神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

ミニ門松教室

2024年12月22日 21時51分12秒 | yottin日記
 今日は仲間7人でミニ門松教室を開催した
一般参加者、男性1、女性19、講師はガーディナーの男性にお願いした
最高齢の参加者は86歳、講師から門松のうんちくあれこれを教えてもらい、「なるほど」という知識も得た
ミニ門松作りの講座は2回目だが、私は初参加
今回は主催者側でやったので、結構気を遣ったりもした
日頃は一人でいることが多いので、こうしていろんな人と会うのは楽しい
喜んでいたいただき、やりがいがあった。

私が作ったミニ門松

夕方4時から忘年会を兼ねて反省会、久しぶりに二次会も行った
まだまだ安心できない体なので、焼酎の水割り3杯くらいでアルコールは辞めた
カラオケを歌うのも久しぶり、2曲でやめた
二次会のスナックでも馴染みの人たちに出会えて楽しかった
21時に帰宅した。



カート家猫の第一歩

2024年12月21日 19時37分37秒 | フーテンの寅ねこ わんにゃん
 カート(またはフーテンの寅ネコ、ある時は銀ちゃん)がついに頭や体を撫でさせた。
ちょっと「びくっ」としたが逃げもせずされるがままにしていた、場所によっては満足そうな表情も
外猫生活推定8年で初めて人間に撫でられたと思われる

尾が短かったおかげで死ぬ寸前だったところを救われたカート、5年くらい前の事

カートはまだ完全に気を許したわけではないだろう
ただ最近は私の気配を感じても全く意識しなくなった、それでも5回に一回は逃げ腰になることもあるが、11月7日に我が家に来て20日から私の部屋の隣の部屋で住み込んで面倒を私が見ることになった
一か月ほど、お隣さん的に面倒見て来たのがカートもわかったのだろう
この間、家族でも私としか会っていない、女房殿も息子も警戒されているから顔を見ると隠れる
正月過ぎに、階下にも下りられるようになるので、いよいよ本当の家猫の2ステップめが始まる

こうしたの猫生活しかしらない猫を手なづけるには根気が必要だ、無視しながら注意ぶかく見守る、そして家族の看病をするみたいに小まめに面倒を見るしかない、物を持って近づけば、大きな音を立てれば、大声を出せば、手を振り上げれば、これですべてが一から出直し
優しそうなふりをして近づいてもだめ、誠心誠意をもって無視する
ちょっと矛盾しているが、それが正しい、猫に(こいつは、もしかして安全なのかなあ)と思わせれば最初の成功だ
向こうから近づいてくるようになれば最終形、その日がいつになるかまだ分からない。

腎臓病のカート 保護されなければ今年の冬を外で越えられたかどうか?




久しぶりの晴れ間に

2024年12月20日 16時34分38秒 | yottin日記
 長期予報を見ると12月へ終わった日も含めて、ほとんどが曇り、雨、雪マーク
これからも30日までに半日だけ🌤マークの日は2日だけ
⛄マークがやたら多い
そんな中で今日は朝から予想外の陽がさした、カートも喜んで猫ベランダに上がった
私もこうはしていられない、いつ何時、雨、雪に変わるかもしれないので溜めていたいろんなことを晴れの間にやってしまおう。

ということで銀行回り、郵便局へ手紙出しと年賀状を買いに、公共料金の支払いにコンビニへ、これを散歩と一緒にやってしまおうというわけだ
その前に大根の残りを畑から抜いて、苺を雪を被らないようにマルチがけして、猫のドーナツベッドの洗濯などやることが多い

今年は年賀状は10枚の予定、友達にはグループラインで「あけおめ」で一斉に出してしまうから簡単
昔と比べて人情だとか友情だとか、礼儀だとかそういう浪花節は敬遠されるようになったしね、蛇年だからじゃないが「ヘビー」なんていわれかねない
これも時の流れ、高齢者も従うしかない
なんちゃらハラスメントが目を光らせている時代、どこでハラスメントを言ってしまうかわからないから流行に身を任せて口をつぐむのが一番安全

公共料金は面倒だけど払い込み用紙でやっている、口座引き落としは年金暮らしになってからは保険料、電話料、wowow、NHKだけ
まあへそ曲がりと言えば、そうかもしれない。

