神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

「列戦功記」を現代仕様で書いてみた(2) 甲越 川中島血戦 101

2024年12月15日 21時17分06秒 | 甲越軍記
甲越軍記より275話

その先、上杉謙信は武田の旗本に乗り入れ、信玄、義信の父子と一騎打ちを行い両人に手傷を負わせて自陣に帰って、しばし休息をしていたが
遠くに西條山より戻った敵の正兵の大軍が押し寄せて、直江、甘粕の備えを破り
味方の後ろに回り、柿崎、本庄らを前後より取り囲むを見る

謙信は馬上よりこれらをキッと見て「すわ敵はうるさきハエの如く集まりたり、これ戦の大事なり、我は十分の勝とならずとも、年来のうっぷん少しは晴れたり
今は素早く帰国すべきぞ
あれを追い散らして味方を無事に引き上げさせるべし、日頃の神策はこの一戦に施すべし」と采配振って下知すれば、宇佐美駿河守、「かしこみ候」と答えつつ手勢を備えて駆け出でて、勝ち誇る武田勢の横合いより一同に槍を投げ入れ、雄を振るって突き破れば
続いて唐崎孫次郎、鐵上野介、大貫五郎兵衛、柏崎弥七郎を始め、名を得た剛将駆けつけて雲霞の如き武田勢に割って入り
騎馬、徒歩の区別なく当たるを幸いに斬りまくれば、甲兵すなわちしどろとなる

本庄、柿崎、村上、柴田もこれに呼応して自ら粉骨砕身の働きで血戦して難なく一方に血路を開き、謙信を守護して引き上げようと旗本と一つに固まれども
敵の追撃の激しさに隊と隊、相交じり合って人馬共に騒ぎ立てる

これを危うきと見て宇佐美駿河守は井の字に味方の中を走り、諸軍を分かち、備えを立て直させて、自らは陣頭にたって、乱れた味方の息を休ませるは、これ天晴れ美々しく見えたりける。

ここに武田太郎信義、先の戦いでは謙信に手玉にとられて傷を負う屈辱
血気盛んな大将なれば、先の汚名そそがんと怒りを心中の燃え盛らせて、手傷に屈せず、手兵八百余騎を一路に続けて、ひた冑となって上杉の大根の折掛けの旗印を目当てに越後勢の如く見せて謙信の旗本に近づく
そして謙信の旗本に近づくやいなや一斉に鬨をあげて攻めかかれば、旗本勢ふいを突かれて二町ほども退く
太郎義信大いに勇み、鞍高になりて乗りつけ、上杉の勇士、志田源四郎を馬より切って落とし、羊の群れを襲う猛虎の如く暴れまわる。

越の国から信州へ② 富山から松本へ(148号経由)

2024年12月15日 11時02分46秒 | ドライブ
①のコースは3時間ほどです、距離は150km弱の山道です
今回は②のコース、北陸道で富山インターから糸魚川インターまで約80km50分
糸魚川インター降り口は国道148号に直結、国道に出たら左折で山の方に向かいます。
ここから安曇野インターまでは下道で100km、2時間、結局飛騨回りと同じくらいです、距離は②の方が遠い。

国道148号は糸魚川姫川港に流れ込む姫川に沿って長野県へと向かいます
姫川は峡谷になっています、その狭い峡谷に川とほとんどトンネルの大糸線が走っています。
大糸線はだいたい1両のワンマンジーゼルカーで完全な赤字路線です、しかし姫川渓谷の景色は素晴らしい
なぜなら、ここは日本列島を二つに分断するフォッサマグナだからです。
糸魚川インターから10数分で根知地区の入り口を通過します、根知地区は日本百名山雨飾山(1963m)の新潟県側の登山口です
また国道わきから徒歩でフォッサマグナの二つのプレートが重なり合う現場を見学できます

根知から10分弱で小滝駅手前の大正橋の先から左に行きますが、右へ行くと日本で唯一の上質の硬玉ヒスイの産地、小滝ヒスイ峡と日本離れの景観、幻の鯉太郎がすむという高浪池へと行きます
巨大なヒスイ原石がヒスイ峡に鎮座しています、また明星山南壁は巨大な一枚岩でクライマーの練習場になっています、圧倒される景観です

