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上杉謙信、上杉景勝の存在はなんだったのか?

2017年06月19日 10時55分16秒 | 戦国時代

日本の戦国時代後半(1550年~1615年)全国に芽生えた数多の武将群も
いよいよ強力な10数家の大名に集約された。
 いずれも弱肉強食の理にて隣接する弱者を強者が襲い、根こそぎ奪い去り、また
強者と強者が手を結んで手強い弱者を襲って分け合った、そんな動物的な戦国武将の中に上杉謙信という唯一無欲で清廉な武将がいた、ところが謙信、100戦100勝の敗戦を知らぬ強者でもあった。
 信州川中島の5度にわたる武田信玄との戦は、まさに決勝に相応しい組み合わせがベスト16でぶつかってしまった様な強豪同士の決戦であった。
 しかし戦の動機は全く異なる、甲斐の虎と呼ばれた武田信玄は父を追放し、長男を殺し信州に攻め込み片っ端から領地や住民をさらって自分の土地を増やしていった。
攻め殺した領主の妹を妾にして子を成したりもした(諏訪勝頼)
 一方謙信の方は、武田信玄に追われて逃げてきた信濃豪族を受け入れ、懇願されて奪われた土地を取り返して信濃豪族をもとの土地に返してやろうという、無償の戦であった。

 このように上杉謙信という人は戦国時代には珍しい風変わりな武将である
あまりにも清廉潔白でしかも一本気だからワンマンである、ワンマンをカリスマ性で補っている、織田信長も同じワンマン+カリスマ

 戦国時代は領土の獲得ゲームだ、なぜ領土がいるのかそれは頻繁に戦争があるからだ
戦争に勝つ度に、活躍した家来に土地や奪ってきた捕虜などを褒美に与える
ところが上杉謙信の戦争はいつも頼まれてやっている様なところがある、領土を拡大するための戦争では無く、弱きを助け強きをくじく正義の聖戦だ。
奪われた土地を取り返しても、自分の物にせず元の持ち主に返す、関東に出陣して次々と敵の城を落城させても、そこに家臣をとどまらせず越後へ引き上げるから、逃げた敵はまた戻ってきてそこを奪い返す、遠いから容易に引き返すこともできずいたちごっこだ。

 それでも戦争だから死者も出る、戦に勝っても土地が増えるわけでは無い、しかし謙信は義を果たしたことに幸福感を感じている、家臣もそうだと一方的に思っている、だから感状の紙一枚で家臣を報償する、家臣は自前の食料や家来の戦死、負傷という被害を受けているのに紙一枚ではそのまた家臣に何もやれない。
 だから大きな越後では不満を持った与力の豪族たちが離反する、織田や伊達の甘言に誘われて謙信を裏切る、特に越後北方の豪族にその傾向が多い、何しろ200kmも離れた土地なのだ。
 それでも謙信は成敗に出陣する、そして謀反軍を降参させる、信長なら逆さ磔か、一族共々焼き殺すだろう、ところが謙信は「二度と謀反を起こすな」などと言って春日山に引き上げる、領地も奪わず、地位も奪わず帰って行く、何しに来たのかわからない。
 そこが謙信の不思議さである。

 

   謙信の魅力というか、なぜこうなるの?と思うことがある
まわり中が油断できない敵ばかりの戦国時代、謙信と竜虎と言われた強者武田信玄も
雅やかな今川義元も中国の覇者毛利元就も京に上洛したことが無い。
 できるわけが無い、そもそも今川も武田も京に旗を立てるため、4万の軍を率いて行っても、とうとうたどり着けなかった。
 今川義元は僅かな信長軍に討ち取られ、信玄は病死したという。
毛利は京に行こうとも思わなかったのだろう遠すぎるし、背後の九州や山陰の尼子という敵が狙っている。
 
 ところが、京から400kmのド田舎越後に住む謙信は、なんと2度も京の地を踏んでいる、それも数千、数万の軍団など引き連れず、僅かな家臣と京に上り帝や公家と面談し、お言葉をいただき、名僧や文化人と交わり越後に難なく戻っている。
 朝廷に無礼を働く三好、松永の近畿侍を僅かな家来と懲らしめ、足利将軍から篤い信頼を得た、上級公家の一人は謙信に惚れ込んで越後まで同行して住み着いたほどだ。

