の理論」(日本将棋連盟刊)を上梓した。内容を一言で言えば、強い棋士に持久戦で向かうのは無理。急戦で行くべし、だった。
私はこの本を所有していなかったが、ある日古本屋の「5冊100円コーナー」にこの本を見つけた。もちろん欲しかったが、残る4冊に欲しい本がなく、購入を諦めた。いまだったら1冊でも100円で買ったのに、当時の私はそこに思い至らなかった。いまでも後悔している出来事である。
さてA級に昇った木村八段だったが、ここの家賃が高いことは、周りはもちろん、本人が最も自覚していた。事実1980年度の第39期A級順位戦は1勝もできず、B級1組に降級した。ちなみにこの年度も前年度と同じ、15勝16敗だった。
悪い流れは変えられず、第40期もB級1組から降級した。4年の間にB級2組からA級を往復するなど前代未聞で、現在もこの「大記録」は破られていない。
しかし木村八段は「ボクは陽気な負け犬」(KKベストセラーズ)を上梓し、転んでもタダでは起きないところを見せた。
なお1981年の第31回NHK杯は、気鋭の谷川浩司七段と当たった。相矢倉の熱戦になったが、谷川七段が「2手違い」で快勝。しかし投了時に木村八段がお茶を悠然と飲んだため、カメラが間違えて敗者の木村八段を先に映す、というハプニングがあった。
「将棋世界」には「嵐山だより」を連載。観戦記もたびたび書き、「棋士の実力差は紙0.1枚」がお決まりのフレーズだった。
1986年には「株は大局観 元手を100倍にする読みと定跡」を上梓。のちに米長邦雄永世棋聖や桐谷広人七段も株の指南本を出したが、これはその先駆けだった。
1991年3月、55歳の若さで引退。「棋士の実力は、順位戦に最も長くいたクラス」が持論で、自身はB級2組が適当、と考えていたようである。B級2組は18期務め、引退時もB級2組だった。
木村九段は柔和な顔立ちながら、目の奥に鋭い光が宿っているイメージがあった。大名人の子息というプレッシャーに耐え、見事A級八段を勝ち取った名伯楽に、合掌。
木村九段は学生時代から強豪として鳴らし、アマ名人、学生名人を獲得した。その後、プロの九段戦にも特別参加した。
棋士デビューは1961年10月。木村九段は木村義雄十四世名人の三男だったから、当時は話題になった。1963年5月4日、第11回王座戦の対大山康晴名人戦で快勝し、存在感を見せた。
さらに1967年11月13日の第22期C級1組順位戦では、順位戦18連勝中の中原誠五段に土を付け、その期は中原五段とともに昇級昇段した。
1969年度の第24期B級2組順位戦で10勝2敗の成績を取り、B級1組昇級&七段昇段。しかし翌期は1勝しか挙げられず、B級2組へ逆戻りとなった。
その後は足踏みが続いたが、突如爆発したのが1978年度である。ここで木村七段は7勝3敗の成績を取り、B級1組に復帰した。
そして1979年度も10勝2敗の成績を取り、A級昇級を決めた。時に44歳で、最高齢初A級だった。
木村十四世名人はかねてから「義徳はA級八段になる」と公言していた。周りは当初、「さすがに義徳氏のA級八段はどうか。大名人でも、身内の評価はメガネが曇ってしまうようだ……」と訝ったが、結果的に十四世名人の予言は当たり、さすが慧眼、と感心したのであった。
ただ、木村七段のこの年度の公式戦成績は15勝16敗だった。年度負け越しの棋士がA級はどうか、とやっかみの声も上がったものだ。
木村八段は勢いに乗り、「弱いのが強いのに勝つ法 勝負の理論」(日本将棋連盟刊)を上梓した。内容を一言で言えば、強い棋士に持久戦で向かうのは無理。急戦で行くべし、だった。
私はこの本を所有していなかったが、ある日古本屋の「5冊100円コーナー」にこの本を見つけた。もちろん欲しかったが、残る4冊に欲しい本がなく、購入を諦めた。いまだったら1冊でも100円で買ったのに、当時の私はそこに思い至らなかった。いまでも後悔している出来事である。
さてA級に昇った木村八段だったが、ここの家賃が高いことは、周りはもちろん、本人が最も自覚していた。事実1980年度の第39期A級順位戦は1勝もできず、B級1組に降級した。ちなみにこの年度も前年度と同じ、15勝16敗だった。
悪い流れは変えられず、第40期もB級1組から降級した。4年の間にB級2組からA級を往復するなど前代未聞で、現在もこの「大記録」は破られていない。
しかし木村八段は「ボクは陽気な負け犬」(KKベストセラーズ)を上梓し、転んでもタダでは起きないところを見せた。
なお1981年の第31回NHK杯は、気鋭の谷川浩司七段と当たった。相矢倉の熱戦になったが、谷川七段が「2手違い」で快勝。しかし投了時に木村八段がお茶を悠然と飲んだため、カメラが間違えて敗者の木村八段を先に映す、というハプニングがあった。
「将棋世界」には「嵐山だより」を連載。観戦記もたびたび書き、「棋士の実力差は紙0.1枚」がお決まりのフレーズだった。
1986年には「株は大局観 元手を100倍にする読みと定跡」を上梓。のちに米長邦雄永世棋聖や桐谷広人七段も株の指南本を出したが、これはその先駆けだった。
1991年3月、55歳の若さで引退。「棋士の実力は、順位戦に最も長くいたクラス」が持論で、自身はB級2組が適当、と考えていたようである。B級2組は18期務め、引退時もB級2組だった。
木村九段は柔和な顔立ちながら、目の奥に鋭い光が宿っているイメージがあった。大名人の子息というプレッシャーに耐え、見事A級八段を勝ち取った名伯楽に、合掌。