小滝からは平岩までの10分くらいは隧道とトンネルのカーブの連続です、観光バスやトラックも通るから初めての人は怖いかも
トンネルが終わると平岩の温泉郷です、ここは長野県と新潟県の県境です
そこからはアップダウンの山道が続き、トンネルもいくつかあります
新潟、長野県境はかって土石流で地元業者、秋田からの出稼ぎ作業員ら13名ほどが亡くなった現場です
平岩から小谷にかけては温泉が点在します、国道沿いにも平岩温泉郷のほか、道の駅小谷、サンティン小谷、など日帰り温泉
国道から離れれば10kmほど先に小谷温泉があります、さらに先の木崎湖には「ユープルきざき」も

糸魚川インターから40分ほどで小谷村に入ります、この辺りからは白馬三山のふもとに広がるスキー場が次々と出てきます
白馬コルチナ、白馬乗鞍、栂池高原、岩岳、八方尾根、五竜遠見、八方尾根には長野オリンピックで使用されたジャンプ台を見ることができます
大糸線はここ森上駅までがジーゼル、この先は松本から中央線になり新宿まで電車になりますから車両編も長くなり、特急も走ります。

小谷から10分で白馬村に入ります、ここは長野冬季オリンピックのジャンプが行われました、八方尾根スキー場は雄大なスキー場でオーストラリア人が多い
白馬の駅周辺や、ジャンプ台に近い別荘地周辺には小洒落た飲食店が数多くあります

白馬からは北アルプスの景色が広がり、仁科三湖(青木湖、中綱湖、木崎湖)がアルプスを背に美しい姿を見せます
小谷から先は2500~3100mの北アルプスが西に屏風のようにそびえたつ絶景、
木崎からは大町市の平野部に入り広がりを見せます
次々と自然環境に恵まれた観光地が現れます、大町からは扇沢まで行けば、ケーブル、ロープウェイなど乗り継ぎ黒部ダムを経て、立山直下の室堂まで登れます、ここから富山へ下る高原バスも出ています

大町からは松本市に向かう道路が一気に増えます、一番西を行くのは山麓の道アートラインで最終的には梓川村につながって上高地に向かう国道158号に出ます、全体的に国道が走る中心市街地より高い丘陵地なので見晴らしがよい
果樹園も点在します
国営あづみの公園や岩崎ちひろ美術館などが並び、お蕎麦屋さんやカフェなど避暑地の高原ムードもたっぷり、美術館も多いです

それよりやや東は国道148号からここで代わる147号で穂高から松本市内につながります
もう少し東には犀川へと下る高瀬川が流れていて、その西岸を走る信号が少ない直線道路アルプス・パノラマラインで、安曇野インターに続きます、これが一番近道なので私はここを利用することが多い、この沿線にはスイス村、観光地「大王わさび園」があります、またお蕎麦屋さんも多いです

川の東岸の道路は明科道路でアートラインの名もついています、
平野部と市街地が交互に出てくる道路でハーブ園などもあり、仁科神明宮の麓を通って池田町、明科、豊科に続いて国道19号に出て松本市へと向かいます。

松本市は長野県第二の都市で国宝松本城が有名、そのほかにも松本平からのアルプスの景色は雄大です
松本市は標高600m、澄んだ空気は北海道に匹敵するでしょう、ゆえに冬の青空は天下一品と言えます
また美ケ原への拠点でもあり、日本列島のど真ん中ともいえる位置あって、東京、名古屋、静岡、北陸路へ均等な時間でつながります。

富山インターから糸魚川インター50分 そこから国道148号で松本市まで2時間です。
糸魚川から白馬までは深い渓谷の景色、白馬から松本までは開けた安曇野と北アルプスの圧倒される景色、二つの異なった絶景を見られる最高のドライブコースです。

