「盆と言うに ミミズの干涸らびて 死ぬは哀れ」
今年の暑さは予想以上で、今日も外に出るのがおっくう
それなのに一昨日の夜は久しぶりにクーラー不要で
今朝は今朝で早朝、寒くて目が覚めた
そんな極端な温度差の日々が少し続き、やはり体調がおかしくなる
父も昨日から体調を崩して医者に行って点滴を受けている
父に戦争の話を聞いた ここでも前に書いたが父に赤紙(兵隊として国に召集される通知)
が届いたのは昭和19年の9月5日、もう敗色濃く国民も何となく意気消沈し始めた頃で
先輩が出征(兵隊になって戦争に行くこと)するときは、町内の人たちが日の丸を振って誇らしげに
見送ってくれたのだが、父が出征するときには新兵3名で亀戸の香取神社に集まり
在郷軍人の老人と町内会長だかの2人だけの見送りという寂しいものであった。
持ち物と言えば家族の写真1枚と下着等々僅かな物であったという。
父は当時20歳になったばかり、そんな若者たちはほとんど大正生まれで、昭和、平成生まれの
若者とはまったく異なった行き方をしたわけだ、大正生まれの男子の15~20%が戦死したこの戦争
同じ町内でも相次いで戦地から遺骨箱が帰ってきたのを見ていただろう、そんな命がけの戦場に
否応なく国家の命令で連れて行かれる、その時の気持ちを尋ねたことがある、父の返事は
「場に引かれていく牛の心境だね・・・」と何の抑揚も無く言った
愛国心に燃えて自ら志願して戦地に向かうことを誇りに思った青年もいれば、平凡な生活に満足して
いた若者もいただろう、そんな若者は抗ったところでどうにもならない状況に、あきらめしかなかったろう
父もそんな一人だったに違いない
調布の航空隊と同居している高射砲大隊に配属されて、終戦までに父の部隊での戦死者は敵機の
地上掃射による4名だった、ところが同地にある陸軍航空隊はB-29が東京を爆撃に来る度に飛燕
戦闘機で迎撃に向かう、ハリネズミの様な機銃だらけのB-29が編隊でいるから一度に数百発の機銃弾が
飛んでくる、その中をぬっての一撃勝負、しかも1万メートルの高高度で飛燕では全力の数十パーセントしか
出せない高度なのだ、業を煮やして体当たり攻撃も作戦として採用される様になり、パイロットの戦死は
高射砲隊の比ではなかった。
父が航空兵をたまに見ることがあったけれど、およそ異次元の人たちであったという、まさに生と死が
同居していて、親鸞の歎異抄の中の一説「されば朝(あした)は紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となる」
まことにその心境であったと思われる。
今の我らは大概、死を恐れて戦争などとんでもないと思うのが大部分だが、この航空兵たちは、死の解釈など
理屈では考えてもみなかったのでは無いだろうか、目の前の使命感に燃えて毎日を戦っていたのだろう。
だから神風特攻隊として行くときには全く違った心境だったと思われる、中には「オレの様な優秀なパイロットを
むざむざ犬死にさせる様では、この戦争も長くは無い、今までどおりに闘わせてくれれば何十機も敵を撃墜
するのに」と言い捨てて逝った人もいたという話しを読んだ事がある
特攻隊は若い命を散らせたばかりでは無く、こうした誇り高きベテランのプライドも散らせたのだった。