 なぜ謙信は敵と戦うこと無く京まで行くことができたのだろうか?
越中富山は敵ばかり、加賀の一揆も敵だ、その先の越前朝倉家は一揆を敵としている、言わば敵の敵は味方で朝倉は謙信に好意を持っている。
それで船に乗って越前まで行ったと思われる、そこから朝倉の同盟浅井氏ともよしみを結び、浅井の旧主六角とも侵略の意思がなければ戦う理由も無く、京まで無事についたのだろう、そして京に巣くう三好、松永は謙信の威風堂々とした姿に恐れを成したと思われる
まさに謙信の無欲無心仏心とカリスマ性がこのような奇跡を二度も起こしたのだ。
 関東の味方が、北条の大軍に包囲され救援を求めてきたときも急いで越後から出陣、
そして味方の軍が揃うまで待てば落城の恐れ有りと、謙信は僅かな軍勢を伴って軍旗を先頭に、数万の北条の包囲軍の真ん中を堂々と、しかも粛々と通っていく、北条の軍勢はあっけにとられて誰一人手を出せずに入場を見送ったという伝説さえある、謙信が軍神と言われる所以だ。
 あの魔王信長さえ初めて京に入ったときは将軍足利義昭を戴いて、大軍を率いて入洛したのだった、信長さえ謙信の大胆さはまねできない、唯一秀吉が陽気バージョンで似た様な行動を度々行っている。
 家康との小牧の戦で敵味方の真ん中に一人出て行って尻を徳川型に向けて尻まくりしたとか、家康と連れションをしたとか、母親と妹を人質に出したとか、敵方の前田利家の城門前に一人で出て行って「又左(前田利家)儂じゃ藤吉郎じゃ、茶を一杯所望!門を開けよ!」というパフォーマンスは全て太閤記の読みどころだ。
戦国武将の大胆な人柄となると謙信と秀吉が東西の横綱だ。 

 謙信という人は全く殺気が無い人だったのだろう、殺気は無いのに恐ろしさを与える人
悪鬼を踏みつけ、善人には慈悲を与える、毘沙門天の生まれ変わりと言われる謙信の面目である。
 いつも春日山城の堂にこもって瞑想を続けていたという、生涯妻帯せず子も成さず
姉の息子を養子にしたが、敵だった関東北条氏との和睦の印に人質としてやってきた北条の息子までも養子として可愛がった、それなのに後継者を決めること無く突然卒中で死んだという、これが仇となって二人の養子が越後を二分して戦い、上杉景勝が勝利したが無敵の越後軍団は半分の力に衰えてしまった。

 織田信長の急激な版図拡大に危機を持って、親の代の仇敵、武田と上杉が同盟したが既に遅く1582年武田氏は滅びた、それは四方から織田軍が越後上杉を次のターゲットにした瞬間だった。

 越中から佐々軍団、信州から森軍団、上州からは滝川軍団、その後には北条家も狙っている
 北からは奥州の伊達が越後を伺い、上杉の家臣団に反旗を翻させた、
山形の最上も漁夫の利を狙う、まさに風前の灯火。

 しかし凡将と言われる上杉景勝だが運の良さでは謙信を上回っていた
織田信長が家臣の明智に殺されたのだ、これによって地方の織田軍団は総崩れ
景勝も北信濃と上州の一部を取り返した。
 さらに良いことが続く、織田軍団の内戦で勝ち上がったのは羽柴秀吉だった
この人殺しが嫌いで調略戦が得意で陽気な秀吉は、越中の敵佐々成政を降伏させるために越後側にいる上杉と手を結ぼうと動いた、景勝の参謀直江兼続も用心しながらもこの話乗るべきと進めたのでは無いだろうか。
そして佐々降伏の後、越中越後国境にそびえる上杉の最前線勝山城で秀吉と景勝は同盟を結んだ、このときまだ安定していなかった秀吉と越後一国の老舗上杉とは互角の同盟だっただろう、表情を表さず、無口だったという景勝はともかく、直江兼続は秀吉に会って安心したのでは無いだろうか、しかも秀吉の小姓兼秘書の切れ者、石田三成とは知恵者同士気が合った様だ。
 
 こうして秀吉との出会いは景勝の運気を上げた、秀吉の急速な権力上昇で家臣とはなったが、越後時代の50万石弱の領地も120万石にふくれあがり会津に移った。
これは秀吉家臣では徳川家康に次ぎ、毛利輝元と並ぶ全国二位の大きな領土を得た
しかも秀吉内閣の一級閣僚5名の一人に指名されて、まさに秀吉は景勝の福の神だった。

 しかしそれも秀吉の死と共に反転する
家康に臣従するか、石田三成に加担するか、1600年の関ヶ原の大戦はそういう選択に迫られた、日本を二つに割ってのいわば決勝戦だ
 景勝にはプライドがある、何を考えているかわからない徳川家康は虫が好かない、石田三成はどうか?  生真面目で豊臣政権に忠義を貫き、小身の大名ながら20倍もの領土を持つ最高権力者に「忠」と「真」は無いのかと詰め寄る勇気、一本気な性格は景勝にも通じる、何より三成には上杉謙信と同じ「義」の心がある。
上杉は石田三成に賭けた。