雪の八方尾根

アルペンルート ケーブルカー




「列戦功記」を現代仕様で書いてみた(2) 甲越 川中島血戦 101

2024年12月14日 19時16分30秒 | 甲越軍記
甲越軍記より通算274話

越後勢直江、甘粕は武田正兵一万二千の襲来にも少しも慌てず、先手を左右にさっと分かち、迫りくる武田勢を左右から挟撃すれば、大軍の武田勢と言えども、これを破りがたし

馬場民部少輔は味方の脇をササと駆け抜けて、越兵の弓手に回り込み、小荷駄隊をめがけて皆、徒歩立ちとなって馬の足を切って落とせば
数百の荷馬跳ね上がり、直江、甘粕の兵の中に狂ったように駆け巡る
越兵これに混乱を生じて右往左往となるところへ、小幡、高坂、飫冨、真田、芦田、相木の勇兵ら無二無三に攻め入り、中にも小幡尾張守定信、大太刀を振り回し、これが為に越後に名をはせる勇士を十六騎討死となる。

直江、甘粕必死になり右に左に駆け巡ってこれを支えんとするが、敵は大軍、味方は僅かなれば、敵はいよいよ雲霞が押し寄せる如く、さらに下の渡しからも川を乗り越えて、凄まじい勢なればもはや遮ることもならず、ただ死族となって目の前の敵と戦うなり

この時、目の前の先手に於いては、謙信、信玄の血戦が繰り広げられていて危急の時なり、互いに存亡の一戦を争う。

馬場、小幡、真田、小山田の諸隊は甘粕、直江の軍を打ち破り、さらに勢いを増して敵の後方より須田右衛門尉、安田上総介の勢に襲い掛かる
須田、安田勢は突然の大軍の出現に驚き乱れたつを、大将の須田右衛門尉、安田上総介は大いに怒り「汚き味方の形勢かな、ここを破られて誰に面を見せられようか、味方の勝敗は、この一陣にあり、前なる敵は早くも乱れたぞ、進め進め」と喚いて真っ先に敵に突きいる

諏訪部次郎右衛門、須賀但馬、唐崎左馬助、土岐田五右衛門、加賀井土佐等の勇士も大将に連なり槍衾を作って敵を遮れば、その勢にさしもの馬場、真田の兵も進みかねる

ここに武田軍奇兵の中央で穴山勢とただ二備え、乱れもせず鉄壁の備えで整然と兵を温存していた飫冨三郎兵衛昌景、攻め寄せる柿崎景家勢を追いまくり、三千余騎の本庄越前守と渡り合う
その時、向こうを見れば、武田の正兵の先陣、敵の背後に迫り来るを見届けて
「戦は味方の勝利なるぞ、西條山の味方すぐそこに迫ったり、挟み撃ちにして敵を討ち取るべし」と大声で下知して自ら真っ先に進み、大太刀を振り回して越勢に切りまわる
広瀬郷右衛門、曲淵庄左衛門、猪子才蔵、辻弥兵衛、三科肥前守、猛勇益々いきり立ち、槍ためなおして狂って暴れまわれば、本庄越前、山吉玄蕃ら死族となって戦えども、この太刀先に当たりがたく、ついに備えを切り崩されてさんざんになって敗走する
次に備えていた柴田因幡守、北條安芸、上田修理進、古志駿河守らは粉骨砕身、四方に兵を励まして戦えども、敵は新手の大軍、大波の如く次々と新手が押しよせれば、初めに負けた武田の九備えも兵をまとめ息を吹き返し、前方より越後勢を押し包んで攻め立てる

前後に敵を受けて、上田修理進など名だたる勇士討死して、越後勢は総崩れとなって敗走を始める。

北国 冬の野菜収穫

2024年12月14日 07時06分51秒 | 家庭菜園
 12月も既に半ばの14日です
11月末から今日まで18日間のうち晴れた気持ちよい日は1日だけ、あとはずっと雨降りか曇りです、今朝も雨の音、寒いです。
首都圏の友人からは連日、晴れのLINEが来るので羨ましい
それにしても12月にこれほど太陽が出ないのは珍しい。

雨が降っていると散歩にもいく気がしません
畑は大根と玉ねぎと苺だけ葉をつけていて、あとは何もありません
大根は、おでん大根20本だけ植えて、順次食べていますが、初めてにしてはトロトロの柔らかい歯がいらないくらいの出来栄えで満足しています
塩こうじを使って漬物したり、おでん、みそ汁で食べています。

玉ねぎも初めてですが、葉は枯れずにいるので来年は収穫になるかもしれません
苺は葉がどんどん増えて、プランタン3つになりました、元は2株だったような気がします、今年の収穫時は入院していて、私の口に入らず残念、来年は食べたいものです
冬の管理を調べて、なんとか結実と行きたいところです。