晴れれば何でもできる、外出できるのがありがたい
12月はほとんど家に閉じこもって、猫の世話とテレビ、youtube、ブログ、ご飯のおかず作り、たまにリースを作って。 畑はお終いだし
体の状態が来月の検査までわからないので、感染症にかからないように極力外出も控えている。

歳が明ければ太陽も顔を出すだろうか? 今年は大雪だと11月から言っている
そんなのは大いに外れてもらいたいもんだ。






小学校6年生の文集

2024年12月19日 21時07分59秒 | 雑記
 外はパウダーを撒いたように薄く白い世界が広がった
11月末から今日までずっと雨、雪、曇りの灰色の世界、晴天はわずか1日半
去年と比べてもちょっと異常な天候だ、体もなにもかもしけっぽい。

とうとう認知症検査の通知が来た、来年は75歳の免許書き換えだからだ
何よりもその対象年齢になったことが驚きだ、まさか75とはね
ちょっと前までの75歳のイメージはずばり老人だったけど、なってみるとそんな気がしない、だけど去年は温泉で他人の子供に「おじいちゃんが来たよ」と言われたからなあ、まちがいなく老人なんだ
ただ、今は長生きの時代だから75歳は高齢者の中では若いと言われれば若い
ゴルフだって(私はやめたが)バリバリやっているし、いろんなところに出ていくし、私も車の運転なら1日300kmは平気だし
それに80代、90代でも元気な人が大勢いるので、70代ははなたれ小僧なんてよく言われる
今朝も新聞のお悔やみ欄を見たら106歳なんて人もいたから、75なんてほんとはなたれ小僧か・・・

でもねえ、足腰が少しずつだるくなったり、痛くなったりしてきて、今はまた正座が出来なくなっている
歩くには不自由はないのだけどね、どこかどこかが悪くなっていくのは否めない

今日はね、小学校6年生の時の文集を引っ張り出して読んでいました
62年前です、物持ちが良いのが私の特技といいましょうか
人の心の中と言うのはわからないものですが、作文を読むと(ああ、この人にも心や感情があるんだ)と思いますね
おかしな考えですが、モテてモテて困るような美人同級生とか、ちょっとお高く留まっているのだとか、あるいは片思いしたあの子なんかの心の内を見ることができるんですね、作文は
中学時代にちょっと憧れていた女の子は洋画ファンで、私もそうだったから話したいと思ったけど、プライド高そうで近寄りがたく話しかけれなかった
眉毛が濃くて目がぱっちりしていて、えくぼがあってメキシコの少女みたいな雰囲気の子だった
でも今日、その子の作文を読んだら、「私は一年生の時、臆病者で隣の席に座った子にいじめられるような気がして逃げ出したくなった、自転車や自動車が怖くて道路で泣いてみんなに見られて恥ずかしかった」なんて書いてある
まあ小学校一年生の時だからなあ、中学生の時はそんな感じはなかったが、昼休みはいつも独りで月間スクリーンを読んでいた。
小学時代にしろ、すこし心の中を見た気分で今になってもほのぼのする、もう60年以上顔をみてないんだなあ、どこでどうしているのかなあ?
などと、昨日まで何も考えていなかったのに、今さら思い出して懐かしがっている。





甲越軍記~列戦功記序 信玄、謙信 川中島の大会戦 最終回

2024年12月19日 11時49分47秒 | 甲越軍記
通算278話

すでに上杉方の敗北は定かなり、大将上杉謙信も高梨山の方に逃れていくのを、いよいよ勢い増して武田の精兵は逃げ遅れる越兵を討ち取り、なおも「謙信は高梨山へ逃れていくなり、どこまでも追って謙信の首を得て手柄とせよ」などと言いながら犀川を越えるところに
後の方に一流の旗を川風になびかせて、其の勢およそ一千騎、上杉相伝の龍の丸の備えに押し立てて一隊きぜんと現れる。

遮る武田勢をものともせず、筑摩川のむこうに備えたる信玄の本陣に向かって押し來る
武田の諸兵あっけにとられ「すは高梨山へ逃れし謙信はおとりであったか、謙信は稀代の謀将なり、賢くも後陣に留まり、御旗本に不意を打ち最後の勝負をつけると見たり、御大将の備えこそ危うきなり」と
犀川を越えて謙信を追っていた武田勢は一斉に馬を返し、筑摩川の信玄本陣へとかけ寄せる。

