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神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

「昭和は良かったね」⑨ 小学生と戦争

2016年10月10日 18時51分43秒 | 昭和という時代

小学生の頃までは至る所に大東亜&太平洋戦争戦争が残っていた

今になって思えば大日本帝国は2方面の戦争を遂行していたのだ

大東亜戦争は中国、英国、佛国、蘭国などを相手に東南アジア及び中国大陸

での戦争だし、太平洋戦争は米国、豪国を相手に太平洋の各地で戦っていた

この小さな国が、これだけの広い地域で数えきれぬ国を相手に3年半も戦争を

したのだ、中国との戦争を考えればまだ数年さかのぼる

 

話を戻そう、戦争の面影は戦後生まれの私にも感じられた、小学校に上がる前までわが家の

唯一の娯楽「ラジオ」から「尋ね人」という放送が流れていたのを記憶している

「尋ね人の時間です・・・・***に住んでいた***さん、***の***さんが探しています」

のような放送だったと思う

その時はただの放送だと思っていたが、父にしてみれば10年ほど前に空襲で行方不明になった

両親とおばさんと、隣のお姉さんの名前が聞こえてくるのではないかと藁にすがる思いで聞いて

居たのだろう。

今思えば、せつない事だったのだ、「昭和は良かった」とばかり言っていられない

 

父が除隊したときに航空兵からもらったという耳付きの航空帽があった

それをかぶると温かくて、そして偉くなった気がした、時にはそれをかぶるとなぜか鞍馬天狗の

気分にもなったものだ

 

それから戦争の残した物と言えば、近所のあちらこちらに防空壕があった

大概の防空壕はその頃には、商店や農家の物置として使われていた

中にはかなり深い防空壕もあった、ただこの何も無い田舎町に爆弾が落ちたという記録は無い

しかし隣接の港町には多くの機雷が撒かれて、戦後打ち上げられた機雷の処理を誤って

警官や見物人が数十人死んだ事故が発生している、特に子供が多かったと言うことだ

 

小学生の時の子供雑誌には、戦争の記事がたくさん載っていた

「加藤隼戦闘隊」「撃墜王坂井三郎物語」「空の王者ゼロ戦」「世界一の戦艦大和」などなど

中でもマイナーではあるが「イ-500型潜水艦」は一番誇りに思えた

アメリカまで行って砲撃したとか、飛行機を摘んでいる潜水艦とか、それは目を見張るものだった

とにかく勝った記事しか載っていなかったから、とても戦争に負けたなんて思っていなかった

「日本は世界一強い国」だと子供ながら誇らしかった

戦争に負けた事を実感したのは多分高校生になってからだと思う

小学生の時には自分の祖父母が東京大空襲で死んだなんて思っても居なかったし

亀戸の家も焼けて父は21歳で住むところも親も無くなったなんて全然知らなかった

広島と長崎の原爆投下も、南洋や北の島での玉砕、全滅、飢え死に

戦後の戦犯の絞首刑、沖縄と千島列島、北方四島が戦利品としてとられたこと

そして戦った兵士の大部分は職業軍人では無く、魚屋や大工や町の職員、要するに普通の市民

だったこと、戦争は勇ましだけでは無く、悲惨だったと言うこと・・・・

戦中、戦後うまれの日本人はたいがい「バカな戦争だった」という

だが、実際に戦場で悲壮な戦いをしてきた我々の親世代は口をつぐんで何も言わない

勝ったとも負けたとも、悲惨だとも、悲しいとも決して言わない

だが一度だけ言った

「オレたちに、あの戦争は無駄な戦争、無謀な戦争だったとか、だまされたとか言わないでくれ」

 その悲痛な叫びはきっと「自分たちが信じて歩んできた青春時代と生き様を、価値観の違う別世代に

頭ごなしに否定される腹立たしさと悲しみなのだと思う。

その世代その世代で時代背景は異なる、その時代を生きた人で無ければわからない

様々なしがらみ、条件、社会環境、国際関係、しきたりなどなど

別世代が知ったかぶりの評論家になって、泥靴を吐いたまま遠慮なしに立ち入ってはいけない場所だ

自分の世代が一番正しい生き方だと思い込んではならない。

 


感激!感動 昭和平成の新商品・機械 後編

2016年10月10日 10時48分13秒 | 昭和という時代

第9位 エレキギター

まさか自分で演奏して歌うなんて、ビートルズやグループサウンズなんてのはテレビでみるもの

自分たちが自分の楽器でまねできるなんて中学生まで考えても見なかった

高校で好きな仲間ができて一緒に始めたバンド、チューニングして初めて演奏で音が合ったときの感動

あれにはしびれたね

 