箱根の関所


ピーター・アッシャーはビートルズ ポールの最初の妻ジェーンアッシャーの兄

ピーターとゴードン Peter & Gordon/アイ・ゴー・トゥ・ピーセス I Go To Pieces(1964年)


「列戦功記」を現代仕様で書いてみた(1) 甲越 川中島血戦 100

2024年12月13日 18時45分40秒 | 甲越軍記
 武田信玄と上杉謙信は、これまで信州川中島にて数度のにらみ合いを行ったが
信玄は逸る謙信に一度も対抗せず、ただただ備えを堅くしていかなる謙信の挑発にも乗らずにいた
謙信は何度も信玄の陣に攻め寄せようと様子を見るが、鉄壁の守りに隙は無く、無為に攻めれば返り討ちに会う陣形なれば、ついに攻めることならず越後に引き上げるばかりであった。

されども此度は謙信が自らを死地に追いやり、信玄が攻めざるを得ない陣形を先に作った
越後勢は一万三千、甲州勢は二万、数を数えても明らかに甲州勢が有利、信玄は二万を二手に分けて自らは八千で川中島に奇兵を備え、正兵一万二千が謙信が籠る西條山に奇襲をかけて川中島に追い落とし、挟撃する策をとった
山本勘助は二万を一万ずつにするように進言したが、信玄は拒んだ

謙信は名将なれば、海津城の炊煙の盛んなるを見て、武田勢が今夜挟の策をとるを知り、裏をかいて敵が山に攻め寄せるより早く、川中島に密かに下りて
信玄本隊を奇襲した
武田の兵は恐れおののいたが、信玄は少しも慌てず、勘助に命じて鉄壁の陣が前を命じた
勘助は備えを十二段に変化させて先を蓑手に備えて上杉勢を待ち受けた
しかし上杉勢は車懸かりの陣形で、切っ先鋭く神出鬼没に襲い掛かれば、武田の十二段の備えの内、九段まで打ち破られて、信玄の次弟、武田典厩信繁、諸角豊後守、山本勘助、初鹿源五郎はじめ歴戦の勇士らが次々と討ち取られた。

これに勢いを増した上杉勢は、謙信の旗本が信玄の旗本に打ちかかり、其の間に謙信単騎にて信玄を求めて本陣深くまで攻め入った
逃げる信玄は犀川に入り、謙信もまた犀川に追う
謙信は大太刀にて信玄に三太刀、七太刀と打てば、信玄は軍配扇でこれをかわすが傷を負い危うきところに、旗本原大隅守駆け寄り謙信の馬を叩けば、名馬も驚いて深みにはまり謙信は流れに振り落とされる
されど信玄の馬も驚き同じく深みに流されて信玄も流れに落ちる
双方、それぞれに家臣に救い出されて双方に別れるが、怒る謙信はなおも立て直して今度は信玄の嫡子、武田太郎信義に打ちかかり、手傷を負わせるが自らもかすり傷を負う
その後、乱戦のなか謙信は陣中に戻る。
武田勢の残る備えは飫冨三郎兵衛、穴山伊豆守、信玄の旗本本陣の三備えのみとなり風前の灯となる。

さて武田の正兵一万二千は謙信を西條山から追い落とそうと密かに向かったが、陣城はもぬけの殻となっていた
「これはいったいいかに」唖然としてしているところに、川中島の方より、
鯨波の声、鉄砲のうちあう音が山河に響き渡り聞こえれば
「さては謙信めに謀られた、本隊の危機也、急ぎ山を下りよ」と慌て色めき立つ
正兵の諸隊、隊列もなさず大将は元より、騎馬の勇士は一騎駆に山を脱兎のごとく走り下りる
やがて雨宮の渡しに至り、浅瀬を渡り向こう岸をみれば、上杉勢の直江山城守、甘粕近江守の二隊、鉄砲をつるべ打ちに武田勢に向けて放つ
兵は的になって次々と討ち倒され進み兼ねれば、小幡尾張守、大いに怒り
「鉄砲玉など恐れていれば本陣旗本危うからん、当たるも当たらぬもこれ運命なり、死を恐れるな我に続け」と真っ先に川に乗り入れて、低い姿勢で馬を駆けさせれば難なく向こう岸にたどり着き、たちまち上杉の兵、七騎を斬って落とす
これに勢いを得て、真田、馬場、小山田らも真一文字に川を押し渡る



