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「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(212) 甲越 川中島血戦 39

2024年09月28日 20時40分32秒 | 甲越軍記
  甘利左衛門尉の奮戦により、劣勢の武田方は盛り返し、ついには小笠原勢信濃松本城に逃げ去り、守りを固くして 閉じこもった
いよいよ小笠原の滅亡の時が来たりと、晴信は全軍に命じて備えを作ったところに「越後勢が佐久に侵攻」との知らせが入り、晴信は小笠原攻めを後日にまわして越後勢に向かって進発した。

越中にて、長尾景虎の戦ぶりを見聞した間者の小幡弥三左衛門尉と僧大益が陣中に戻って来て報告した
「能登越中と巡って、景虎の戦ぶりを見聞してきましたが、我らとの戦とは格別に異なり、ただただ合戦を大事にして、謀りを用いて敵に勝ち、また埋伏の計を使って追ってくる敵を左右から不意打ちにて殲滅するなど軍勢の駆け引きはわが手を操るに等しく軽快であります
しかも慎み深く、弓矢を取り申され候う」と申せば、山本勘助は手を柏って申すには「景虎の勇知を感じて名将なりと申すけれども、さにあらずそれは愚かしい考えである、その理由は、景虎は、わが君の武略を恐れて強敵なりと思う故に尋常に戦っては勝てぬと、我らの堅陣を乱すことのみの武略をもっぱらとしている
されどもわが堅陣を破ることが出来ず、今度は自ら隙を作って、我らを誘い込み有無の一戦をせんという戦術を仕掛ける
景虎の心中を思うに、年少故、我らに負けても恥にならぬと思う心の内、明白なリ
近いうちに守りを無視して攻めることのみに集中した思い切った一戦を仕掛けてくるでありましょう、されども無謀に見える敵の攻撃と言えども侮れば、我らは甚大な被害を被るでありましょう
それゆえに今まで通り陣法どおりの堅陣を守って、迂闊に攻めかからぬが良策と思われます」
と申せば、晴信も勘助の深慮に満足して、「われも同じ考えである、さりとても景虎は若年と言えども古今稀なる名将である、わが相手に不足なし」と申された。

武田勢は法福寺の陣を払って、海野峠を越えて、上田を過ぎ筑摩川の近く鼠ケ宿に陣を取った。
越後勢は九月二十八日、榊表に備えを出して十月十日まで対陣して、日々足軽を出して鉄砲と矢を放っては引き上げた
あるいは先陣の足軽同士の小競り合いのみにて未だ大戦とはならない

ここに飫冨源四郎、春日源五郎の両人はむかでの指物使い番にて十月二日に飫冨兵部少輔の備えに遣いに来た折節、飫冨の先手と越後の北條丹後守の先陣が争うところに両人は飛び込んで、首二つをとって本陣に帰り、同三日も飫冨の陣に遣いに行った折、飫冨源四郎は春日源五郎囁くに「彼の木陰に敵、二、三十あり、味方の近くであればあれを襲って蹴散らそうではないか」と申せば、血気の源五郎も賛同して、たちまち敵の三十人ばかりの中に馬を乗り入れて、切りまわれば、敵は驚いて乱れて逃げ帰る
この時も首二級をとって本陣に帰る

翌四日には小山田備中の陣に遣いに出て、ついでに敵陣の斥候を行うべく敵陣近くまで行くと、それを見つけた柴田尾張守の兵が二十人ほどで攻めよ出て来た、しかし剛勇の二人はものともせず暴れまわれば、敵は恐れて自陣に逃げ帰った、その時も首一級を持ち帰る

晴信は二人の度々の手柄を賞して感状と褒美を与えたが、「そなた等の本分は各陣への使い番である、斥候は敵陣を調べるのが本分である、それゆえ本分を守って軽々しく動き回ってはならぬ」と釘を刺した。




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