武田信玄は小笠原を滅ぼして武威はますます高まり、謙信が信濃に攻め寄せた時の要害として、信州川中島の内、清野の館に城を築いた
山本勘助が縄張りをして僅か八十余日で普請を終わらせて、これを海津の城と名付けた。
小山田備中守昌辰が城主となり、二の曲輪に市川梅印与左衛門尉を入れ、小室の城には春日弾正を置いた。
同年極月、甲州にある浄土宗法を説いて人に勧めれば、法華信者の多くも浄土宗に帰依した
これにより法華宗の僧徒は大いに怒り、同二日には浄土宗の寺に押し掛けて宗論に及ぶ
原美濃守虎胤は法華宗の宗徒であり法華宗に肩入れして、浄土宗の寺を焼きはらい僧の衣を脱がせて追い払う
信玄は、これを聞くと大いに怒り、「その罪軽からず」と言えども、数回にわたって忠義の戦に励み手柄を立てる美濃守を死罪に問えず、所領を没収して、馬場民部少輔、内藤修理正、飫冨兵部少輔に護送させて相州小田原に送った
北條左京太夫氏康は弓矢の知識を得たと大いに喜んで、原を召し抱えて厚遇した。
天文二十三年、北條氏康は、今川義元と仲たがいして合戦に及んだ
義元は尾張の織田上総介とも度々戦に及んでいたので、相州、尾州の東西から敵を受けて難儀していたので、甲州の武田信玄に助成を頼んだ。
信玄は三月、これを受けて軍勢を富士の大宮通から厚原に打って出る
加島の柳島に本陣を置く
北條氏康は、嫡子氏政と共に出陣した、先陣の松田尾張守、笠原能登守、北條常陸介、志水、大道寺らを率いて天香久山に旗本を置き池熱の川端に本陣を据える。
甲州勢は先陣に馬場民部少輔、小山田弥三郎の組
勇将の十五騎、足軽七十五人を合わせて七百余人、真っ先に備える
両軍、たちまち火花を散らして縦横無尽に駆けては打ちあう
ここに甲州を追われた原美濃守は、小田原にありて北條に仕えていたが、紺糸の鎧に半月の経五尺ばかりなる前立てうちたる冑の真向に、原美濃守平虎胤入道清岩と象嵌を入れたるを猪首に着てまだらの馬に乗り馬を歩ませる
小幡山城入道の隊に向かって、にっこりと打ち笑い、そちらへは攻め寄せず、小山田弥三郎信茂の陣に向かって切って入る
小山田は、これを見て「あれなるはいかにも原美濃守に相違なし、馬上の骨柄、鎧着の見事さ、備え表への潮合といい、まことに天晴なる勇将なり
誰ぞ見習って高名せよ」と言えども、誰一人として、原に馬を向ける者がなかった
小山田に借り陣をしていた進藤何某という浪人は高名を表さんと、一騎駆にて原美濃守に名乗りを上げて撃って懸かる
美濃守はニコっと笑い、「やさしき進藤が振る舞いかな、閻魔の廟に訴えよ」と太刀を抜いて打ってかかり、受つ流しつつ打ちあうに美濃守は渾身の一撃を進藤の冑の吹き返しから首の骨にかけてしたたかに切り入れる
さすがは進藤、この傷にも耐えて弱りながらも死に物狂いで美濃守に切りかかるのを美濃守は二撃、三撃と撃てば、進藤はたまらず落馬した
原に続く武州の住人、太田源三郎は進藤の首を掻かんと馬から飛び降りるのを原は声をかけ「この者は甲州にて我が元へも度々出入りした者である、命あるならばそのままにして助けるべし」
二人は馬を並べて、早々と引き上げれば、その姿は天晴一騎当千の勇士と見えたり。
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