越の国から信州へ① 富山から松本へ

2024年12月13日 06時48分30秒 | ドライブ
 越の国とは現代の北陸三県と新潟県のことを言う
越前福井、越中富山、越後新潟、それに石川県の古国名、加賀と能登を指す
何故福井と富山に挟まれた石川県に「越」がつかないのかわからない
それで調べてみたら、平安時代初期に越前、越中、越後が国名として制定され
越前国は今の福井、石川で、越中国は今の富山県と新潟県の南東部である魚沼郡及び上越地方、そして越後国は今の新潟県長岡市以北から山形県、秋田県だったそうです、「なるほど」
その後、武士による群雄割拠で国の範囲が狭く分割されて、それぞれに能登、加賀などに分割された模様です。

ここでいう越の国は私のテリトリーである富山県と新潟県の南部(長岡市、魚沼郡以南)に限定しています

ここから東京へ車で行く場合、四本の主要道路があります(高速道は今回は入れません)
一本は富山市からの国道41号、二本目は新潟県糸魚川市からの国道148号、三本目は上越市からの国道8号、四本目は長岡市からの国道17号です

国道41号は富山市の日本海沿岸の岩瀬浜へ流れ出る神通川に沿って、岐阜県に上っていく国道です、神通川の雄大な渓谷美を楽しめます
北陸高速道富山インターから41号は直結していて、南に進むとすぐに富山きときと空港の入り口です
中国の主要都市と結ぶ重要な空港ですが、このようにとてもアクセスが便利です、距離にして3kmくらいでしょうか。

国道41号は飛騨街道と呼ばれ、あるいは、ぶり街道でもあります
富山インターから10km大沢野を過ぎたあたりから平野部が終わり、一気に狭い渓谷になります、これが神通峡の始まりです
緑の水をたたえるダムや展望ポイントが幾つも続く風光明媚なルートが10kmほど続きます
そして国道360号との分岐が現れ、もう岐阜県との県境です、41号は左の高山への道をとります
ここから渓谷が狭まり銅山で有名な神岡町に入ります、18kmほど分岐があり国道41号は右方向40kmほどで高山市に入るが、そっちへは行かず左の471号に進む、長野県に入るには高原川沿いのどこちらが近道です
神岡町には神岡城址、宙ドーム神岡があります、ここからも川沿いに道路は平湯温泉に向かう国道ですが狭い
笠ヶ岳の麓に沿っていくと言った方が良いでしょうか、25kmくらいから温泉地帯に入ります、北陸などの高層の観光旅館は少ないですが、日本旅館風の温泉宿が風情を醸し出します
奥飛騨温泉郷から新平湯温泉、平湯温泉まで5kmくらいの温泉地区です
途中、新穂高温泉への分岐もあり、温泉から先には新穂高ロープウェイがあり
西穂高岳の尾根の下まで上がれます、その先の尾根の向こうが上高地です。

国道を平湯温泉に向かって進むと、途中にクマ牧場があります
またこの辺りの宿では飛騨牛が提供されるでしょう?
平湯温泉から多くなカーブが続く上り道を進んでいくと、安房トンネルの入り口に出ます、ここは標高1370mです、ここからは右は高山へ、左は松本への国道158号(野麦街道)
トンネルの長さは4370mだそうです、これができる前は1790mの安房峠の難所を通っていたのです、いまは僅か数分で通過できます(有料)
信州側の出口はすぐに上高地への入り口、釜トンネル入り口につながります
上高地へは今は一般車両は入れませんから、沢渡あたりで停めて専用バスかタクシーで行きます
158号は、上高地入り口トンネルを左に見ながら右の方へ下りて行きます
あとは新島々付近まで雄大で険しくて爽快な国道をくねくねと上り下りしながら下りて行きます
途中、トンネルとトンネルの間から、乗鞍高原(鈴蘭)への分岐もあります
途中には番所大滝など見どころもあります、ここの一ノ瀬園地も良いところです。
昔はスカイラインで乗鞍高原までマイカーで行ったこともありますが、今は自然保護のため一般車交通止めになっています
158号を少し下ると、奈川ダムに出ます、ここからはダム湖が幾つも出てきてきれいです、そこをどんどん下ると道の駅「風穴の里」
そのあたりから平地が始まり20kmほどで松本インターに直結します。
松本から中央道、甲州街道で山梨県経由で首都圏に入って行きます。