信玄は本陣にあって少しも騒がず、これらの一部始終を見ていたが「今朝、わが几前に打ち込んだ者こそ、まぎれもなき謙信なり、原大隅に打たれて逃げ帰った謙信が敗兵を集めて再び攻め寄せてくるなどあり得ぬ
今、予の陣に向かってくるは謙信にあらず、あの軍勢には必死の勇威は見えるけれど、大将の気配見えず
察するに、あれこそは上杉が秘するところの丸龍の備えであろう、味方の眼を迷わせて謙信を無事に落とさんとする上杉忠義の者の仕業なり
甘粕近江か宇佐美駿河のいずれかであろう
彼らは忠義一徹、命を投げ出して主謙信を助けんと欲すなり、勇士は誰もがかくのごとくありたいもの
敵ながら感ずるに余りあり、我らは既に十分の勝を得た、なんぞ心残りあろうや、かの勢、帰らば帰らせよ」と言って、ただちに太郎義信の陣へ使いをおくり「急ぎ広瀬を渡り、備えを立てるべし」
しかし義信は血気にはやり「敵を眼前に置きながら、むざむざとこれを見送る法のあるべきや」と信玄の命を承服せず
信玄、ふたたび、みたび使者を送るが義信は納得せず、これまた使者を本陣に送る、丸備えの次第に近づくのを見て、信玄は筑摩川を渡って三丁ほど下がって陣を敷く
すでに丸備えの主将が、上杉勢随一の剛将甘粕近江守であることがわかった
群がる敵の中を打ち払い、追い払いながら信玄にむかえども、すでに信玄は川を越えて堅い陣形で備えているのを見て甘粕もこれまでと思い、筑摩川にそって北へと下がりゆく。

静々とそして堂々と引き行く姿は傍らに敵を置くとも見えず
この時、高坂弾正、内藤修理、原昌勝らは信玄から兵をまとめよの命を受けて、散った味方を集めていたが、甘粕の傍若無人の形勢を見て「それ逃すな」と一斉に甘粕勢めがけて駆けだした
我先にと迫り来る敵に、甘粕は少しも慌てず兵を左右に分かち、受けて立つ
甘粕勢より白き陣羽織の騎馬武者三騎現れ、追い來る武田勢を突き伏せ突き伏せて殿の働き、まことに見事なリ
甲兵からさえも「天晴」の声揚るほどの働き、ここに小幡織部正の嫡子、又兵衛尉、今年二十八歳、武勇絶倫の若武者、一騎にて三騎に突きかかり、三方から突きかかる敵に二丁ばかりの間に二騎を突き伏せたり
されども敵も手練れの者なれば、又兵衛も三か所の手傷を負う
敵の残る一騎ははや三丁ほど逃れて行くのを、又兵衛槍を杖としてなおも追いかけるが甚だ危うき
そこに又兵衛の郎党熊井孫四郎がやって来て、「御手こそ大事なれ、某が行って彼の武者を討ち取なり」と駆け出して追いつき
「我主人の名代なり、汝が首を受けにまいった」と言えば、武者は大いに怒り「出過ぎたる小者かな」と槍を繰り出す
熊井はこれを受けて、ねじりまわして突き伏せ、敵の首を獲り又兵衛に首を差し出した。
小幡は大いに喜び、首を持って本陣にはいり信玄これを見聞する
馬場、飫冨、甘利これらの一切を見届けており、詳しく信玄に言上する
信玄は感心して、父虎盛同様に采配を許す、感状に太刀を添えて与える

甘粕近江は、なおも追い來る敵と渡り合い千騎の味方も今や従う者十三騎となり、ようやく犀川を越える
ここで落ち來る臣下を集めて三百騎となる
近江守はその三百騎で川岸に陣を敷き「武田勢来たらばこい、信玄の首掻き切って持ち帰ろうぞ」とうそぶき、近隣の村を放火して回る
甘粕はここに単独で僅か三百の勢で居座っていたが、武田勢が引き上げたので、ようやく善光寺目指して甘粕も引き上げた
越後勢は敗兵をまとめて龍の丸の陣を敷いて越後へと軍旗をあげ、威風堂々と引き上げた
甘粕近江守の見事なる殿軍の姿を、上杉も武田も「萬夫無富の兵とはまさに是を言う」と褒め称えた。

