6x6さんのブログに「ライフワーク」という言葉がでてきた。
影響されて、これからライフワークを探そう(始めよう)とコメントを送ったけれど、よくよく考えてみたら一年や二年やってみたってそれはライフワークとは言えないんじゃないだろうか? と思った。
「人生の大半」とまでは言わないが、自分の趣味、研究、好きなことを半生かけて続けて極めることが『ライフワーク』なんじゃないだろうか。
とうぜん多くの時間と、労力と資金をかけて時が過ぎるほどにデーターや成果は増えていき、そのうちそれらの整理もライフワークの一部になっていく。
日数では無く、長い年月一筋に究極を求めて行くことがライフワークの醍醐味かな。
72歳から(なにをやろうか?)なんて考えて90歳までやっても、それは『ライフワーク』とは言えまい、どちらかと言えば終活の一部であろう。
ではもうダメなのか? と考えてみた。 自分が人生の大半をかけてやってきたことと言えば『調理』だ、だがそれはライフワークでは無い、生活のための仕事だ。
でも・・・急に思いついた。 ブログでも何度か掲載して事がある
私は20代から我が家のルーツを知りたいと思っていた、その原因は祖父(2)=父の血縁の父、戸籍上他人(婿養子で、父が生まれて二年くらいで離婚して、新たな世帯を持った人、姓も異なる)
祖父(2)は1900年頃の生まれで87歳で亡くなった。 私が今住んでいる町で生まれて、茨城県古河で我が家に婿入りして、離婚後東京に出て新世帯を持って後に故郷に戻った。
父の話では離婚の原因は労働が嫌いで定職に就かず、理想ばかり言うが実行したことが無いので、爺さんが追い出したのだという。
ただ祖父(2)の親戚が言うには、「家が貧乏で無かったら良い学校に入って学者くらいにはなれただろう」というくらい子供の時から頭は良かったらしい。
戦後地元に帰ってからはリヤカーを引いて今で言う『廃品回収業』で細々と生活をしていたが、本人は回収した本を読むのが楽しみだった。
草に埋もれた地元の山の中の古道を探して、石碑を見つけて石文を書き写したりもしていたようだ、肉体労働より研究が好きな人だったようだ。
父は戦争で家族も家も失って昭和23年に東京に見切りをつけて祖父(2)を頼りに今の町にやってきたが祖父(2)=父の父は頼りになるような人では無かった。
けれど家は近かったのでたまに祖父(2)はやってきて、そのうち父の家系の歴史を書いた一枚の紙を持ってきて置いていった。
父は一貫して祖父(2)を軽蔑していたから、その紙を一瞥しただけで仏壇の引き出しに入れたまま忘れていた、それを私が高校生の頃に見つけたのだ。
歴史少年の私は、その内容に釘付けになった、父に聞いてみたら「おまえの爺さんは誇大妄想だ、90%嘘だ」と問題にしなかった。
私も父と祖父(2)を比べれば100%父が正しいと思ったから、そこで終わった・・・でもいつも気にはしていたのだ。
その紙には鎌倉時代の祖先の逸話が詳しく書かれていた、それから時代が自分が婿入りした大正末期の様子が少し書いてあった。
私が興味を持ったのは、その鎌倉時代の部分だ、あまりにも立派な家系だったからだ、逸話も面白い。
大正末期のことは父の方が詳しく、鎌倉時代はともかくその家の事は父も知っていて、本家の旦那と数回会ったことがあると言ったので、その家系が栃木県にあるのは不動の事実だった。
一度は、その地を訪ねたいという気持ちが起きたのだ、だが栃木県はあまりにも遠い、ずっと夢のままだった。
時は過ぎてネット時代の始まり、わたしは30歳のとき初めてNEC PC6001と言う初歩的なDOSパソコンを買った。
まだネット環境は無かった、ネット環境になったのは50歳くらいの時だ、それで例の紙に出てきた人物や神社、寺院、地名をキーワードに調べたらほとんど紙に書いてあるとおりだった。
「100%嘘」が「90%事実」にひっくり返った、それでそれらのデーターをノートやパソコンにまとめ始め、年表を作り簡単な小説も書いてみた。
それから父に古河での生活、家族関係、東京でのことなどを事ある毎に聞いた
父も図を書いたりして懐かしそうにいろいろ教えてくれた、それでファイル5冊ほどのデーターが集まった。
それを整理しながら空想も交えて年表、小説を書くようになった。 ネットは50歳頃からだが我が家の歴史を書き始めたのは40代からだ。
ほとんど知ったつもりでいた、だが父は自分を育てた義理の祖父の出自がわからず、しかも興味を持っていた。
それで私は古河市役所に除籍謄本を請求して受け取った、そこには父の義理の祖父の名前が出てきて新たな事実がわかった。
親切に古河市役所担当者から義理の祖父のことは本籍のある常陸大宮市に問い合わせてみてくださいと教えてくれた。
それも取得した、それで義理の祖父の生まれから我が家と関係するまでの人生のあらましがわかった。
東京時代の人物は東京中央区役所でわかった、義理の祖父が亡くなった日の状況も警察官の言葉で書いてあった。
40代、50代、60代でその時のデーターを元に小説を書いた、やはりデーターが増える毎に正確性が増していき、修正が加えられた。
明治時代のわがルーツの人々の生死、生活も明らかになってきた。
そうなるとその地を見たくなってくる、東京亀戸、浅草象潟、上野御徒町、不忍池、本所、錦糸公園、東京は簡単に行けるから良いが、調布には行ったことがない。
古河には三回行った、父が住んでいた跡地も歩き回って見つけた、祖祖母が働いていた遊水池下の工場跡、父が子供の時遊んだ神社なども訪ねた。
そして3~4年前ついにルーツの源、栃木県黒羽に行くことが出来た、感無量なり。 だが時間がなさ過ぎた、あの紙の神社、寺院を訪ねるにはどうしても3泊は必要だ、残務整理が終わったとき、こんどこそ満足いくまで歩き回ろうと思う。
そして思った「これが私のライフワークだった」と。
この兜は祖父(2)から受け継いだもので、祖父(2)曰く、祖父(2)の家系の先祖が古河公方の士の時、北条氏康に破れ命からがら上州~越後に逃げ落ちたときかぶっていた伝、兜だという
果たして誠であろうか? 95%は怪しいと思うが。