ドライブ好き、アドベンチャー好きなら、このコースは面白いです。












「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(272) 甲越 川中島血戦 99

2024年12月12日 10時08分04秒 | 甲越軍記
 謙信、信玄ともに深みにはまり馬より投げ出されるに、上杉方では和田喜兵衛尉が馬を乗り入れて、大隅守の槍を払って謙信を救い、己の馬に乗せ、自らは川を泳いで陸に上がる
武田方には馬の口取りが信玄を助けて、馬を引き上げて信玄を乗せ、双方に引き離れる。

かくて謙信は犀川から上がって見渡せば、日の丸に武田菱の旗を立てたるもとに、大将とおぼしく卯の花縅の鎧に、白星の兜を着し、黒き馬の逞しきに金の馬鎧を着せて、敗軍を集める体を見つけて、太郎か左馬助であろうと思い、たちまち駆けだして「それに控えし大将は誰ぞ」と問えば
彼の大将も「我は信玄が嫡子、太郎義信なり」と名乗って、二尺八寸の太刀を抜き合わせ、互いに馬上の太刀打ち二合、三合と打ちあう
双方、名誉の大将なれども太郎の馬は思うにまかせず、謙信は思いのままに馬を馳せ合わせれば、打ちものの寸伸びに、義信の鎧わたがみの外れ、冠板、弦走りの板、兜の吹き返し、都合十一か所までも謙信の鋭き太刀先で傷つけられ、鎧の隙間に二か所の薄手の手傷を負う
されども謙信もまた草刷り外れに二か所血を引く、されど傷は深からず

すでに組打ちにならんとするところへ、武田方の曽根周防守、梁田弥太夫をはじめ馬回り三十騎ほど駆け付けて謙信に向かえば、謙信もこれまでと近づく敵を三騎切り倒して、雑兵六人に手傷を負わせる
つきそう和田喜兵衛も騎馬の士、二騎を斬って落とせば、これに恐れて敵近寄らざるうちに謙信は静々と馬を返して味方の中に入り給う
まことに鬼神をも取りひしぐべき大将なりと見えたる。

このとき既に武田軍は大敗北となり、これ川中島合戦の半ばにして、これより以下先に、西條山にある高坂、飫冨、馬場、小山田、甘利、真田、相木、芦田ら一万二千の正兵いよいよ川中島の主戦場にまかり出る。

                        甲越軍記 完

*「甲越軍記」は、ここまで三編終了して四編で川中島後半戦に続く予定だったが、選者、速水春暁斎死亡の為ここで終わってしまった
その続編として、選者小沢東陽によって「列戦功記」として続く
その出処原本は何か不明である。
私、yottinは「列戦功記」の序章の川中島決戦後半までを書いて終わろうと思う、それ以後は上杉謙信の養子、上杉景勝と武田信玄の四男、武田勝頼が和睦するまで書かれているが、そこまで書くかどうかはわからない。

ジョン・レノン

2024年12月11日 07時29分03秒 | 音楽
 12月8日の投稿では昭和16年の同日に始まった日本の戦争について書いた
12月8日と言えば、もう一つ私の関心事があった、それは1980年の12月8日
ニューヨークでジョン・レノンが暗殺された日でもある
ジョンは私より10歳上で1940年生まれだから、殺害されたのは40歳の時だった。

もう今は2024年、あと22日で2025年になるから、もうジョンが死んでから44年が過ぎたのだ、二巡目のジョンの人生ももう終わったのだ
私にしてみれば、つい十年前くらい前の出来事にさえ思えるが、今の20代、30代、ましてや10代はビートルズさえ「知らない」という人が多くなった。
無理もない、私が15歳の時には45年前と言えば大正時代中期だから、その頃の浪花節や歌舞伎のスターを知っているかと言われるようなものだ。

