まひろ(藤式部)は帝をも掌で転がす最高権力者になったかっての想い人、藤原道長に別れを告げて、都を離れて九州大宰府に渡った。
そこでは道長の兄の子、藤原隆家が長官として眼病の治療を兼ねて赴任していた、更にまひろの娘の想い人、武者双寿丸、越前で出会った宋人周明らとも再会する。
だが事態は急変、異国の海賊「刀伊」が壱岐、対馬を襲い島民や役人を殺し、若者や婦女を拉致した、さらに博多にまで攻め寄せた
隆家は都では上皇に無礼を働くほどの無法者であったが、大宰府に来てからは地元の豪族らから慕われるほどの私欲を持たぬ清廉潔白な大人物に変身していたのである
そして大将として刀伊の侵入を防ぐのであった。
刀伊とは何者なのか
当初は高麗軍が押し寄せたという報せもあったが、刀伊の正体は高麗人ではなく、北方の騎馬民族が現在の沿海州から満州に広がる女真族の渤海国を侵略して「遼」を興したが、侵略されて流浪の民となった女真族が刀伊となって高麗の沿岸を襲い、博多までも押し寄せて来たのだ
ただし国家ではないから倭寇同様の少し大規模な海賊集団だったのだろう
恐らく元寇のような万単位の軍勢でなく、せいぜい数百だったかと思われる
それでも、まだ武士と言う者が存在しないこの時代だから、数百もの海賊がやってくれば、それはそれでたいへんな騒乱であっただろう
だがそれは、都の殿上人を脅かすほどの事ではなかったのかもしれない
都人は少しも危機感を持っていなかった、博多付近の防人だけで追い払えたのだから、海賊退治程度にしか思わなかったのだろう
それゆえ褒美を得たのも隆家に協力して戦った在地豪族二名が壱岐守、対馬守に任じられただけだったそうで、それさえ藤原実資などの口添えがあってしぶしぶ朝廷が与えたのだった
一番の功労者、隆家も何の行賞もなかったそうだ。
NHKの歴史番組では、隆家ら北九州の勢力によって追い払われた刀伊は高麗方面に逃げ戻ったが、高麗軍によって全滅させられて、拉致された壱岐、対馬の島民は送り返されてきたという。
周明は、まひろに再び「宋へ行かないか」と言ったけれど、この頃は宋も「遼」の侵略を受けていて、とても安心して行けるような状態ではなかったのだ。
「遼」は渤海国を滅ぼし、宋の北部を襲い、高麗の都「開京」を焼き尽くすなどの侵略を行ったが、その地に留まって政治を行うまでの力はなかった
このあと、「遼」をも滅ぼして朝鮮半島から中国全土、さらにイスラム国家を破り、モスクワまで到達した「蒙古」がまたしても博多を襲ったのは、これから250年ほどあとの鎌倉時代である。