第8位 ダイヤル回すだけでつながる電話

わが家に初めて電話が入ったのは昭和33年頃だと思う、当時の電話番号は***の三桁

局番など無くて、電話をとってハンドルを回すと電話交換手が出て

それに「もしもし***から**番願います」と言うと「お待ち下さい」

そして繋いでくれる、有人交換

それが自動的にダイヤルを回すだけ相手が出るようになった

まだ近所の大部分に電話が無かったときで、たまに電話がかかってきて

「むかえの**さんよんでもらえませんか」なんて言ってくる、それを新説にも「お待ち下さい」なんて言って

向えの家まで走って「電話ですよ」、昔はのどかで親切だったね

 

第7位 スマートボール

私が小学校に上がるまで住んでいた家は小さな家で、いろりがある8畳くらいの板張りの(今風に言えばリビング)

それと畳をひいた6畳間の2部屋の平屋だった

家具はタンス一竿 父の手造りラジオ 父の手造り蓄音機 あとは鍋釜くらい 最初は仏壇も神棚も無かった

子供は3人居たがオモチャは父が針金でつくったミニチュアの自転車、バタヤ稼業の祖父の家から持ってきた指人形

病院のゴミ箱から拾ってきた針の無い注射器(ゴミ箱には使用済みの針もたくさん捨ててあった)

そのくらいしかなかった、そこに父がパチンコ屋から使い古しのスマートボールの台をもらってきたのだ

これは楽しかった、オモチャと言うにはあまりにも大きな物で、しかも子供のあそびではなかったのだけど

本当に嬉しかった

 

第6位 パソコン

30歳頃に義兄の影響でパソコンを買った NECのPC6001という入門的なパソコンだった

立ち上げるとアイコン一つ無いDOS画面が出てきて、カーソルポイントが点滅しているだけ

自分でプログラムを作るのに付録のベーシックを覚えてやってみた

ランダムを使っていろいろな番地に飛ばして、その番地に書き込んである事柄を使ったゲームを楽しんだ

トランプのマークを移動させて競う競馬ゲームなんかも作った、戦争ゲームを作りたくて座標などをあれこれ

試行錯誤でやってみた

あのまま続けていればエニクスに先駆けてテレビゲームを作ったかもしれないが、子供が生まれてパソコンが

全くできなくなってしまった、15年後くらいに再びパソコンを買ったときにはWINDOWSだった、どのように使うのか

全くわからなかった、パソコンの浦島太郎になっていた、今は自由に扱えるようになったが、あの小容量のシンプルな

32k DOSパソコンが懐かしい

 

第5位  天体望遠鏡

小学生の時、父が東京の土産に4cmの屈折望遠鏡を買ってきてくれた、真っ先に月を見た、月のでこぼこが

はっきり見えて興奮した、それからは太陽の黒点観測、土星の輪、木星のガリレオ衛星、スバルなどを見て興奮ばかり

していた、高校卒業までは完全に天文少年になっていた、しかし卒業後は一度も天体望遠鏡はのぞいていない

84ミリの反射望遠鏡を買ったり、100ミリだったか120ミリだったかの反射望遠鏡を手造りしようとレンズの研磨をしたことも

あったが。

 

第4位  カラオケ

まさか楽団やオーケストラの演奏をバックに歌える時代が来るなんて夢のようだ

高校時代のバンドと違い、自分で演奏する必要も無く、どんな歌でも即座に歌えるカラオケのおかげで誰もが歌手気分を

味わえる、これがヒットせずにおかれようか、今や世界のカラオケにまで発展した大発明だ

 

第3位 乗用車

営業トラックはわが家にも昭和30年代半ばからあった、けれど贅沢品の乗用車などを自分が買えるなんて考えても見なかった

20歳の時でさえ、先輩が真っ赤なサニーに乗っているのをうらやましく思ったのだった

ところが23歳の時に家に戻って稼業を次ぐという条件の下、父にバンタイプの新車乗用車を買ってもらった、父にしてみれば

仕出し配達用に買っただけだったのだが、見事にだまされた、しかしそれ以後いろいろな乗用車を持つことができた

高級車は買ったことはないし、買えないけれどドライブに不自由はしていない、好きなところに自力でいける乗用車は

もう手放せない存在だ

 

第2位  ジュラシックパーク「コンピューターグラフィックス」

生きて動き回る恐竜をタイムマシーンに乗って見に行きたいというのが、私のかなわぬ生涯の夢だった

ところがスピルバーグは見事にリアルに動き回る恐竜たちを現代に蘇らせた

それを見たときの興奮は・・・・言葉にできない

スピノサウルスがティラノサウルスと戦う場面ではまたも失神しそうになった、CG、人類の計り知れない能力

私は気が狂いそうです。

 

第1位  テレビ

我々年代が遭遇したテレビがわが家に来た瞬間、不思議な箱 どう考えても箱の中で人間が動き回るなんて

映写機も無いのに、どこからどうやってここに映るのか、本当に考えられない出来事だったんですよ

カラーテレビを普通に見ている皆さん、いまやワンセグだ、あるいは顔を見ながらスマホで話せる

こんなのは昔の常識では絶対あり得ません

だからテレビがわが家に来たときの喜びは何よりも大きかったのです