武田勢が討ち取った上杉方の首は三千百余級なれど、上杉方が得た武田方の首も二千八百余級と言う、その数については諸説あり定かではない。

                           終わり

*列戦功記は、川中島の終盤戦からはじまりであるから、物語としてはまだ前編の巻一が終わったばかりである
列戦功記は前編十二巻、後編十二巻で編成されている。

おまけ
甘粕近江守は昭和の戦争前、満州で暗躍して「満州の黒幕」とも言われた甘粕正彦憲兵大尉の祖先です(大杉事件に関わったという)
甘粕大尉の子孫もまた、日本の経済界や政界に名を残しました。
                    
                      






越の国から信州へ③ 富山から長野へ(18号経由)

2024年12月18日 19時18分37秒 | ドライブ
 3本目のルートは雪と夜桜の名所、越後高田経由の国道18号ルート
富山からすべて国道経由で行ってみる
富山市は富山県庁所在地で、金沢の加賀百万石の分家、前田家の居城
人口40万人
ここからはホタルイカが有名な滑川市、蜃気楼とカニの魚津市、名水と黒部峡谷&宇奈月温泉、YKKの黒部市、タラ汁が有名な越中宮崎とほぼ10km間隔で続く国道8号は新潟県に入る。

新潟県最初の町は「一つ家 遊女も寝たり萩と月」松尾芭蕉の句が残る市振(いちぶり)。そして天下の険「親不知」(おやしらず)
セメントの町、青海(おうみ)、ひすいの町糸魚川(いといがわ)、大の里の母校、海洋高校がある能生(のう)はズワイガニで有名
知らぬ人には読みづらい地名が続く
県境から1時間少々で直江津に到着、ここからは佐渡へカーフェリーが行く
直江津からは加賀街道、旧18号、バイパスの山麓線、上越インター直結の18号バイパスの4路線が長野方面に向かう

加賀街道は一番西にある、加賀の殿さまが参勤交代で通ったであろう松並木が僅かに面影を残す
そこから間もなく上杉謙信の居城、春日山城址が右手に見えてくる、林泉寺もある
この道路は間もなく山麓線に合流する。

山麓線に合流すると間もなく右手に上越教育大学が見える
このあたりは広々と開けて左右に飲食店など様々な店がある
やがて右手に上信道の高田インター入り口が見えてくる
そこからは平野の中を走って、やがて旧18号、18号バイパスと合流して1本になる

旧18号は昔からの店、病院、高田駅入り口などが次々と出てきて町の雰囲気である、左には江戸時代の高田城址が見えてくる
高田城址は桜の名所で、特に夜桜は日本三大夜桜と言われる
また時期には蓮の花が、お濠一面に咲き誇る
高田は昔から雪が多く、花街も盛んで冬の風情もある、雁木通りも所々に残るが、中心部はアーケードになった

18号バイパスは高田平野の中を走るが、今は右手側は大きな商業団地的なものが間隔を開けて幾つもできて賑やかである
やがて上越市から妙高市に入ると18号の左手に市街地が広がり、国道292号が長野県飯山市に続く

18号は間もなく市街地を抜けて平野部に入り、新井道の駅が現れる
ここは道の駅の中でも巨大で、飲食店が並び、ホテルもある
上信道の新井SA(スマートインターにもなっている)にもなっていて、どちらからでも利用できる
ここから先は緩やかな上りになって豪雪地帯の赤倉、妙高へと続いていく
高原や別荘地、スキー場、ゴルフ場、温泉の看板が道路の左右に次々と現れる
そして右手に雄大な妙高山が見えてくる
そこを過ぎれば間もなく長野県に入る、長い緩やかにカーブする橋の中間が県境になっている

新潟県の妙高高原からはじまり、長野県へと入って約50kmにわたり高原銀座の様相だ
黒姫高原、斑尾高原、飯綱高原、飯綱東高原、戸隠高原、光が原高原、笹ヶ峰高原、北志賀高原、群馬県へ行く志賀高原、1000~2500mの高原が続く

長野県に入っても148号の大町市付近のように平野が広がることはない
あいかわらず谷あいを国道は進んでいく、ただし148号の姫川渓谷のような断崖の荒々しさはない、ゆったりとした安心感ある山峡だ
長野県初めの町は信濃町、左手に野尻湖、右手に黒姫山が見える
野尻湖は旧跡時代(15000年前あたり)の人類の痕跡が確認され、ここにナウマンゾウが住んでいたこともナウマン博士の研究で分かっている
それらを開設する博物館がある、また夏から秋の野尻湖は避暑地のレジャーでにぎわう
またここは俳人小林一茶のホームタウンでもある、蕎麦とトウモロコシのうまいところでもある。
戸隠高原については何度もこのブログで紹介している