初めてビートルズの曲を聞いたのは何度も書いているが、映画「ビートルズがやってくる ヤア!ヤア!ヤア!」を森永製菓だかのコマーシャルにショートカットで出て、それを見た時だ
確か1964年だと思うから中二の時だ(14歳)、そのLPに入っていた「恋する二人」に痺れっぱなしだった、日本でもチャートの一位になった
日本ではその後に「ロックンロールミュージック」が大ヒットした
日本では英米より2年くらいビートルズの人気が出るのが遅れているから、LP
3~4枚分のヒット曲が一気にレコード化されて、ラジオのヒットパレード
「ハローポップス」「9500万人のポピュラーリクエスト」「東芝ヒットパレード」などで上位を独占し続けた
ライバルはアメリカでは全然人気がないのに、なぜか日本では大人気で、ビートルズと争ったベンチャーズ、今でもファンが途切れない。

レコード店へ行って「Meet The Beatles」というLPレコードを買った
これは「ヤア!ヤア!ヤア!」の前のレコードでビートルズのデビュー曲からヒット曲のオンパレードの曲ばかりが並ぶ初期の最高傑作盤だ
この中の「抱きしめたい」がアメリカで爆発的な売り上げをして一躍イギリスのビートルズから世界のビートルズになった瞬間だった。

15歳の時には高校受験で合格して入学までの間の休みに、映画館でイギリスの音楽映画「ポップギア」を見て初めて動いて歌うビートルズを見て、女子のように失神しそうな衝撃を受けた、この映画での曲は「ツィスト&シャウト」と「シーラブズユー」
アニマルズや、ハーマンズハーミッツ、シラブラックなどトップアーティストも出ていたが、まったく衝撃度が違った。

あの日からビートルズにすっぽりハマった、新曲が発売になるたびにレコード店に走った
シングル盤は330円だから買えたが、LP盤は1800円くらいなのでなかなか買えず、高校生になるまで我慢した
18歳から19歳に変わる頃に板前修業に入って住み込みになって、下っ端の時は個人的なプレーヤーやステレオをもてなくて音楽から遠のいた
もっとも私が好きなビートルズの曲も1968年頃には、だんだん凝った曲が多くなって興味が薄れて来た
そして1970年代に入って。やがて解散した、それ以後、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの二人の天才は個々に楽曲製作を始めた
再結成を私は願っていたが、それもならなかった

一番のショックは、ジョンが学生時代に結婚した妻、シンシアと別れて、日本人の前衛芸術家オノ・ヨーコと結婚したことだ
それ以前、ビートルズメンバーがLSDなどの薬物を使用するようになったのもショックだった
ジョンは日本人と結婚するのかと驚いた記憶がある、急にジョンを身近に感じた
ジョンもポールも次々とレコードを発表していったが、私はどちらも1枚ずつしかLPを買っていない
もうカセットテープの時代で、ラジオの音楽番組から録音して聞いたりしていたし、ビートルズとは別物と言う認識だった
それでもジョンの曲は、時々素晴らしいのが発表されて、結構聞いていたのだった。

まさか白昼堂々と暗殺されるなんて考えもしなかった、それも犯人はジョンの大ファンだったというではないか、本当かどうかはわからないが。

今はビートルズのLPも、ほぼ全部そろって時々聴いている
有名になる前の下積み時代のキャバンクラブでの演奏を個人が録音した音質の悪いのをレコード化したのを買ったり
アメリカツアーのコンサート版、とかトニーシェリダンのバックバンドでの曲だとか、いろいろ買い集めて聞いたものだ

先日、ジョンとポールの二人のデビューからジョンの死までの10時間近いインタビュー(関係者への)番組を見た
もう一度すべての手持ちレコードを聞き直したくなった、それと70年代のジョンとポールの評価が高いレコードも買って聞きたくなった。









大外れの天気予報

2024年12月10日 17時32分57秒 | yottin日記
 今日の地域天気予報「雨」は100%外れた
朝から一週間ぶりの太陽が顔を出して温かくなり、11時には再び小雨模様の予報なので、これまた一週間ぶりの散歩に出かけて。

