彼らが、この寺に駆け込んだのは、「答えを教えてもらえる、答えを発見できる」という期待をもったからに違いない。
だが日常には無い修行、我慢、何も見えて来ない座禅。
何も得ぬまま山を下りる若者も少なくない。
下りた者は、禅修行や住持から答えをもらえぬことに絶望したのだ。
それは彼らが初歩の「気づき」まで達することができなかったからだ。 まして凡夫が1年間で悟りにたどり着くはずがない。「悟り」は禅の高僧でさえ生涯をかけ、命がけの修行でようやく得るほどに難しく、更に奥深いものなのだ。
得度を得てさえ自利で終わる僧が多い世界で、世俗に染まって生きてきた凡夫が、「他力本願」に答えがないことに気づいただけでも素晴らしい躍進なのだ。
ここから、ようやく本当の禅修行が始まる。
最初は俗世への未練を断ち切る事から始まる、いわゆる出家だ。
あらゆる欲は人を立ち止まらせ、手招きして誘い込む。
甘美、快美の誘惑が俗世にはびこり、凡夫の心根まで腐らせる。
最も醜いのは独占欲、金銭欲、それらは自利誘導のため徒党を組み、他を襲い、傷つけ奪う。
心優しき者は絶望し、この世界に生まれた意味、生きる意味を見失ない彷徨う。
彼らに必要なのは、ただ一つ「安心とやすらぎ」なのだ。
そして彼は、その入口にようやく立ち上がった。
続く
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