平野部は少ないがなだらかな高地を抜けていく道路が増えてくる
信濃町、隣の牟礼地区から長野市内に入る道路は多い、また信濃町から南東の飯山市へ行く道も何本かある
いずれも信州らしさを味わえる道路ばかりだ
一番西側が戸隠高原を通ってバードラインから善光寺へ抜ける山道
次が飯綱高原から浅川ループラインに出る道
次が国道18号及び並行する上信道、18号は牟礼から善光寺口へ抜けていく近道もある
18号は豊野から一気に長野盆地に入っていき、そこからは善光寺平が開ける
初冬にはりんご一色になる
18号の東には千曲川を越えて国道403号が飯山から中野、小布施、須坂のフルーツラインを貫いて南長野へと出る
ここは真田家の松代町、川中島決戦の舞台でもある。

長野市は長野県庁所在地、人口は36万で富山市よりやや少ない
長野県では松本市と主役を争っている
なんといっても有名なのは善光寺、長野市は門前町、松本市は城下町として栄えた
長野県の地理的には、県庁の長野市は北に寄りすぎている、松本市は長野県の真ん中にある
これは新潟県とも似ている、県庁の新潟市は港で栄えた商業の町だが北に偏りすぎている、第二の都市長岡市は県の中央にあり、関東にも近い城下町
長野県は松本市、新潟県は長岡市に県庁があった方が、広い全県的には便利だと思うがどうして北に偏る町が県庁になっているのか?
長野県の面積は全国4位、新潟県は全国5位でそれぞれ東京都の約5倍、大阪府の7倍である
広いので長野県では最南の飯田市から長野市までは160km以上、新潟県では最西の糸魚川市から新潟市まで170kmととても遠い。

                        おわり






「列戦功記」を現代仕様で書いてみた(4) 甲越 川中島血戦 103

2024年12月18日 05時15分49秒 | 甲越軍記
甲越軍記より277話

今や上杉勢は倍する敵に前後から追いまくられて、心は勇猛に働けども今暁よりの苦戦に疲れた身、一方は新手の正兵一万二千を加えた二万の兵
太刀は折れ、槍はたわみ、大川駿河ら名だたる勇士、七転八倒して討ち死にする
 
上杉の無双の勇士も痛手を受けて引くともなしに跡下がれば、勢いに乗った武田兵は当たるを幸いに殺しまわる、越兵は散々に乱れて総敗軍となり、犀川のほうに雪崩うって逃げてゆく
水に溺れる兵士も数知れず、謙信は馬上にキッと見定めて「戦ももはやこれまで」と迫る敵十三騎を斬り落とし、この早業は人とは思えず敵は恐れて近寄る者なし

謙信、犀川に馬を乗り入れたるを見て、謙信の神業知らぬ新たなる甲兵は一斉に「あれなるは敵の大将上杉謙信に間違いなし、討ち取って手柄とすべし」と一斉にあとを追う
これを見て「スワ御大将の危急なり」と宇野左馬助、和田貴兵衛、打ち合う敵を捨てて謙信の方に馬を走らせる
岸辺に至りて敵を防ぐ間に、謙信ははや対岸に上がって味方の次々に渡り来るを待つ

これを見て長坂入道釣閑の手勢、そこかしこから川を渡って謙信らを取り囲む
謙信は少しも騒がず、三尺六寸の小豆長光の太刀を振りかざし、四方八面に切り伏せて近寄る者は蹴倒し、荒れに荒れて猛勇を振るえば、またもや敵は恐れて近寄る者なし
されど謙信の愛馬放生月毛も朝からの戦に傷を負い、疲れ果てついに立ちすくんで動かざれば、これを見て宇野左馬助、自分の馬に謙信を乗せ、自分は徒歩となって和田貴兵衛とただ二人で謙信の左右に従い高梨山へと引き下がるところ、長坂の兵はなおも追いかけてくるのを宇野左馬助は取って返し、小高き丘にてこれを遮り、奮闘の末に討死する
その隙に謙信は和田喜兵衛を伴って高梨山にかかり静々と引き取られる