誰しも考えは同じようで、いつになく散歩ですれ違う人が多かった
明日からはまた一週間雨模様なので少し足を延ばして、途中で思いついて墓参りにも立ち寄った。

家に帰ってくるとカートも久しぶりの太陽に喜んで、ネコベランダに出て日向ぼっこを楽しんでいる
最近は待遇があがって、専用のこたつに入って一日一晩をぬくぬくと過ごしている
こたつと言っても、ネコ用ではなく人間用、一つ余ったのでそれをカートの部屋に設置したのだ
今までは石油ストーブで部屋を暖めていたが空気が悪くなるし、火事の危険もあり、また灯油代もバカにならない
こたつは電気代が安いと何かで見たので、こたつにした
猫は人間以下の温度で良いので、最低の温度設定にしてある。
灯油も18Lで2100円と去年よりも値上がりしている、我が家は家族がバラバラに暮らしているから、寝るまでみんなで居間で過ごす家庭から見ると熱源がすごく効率が悪い
馬鹿げているが、互いに不干渉なのも悪くはない、これでも電気代とガス水道で月25000円弱、他の家庭と比べて安いのか高いのかはわからないが、なんとか生活はできている。

最近の三日間は寒さのせいか、毎朝起きるのが7時から8時と遅い
寝るのは22時半から23時だから、少し寝すぎかも
だけど猫の心配で夜中に3~4回起きるから、グッスリとは寝ていないのだ
だけど猫こたつにしたので、もう夜中に猫の心配がいらなくなって、今朝はぐっすりと寝た。

今日も散歩と自分の朝昼作り、そしてテレビを見て、ネコの世話をして、段ボールのゴミまとめなんかしていたら、もう15時になった
一日、一か月、一年がどんどん短くなっていく。




「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(271) 甲越 川中島血戦 98

2024年12月10日 08時23分49秒 | 甲越軍記
 原大隅守は謙信めがけて三度まで槍にて突きかかれども、乱軍の中なれば心はやって突き損ねるばかり
そこに上杉の近習井地峰貫太郎、主人の大事と馳せ来たり、大隅守の鎧に二度槍をつけるも。気が苛立って鎧を突きとおすことならず
大隅守もよもや謙信とは思っていないので、それをあきらめて新手の井地峰に挑みかかる

しばし大隅の横槍で隙を得た信玄は、この時とばかりに馬を川へざんぶと乗り込んで謙信を罵って逃げ出す
謙信は、これを目早く見つけて、「これこそまさしく信玄」と叫び
素早く放生月毛の名馬に一鞭あてて一躍りさせて信玄に続いて川にかけ入れる
馬は逸物、龍の天に登るがごとく川をやすやすと泳ぎ、謙信は大いに声を発し
「逃げるか卑怯者、謙信参上、潔く雌雄をここに決すべし、帰せ」
馬を急がせ信玄の馬近くまで近づけば、馬上より切っ先外しに見た三太刀まで切りつける
信玄は振り返り「いかに汝に後ろを見せようか」と言って、軍配扇にて「はっしはっし」と受け止める
二の太刀は団扇の柄を切り折り、三の太刀は信玄の肩先に当たる
謙信は苛立って、畳みかけ畳かけて切りつけるを、信玄は団扇でこれを受け流し給う
信玄、すでに危うく見えれば、武田方の旗本三十騎、川端にてこれを見て、「これはこれは」と救いに行こうとすれども、川は深く、ことに八月十日頃より雨降りが続き、川水は満ち満ちて速きこと滝の如し
足元定まらず、ただただ焦るばかりなり
心ばかりがはやり、みなみな手に汗を握りしめ、牙を噛んでいるところに、原大隅守、真田源五郎、金丸平八郎(後に土屋右衛門と号す)、これを見て大いに驚き、生死も問わず川に馬を躍らせて乗り入れる
一番に原大隅守、謙信に近づけば青貝の柄の持ち槍で、謙信の背後を見当付けて突けば、槍先は謙信の鎧の背に当たれども、謙信の鎧は稀代の名器であれば、少しも通さず
大隅、これに苛立って今一度、大上段に振り下ろせば、これも僅かに反れて、放生月毛馬を叩く
馬はこれに驚いて棹立ちに飛び上がり、川の深みに飛び込み流れ早く、謙信は鞍つぼに堪りえず、馬からさかさまに川に落ちる
信玄の馬もこれに驚いて、これまた深みにはまれば、信玄も耐えられず、ざんぶと川に落ちる。