 そして敗れた、東北の地にあって、小競り合いはあったがろくな戦もしないで上杉家は敗者になった、首謀者の三成たちは捕らえられ打ち首の上さらされた。
景勝も覚悟を決めた、だが誰ぞの口添えなのか領地75%を没収されたが米沢に30万石を与えられて存続を許された。
30万石なら上位の大名の体面は保てる、ところが江戸時代がもっとも安定した元禄に赤穂浪士の事件が起こった、討たれたのは上杉家の殿様の実父吉良上野介だった。
 上杉の男子が途絶えて、上杉の姫と吉良の間にできた子を上杉家に養子縁組して入れて
上杉家を存続させたのだった。
 ところがその時、上杉家では跡継問題でごたごたがおきた、それが原因で30万石を半分幕府に召し上げられ、15万石に減らされたばかりだった、そこに赤穂浪士の事件。

 江戸にいた上杉の殿様は、実父の危機なので家来を引き連れて吉良邸に救援に行くと馬にまたがった、しかし上杉家に代々使えている家老が立ちはだかって、それを止めたのは
忠臣蔵の映画でよくある場面だ、上杉代々の家臣にとって「吉良家の私恨でお家断絶になってたまるか」という心境だったろう、こうして幕末まで上杉家は15万石の身代で存続した。
 幕府の末期には密貿易で潤った薩摩など僅かな大名以外は、ほとんど財政が逼迫していた、徳川家本体も消失した本丸の新築もできない有様だった。
上杉家も同様に大きな借金を抱えて四苦八苦していたが、養子で上杉の殿様になった上杉鷹山は名君であった、質素を軸に経済を立て直して借金を解消、しかも数万両の貯金まで作ったのだった。

 戦国から明治まで生き抜いた大名は決して多くない、したたかな者だけが生き抜くことができたのだ。
   津軽、佐竹、織田、上杉、伊達、徳川、真田、前田、池田、蜂須賀、黒田、毛利
山内、島津

 一世を風靡しながら滅び去った者は多い
    南部、芦名、最上、長野、武田、村上、北条、里見、今川、斉藤、浅井、朝倉
    六角、神戸、豊臣、松永、三好、石田、明智、長宗我部、大内、尼子、宇喜多、
    別所、大友、少弐、龍造寺、伊東、小西、菊池、柴田、波多野

   越後上杉家、会津米沢上杉家とは戦国の時代、どんな役割を果たしたのか
 謙信の時代は間違いなく主役であった、天下取りの野望を持たないのに生涯を
戦三昧で過ごした。
謙信は戦をすること自体が生き甲斐だったと思う、戦無しでは生きられない男だったのだろう、その先の天下など眼中に無く、「男だねえ謙信さん」と絶賛されることに興奮し、また嬉しかったのかも、彼はナルシストなのだろう、強い相手も見ると決着をつけたくなる剣豪タイプでもある、ボクサータイプ、とにかく戦闘大好き人間。
 謙信の戦争方法にはほとんど作戦など無かった様だ、狡猾な信玄や信長とは全く違う、自分の感だけで突き進んでいく、相手が作戦どおりの陣形を作る前に突入して破ってしまう、定石を重視する敵は、謙信に意表を突かれて混乱する
作戦がない謙信は相手の弱みを察知する嗅覚がある、そこを一気に攻めるのだ。

 こんな謙信が近くにいて迷惑したのが武田信玄と北条氏康だった、どちらも謙信が越後などにいなければ、信長や家康の台頭を許さなかったかもしれない、信長、秀吉、家康にとって謙信は幸運の神だったのだ、IFで考えれば歴史が変わったかもしれない。
 謙信は死の直前、京へ上る軍を招集していたという、これだって帝に無礼を働く信長を懲らしめる目的だけで、天下に号令しようとなんか思っていなかっただろう
だから死ななかったとしても信長を討ち取らぬ限り歴史に影響は無かっただろう。
 よくよく考えると大物相手の戦争ばかりしていた謙信だが戦に勝っても大物を一人も
殺していない。 信長は僧侶や信徒を数万単位で虐殺、今川義元、浅井、朝倉、武田、
松永などの大名、大物地方豪族を多数殺した。
 秀吉も主君織田信孝、柴田勝家 、明智光秀、北条などを攻め殺している
家康は主家の豊臣親子を責め殺し、関ヶ原で多くの大名を殺した
こう見ると謙信は異色のクリーンな戦国武将ということが立証される、キャッチ&リリース、戦は人殺しでは無くレジャー感覚だったのかね。

 一方、上杉景勝は徳川家康に敵対しながら、結果的には家康に天下を取らせた功労者という見方になっている、豊臣家を潰したい家康にとって石田三成を始めとする反徳川派を立ち上がらせる必要があった、そのために上杉征伐を考えたと言われている。
これにまんまとはまったというわけだ。
 上杉家は明治維新でも結局たいした活躍をしないで降伏している、会津が頼りにしていたにもかかわらずだ。 旧領の越後と庄内では長岡藩牧野氏、庄内藩酒井氏が徹底抗戦、官軍と五分の戦を繰り広げたのだった。

 

海にせり出しているピークが勝山城、ここで秀吉と景勝が会談したという

当時の越後上杉の最前線基地、富山方面からの敵を監視する