長坂の兵士は謙信を討ち漏らしたが、放生月毛の名馬を引き連れて、「これぞ越後の大将、謙信の乗馬なり、追い打ちして奪い取ったり」と声高々に叫んで味方の陣に引き入る。

人生と旅

2024年12月17日 06時14分18秒 | ライフスタイル
 少年時代、青春時代には未来に向けて様々に夢を持つ
だが人生は思いもしない方向へと動いていくことが多い
そんな中で若い日の夢を人生設計通りに進めていく人もままある
そんな人は人並外れて意志が強固な人か、やり通せるだけのバックボーン(人脈や財産)がある人か、才能面で天才、秀才の類、あるいは運が良い人なんだろう

私も含めて大概の人は、子供の時の夢と違う方向に流れていく
夢を砕く様々な難関に出会って、川の流れが大岩の出現で方向を変えていくように、人生もまた変わっていく
時には二股、三股の流れに出会って迷うこともある
夢と現実が変わるのはなにも悪い方向ばかりとは限らない、何割かの人は夢以上の高見に到達する
運や人脈や先を見る才能に恵まれた人、行動力、勇気、判断力に恵まれた人

人はともあれ、私はおそらく自我が強いくせに、人生はお気楽に考えた
高校に入った時点で進む方向は決まっていた、それは自力でなく他力本願だった、今の私の宗教観に一致する
いろいろ考えて働いたと思うが、結局は時代の流れに流れていただけ
それでも昭和と言う時代は大きなうねりで、私を飲み込んで流れて行った
ただ流れているだけで、それなりに豊かな人生を歩むことが出来た
だが裏腹に苦しみも楽しみと同じ数だけやって来た
いちいち苦しみを今さら書き連ねるのも野暮なこと、楽を書き連ねるのはアホなこと、自分の胸の内にとどめるが良い

今は気が付けば74歳の半ば、60過ぎてからは1年が5年の速さで過ぎていく
これは同年代の誰もが感じているだろう
20歳までは長かった、早く20歳になりたくて、なりたくて仕方なかったが
仕事を辞めたのが70歳のあたりだった、それまでは慌ただしく、目まぐるしい毎日だった
突然辞めたので、最初の一年間は何をどうすればよいのかわからず、そのくせ頭だけは目まぐるしく動いていた
二年目からはじめて自分の現状を受け容れる余裕が出来て、人生で初めて自力でやりたいことを定めることが出来た
但し運命についてはますます他力本願を受け容れた、それが一番気楽だからだ
運命には抗わない、(神様)にすべてを任せておけば楽に生きられる
その中で、趣味などは自分がやりたいことをやりたいようにやればよい
ここまで他力にする必要はない

松尾芭蕉、魯山人、弥次喜多、旅をした
人間は仕事を離れると旅をしたくなる、同じパターンの繰り返しの日々の生活に飽きると旅をしたくなる
私もそれを感じて、いろいろ計画を立てたが、まさかの入院などがあって、計画はもろくもとん挫した

行動力がある人間と、そうでない人間がいる
私は結局後者の素質に恵まれた人間だったのだろう、いつも夢ばかり見て楽しんでいる
体調が少し良くなったら、今度は野ネコを家で面倒見るという思いがけないことがおこり、これも予定外の人生だ
これでまた一週間とかの旅行が不可能になった・・愚図な人間とはこういうものだ
それでまた考え直して、80歳以降こそ「こんどこそ、思い通りの旅をしよう」などと考える、先送り先送りの人生だ
また80には80の何かが起きるのだろう、先のことなど今さら考えても仕方がない
だが、先のことを考えるのは楽しい、考えていることで心はすでに旅をしているのだ。






「列戦功記」を現代仕様で書いてみた(3) 甲越 川中島血戦 102

2024年12月16日 19時15分35秒 | 甲越軍記
甲越軍記より276話

武田義信の縦横無尽の戦ぶりを見て、大将謙信は「憎き小冠者め、いざ謙信が一手の下に冥土へ送ってやろう」と上杉重代の波の平行安の薙刀を追い取り、近寄る敵を薙ぎ切り、刎ね散らす形勢は火雷神の荒れたるが如し
怖れて寄り付く者なし、太郎義信これを見止めて「得たり謙信、我行くまでそこを引くことなかれ」と喚いて血に染みたる太刀を真向にかざして、馬を飛ばして乗りつける。

越後方の勇士、千坂内膳、市川主鈴、和田式部、永井源四郎、大川駿河、荒川伊豆、宇野左馬助、中條越前、竹俣三河、稲葉彦六、「大将の御大事このときなり、義を知り、忠を思う者は、ここを墳土と定めよ」と進み寄る武田勢を左右に引き受けて四角八面に打ち据える
近寄る者はすべてねじり首に投げ捨てれば、義信勢は遮られて少し退くを、宇佐美駿河、加地安芸、義信の横合いより穂先を揃えて突きいれば、元来小勢の義信勢はこらえきれずに崩れたつ
増城源八をはじめ家之子郎党痛手を負う、山田、川井、石田、矢ケ崎らも三か所、四か所と痛手を負う
義信も上杉の大軍に押し包まれて危うきとなり、もはや討死と見えたるところに馬場民部少輔、小幡尾張守、小山田信茂、相木市兵衛、真田一徳斎、真っ黒になって駆け付け。宇佐美、加地の背後よりまっしぐらに切って入る

宇佐美定行、これをものともせず、備えをさっと引き回し、小山田、相木の攻勢に立ち向かってかえって敵勢を押し返す
須田右衛門尉、安田上総介、山吉玄蕃、古志駿河も武田勢の真ん中にわき目も振らず切って入る
続いて荒川伊豆、鬼小島弥太郎、鐵上野介、山本宮千代、大国平馬、上条弥五郎、甘粕備後、斉藤下野、岩井藤四郎らの勇士、一歩も引かず血戦する

名におう武田、上杉の剛兵、一世の勇を振るい撃てども突けどもものともせず、東西に攻め寄せ、南北に別れて組み敷かれて討たれる者、手負いながら敵の足にかじりついて働かせぬ者、背から切りつける者、振り返り様に切り倒し、骨くだけ肉は散り、互いに討ちつ討たれつ、戦いは今暁に始まり、既に午の上刻となる
されども両者の息つぐ間もなく、ここに屍晒し、討った首は投げ捨てられ、喚き叫ぶ声は果てしなく続き、しのぎを削る音絶え間なく、山谷に響き渡り、木霊となって帰る
屍の山、血の川の流れ、川のはざまに折り重なる屍
殺気は天まで届き、苦戦はいつまで続くのか、もはや人形であれども人ではなく、みなみな殺気の鬼となって、ただただ殺し合うのみに集中する浅ましき

武田の正兵は次々に追いついて、越兵の真ん中にどっと攻め入る
中にも飫冨三郎兵衛、高坂弾正、小山田備中真っ先に入り、乗り回し、「謙信公を討ち取るはこの一戦也」と鞍つぼに立ち上がり大音にて下知すれば
広瀬、曲淵、三科、猪子、米倉、早川、辻、飯島、菅沼、孕石などの名だたる勇士は謙信を求めて切って回る。







夢の楽しみ

2024年12月16日 07時07分17秒 | どうでもいいこと
 いろんな夢を見てきたが、最近は同じような夢を毎日見る
内容は違うけれども登場人物に一貫性あり、過去の夢は誰かわからない人が半分だったが、最近は親しい人ばかり出てくる。
家族親戚、現在の友人知人、過去の友人知人、入れ代わり立ち代わりでしかも複数で出てくる
30%はもう亡くなった人、74歳ともなれば先輩は当然ながら、同級生や過去の仲間にも既に亡くなった人は多い
夢とは、ありがたいもので、そんな亡くなった人たちと生前同様に親しく会話ができるし、行動もできる
しかもお互い歳をとっていないで、当時のままの姿形、そして軽い体

夢を見ないという人も結構いる様だ、多分見ていると思うが眠りが深いのか
、起きると同時に忘れてしまうのかだと思う
それについて、どうこう思わないが、私は夢を見ることが楽しい

10回の内7回はちょっとつじつまが合わないが日常的な夢、1回はラブっぽい夢、2回は仕事で時間に追いまくられて焦る夢、1年に1回くらい心臓が止まるくらい恐ろしい夢を見ることがある、1年に2~3回は空を軽々と飛び回る夢を見る

夢の中では高校時代のように体が軽くて、いくら走っても息が切れず、本当の人生よりも速く走ることができる
ギター演奏だってプロ並みに軽々とロックを弾いてしまう
演説だって政治家顔負け、大声で主義主張をまくしたてる

夢は自分をスーパーマンにしてくれる、楽しい夢が8割、お気楽な性格なのかもしれない。