○玉上琢彌訳注『源氏物語 第6巻』(角川文庫)1970.10
ついに「若菜」である。源氏物語五十四帖の中でも、最大の山場とか傑作とか呼ばれて、別格扱いされることの多い巻。確かに物語は、ここで一回、仕切りなおす感じがする。
これに先立つ玉鬘の物語は読みにくかった。正直、ここでGIVE UPしてしまおうかとも思った。登場人物たちが、本当のところ誰を好きなのか、分からないので、物語の展開が見えないのだ。それが「若菜」では、以前の「源氏」に戻る。登場人物は、運命に肩を押されるように、出会い、恋に落ち、引き離され、死んでいく。悲劇は分かっていても誰も止められない。
病気がちの朱雀院は、自分が出家する前に、最愛の姫宮、女三宮(14歳くらい)の嫁ぎ先を決めたいとあせる。安心できる嫁ぎ先を求めて、いろいろ悩んだ末、弟の源氏(40歳)に降嫁させることに決める。
煩悶する紫上。やがて、女三宮の降嫁。しかし、この経験を通じて、源氏は、紫の上の真価を再認識し、二人の絆はいよいよ深まる。「若菜」以前も、紫上は、源氏が全面的な愛情を寄せる最高の女性として書かれているが、その賛辞はあまり具体性を伴っていない。「若菜」に至って初めて、紫上は、具体的な「顔」を持ち、読者の前に登場するように思う。
女三宮は、衣装に埋もれてしまうような、身体的な「小ささ」(未発達な感じ)が強調されている。周囲のなすがままに生きている幼女のような女性で、源氏の愛情を得たいという執着もないし、愛されない不幸を感じることさえできない。でも男性って、こういう、何もできない「あえかな女性」好きよね...作者はそう言っている気がする。
いまさら言うまでもないが、柏木が女三宮の姿を見てしまう場面のつくりは実にうまい。男たちが蹴鞠をするために庭に下りているというのも、女たちが御簾のすぐそばに出張って見物しているというのも自然である。そこを一匹の猫が横切った瞬間、運命が動き出す。御簾が引き上げられ、全身が露わにさらされても、とっさに何が起きたのかを判断できず、しばらく立ちつくしてから、おもむろに身を隠す女三宮。この描写も芸が細かい。そのあと、恋人をしのぶよすがに猫を貰い受け、異常な愛情を注ぐ柏木。なんだか近代の心理小説みたいだ。
密通の場面も読み応えがある。柏木の手引きをするのは小侍従という女房であるが、小侍従の無思慮に対して作者の目は冷ややかである。柏木は、女三宮こそ最高の貴婦人と勝手な想像をしていたのだが、相手が無抵抗で可憐な少女であると分かると、落胆するのではなく、むしろ「ただ一言、もの越しに」という当初の要求を一息に踏み越えて、不義を犯してしまう。ふーむ、男性心理ってそういうもの? また、「ゆか(御帳台)の下にいだきおろし奉る」という描写の迫真性にも舌を巻く。女三宮のベッドに上がり込むのではなく、ベッドの下で事を行うわけね。
そのあと、女三宮の居室で柏木の手紙を発見してしまった源氏が、「こういう手紙は、誰かに見られても困らないように、(密通の事実は)おぼめかして書くものだ」と嘆くのもおもしろい。こんな幼稚で不用意な奴らに出し抜かれたってことが我慢ならないんだろうな。やがて、試楽のために六条院を訪れた柏木を源氏はいたぶる。
かつて藤壷中宮との不義密通を犯した源氏が、いま、父帝と同じ立場に立たされたことを、「因果応報」の思想として取り出す考え方があるけれど、これは当たっていないと思う。むしろ、源氏は、若い恋人たちに思わぬ足元を掬われた自分の「老い」に驚愕し、怯えているように見える。
長くなってしまった。やはり「若菜」は名編だね。続く。
ついに「若菜」である。源氏物語五十四帖の中でも、最大の山場とか傑作とか呼ばれて、別格扱いされることの多い巻。確かに物語は、ここで一回、仕切りなおす感じがする。
これに先立つ玉鬘の物語は読みにくかった。正直、ここでGIVE UPしてしまおうかとも思った。登場人物たちが、本当のところ誰を好きなのか、分からないので、物語の展開が見えないのだ。それが「若菜」では、以前の「源氏」に戻る。登場人物は、運命に肩を押されるように、出会い、恋に落ち、引き離され、死んでいく。悲劇は分かっていても誰も止められない。
病気がちの朱雀院は、自分が出家する前に、最愛の姫宮、女三宮(14歳くらい)の嫁ぎ先を決めたいとあせる。安心できる嫁ぎ先を求めて、いろいろ悩んだ末、弟の源氏(40歳)に降嫁させることに決める。
煩悶する紫上。やがて、女三宮の降嫁。しかし、この経験を通じて、源氏は、紫の上の真価を再認識し、二人の絆はいよいよ深まる。「若菜」以前も、紫上は、源氏が全面的な愛情を寄せる最高の女性として書かれているが、その賛辞はあまり具体性を伴っていない。「若菜」に至って初めて、紫上は、具体的な「顔」を持ち、読者の前に登場するように思う。
女三宮は、衣装に埋もれてしまうような、身体的な「小ささ」(未発達な感じ)が強調されている。周囲のなすがままに生きている幼女のような女性で、源氏の愛情を得たいという執着もないし、愛されない不幸を感じることさえできない。でも男性って、こういう、何もできない「あえかな女性」好きよね...作者はそう言っている気がする。
いまさら言うまでもないが、柏木が女三宮の姿を見てしまう場面のつくりは実にうまい。男たちが蹴鞠をするために庭に下りているというのも、女たちが御簾のすぐそばに出張って見物しているというのも自然である。そこを一匹の猫が横切った瞬間、運命が動き出す。御簾が引き上げられ、全身が露わにさらされても、とっさに何が起きたのかを判断できず、しばらく立ちつくしてから、おもむろに身を隠す女三宮。この描写も芸が細かい。そのあと、恋人をしのぶよすがに猫を貰い受け、異常な愛情を注ぐ柏木。なんだか近代の心理小説みたいだ。
密通の場面も読み応えがある。柏木の手引きをするのは小侍従という女房であるが、小侍従の無思慮に対して作者の目は冷ややかである。柏木は、女三宮こそ最高の貴婦人と勝手な想像をしていたのだが、相手が無抵抗で可憐な少女であると分かると、落胆するのではなく、むしろ「ただ一言、もの越しに」という当初の要求を一息に踏み越えて、不義を犯してしまう。ふーむ、男性心理ってそういうもの? また、「ゆか(御帳台)の下にいだきおろし奉る」という描写の迫真性にも舌を巻く。女三宮のベッドに上がり込むのではなく、ベッドの下で事を行うわけね。
そのあと、女三宮の居室で柏木の手紙を発見してしまった源氏が、「こういう手紙は、誰かに見られても困らないように、(密通の事実は)おぼめかして書くものだ」と嘆くのもおもしろい。こんな幼稚で不用意な奴らに出し抜かれたってことが我慢ならないんだろうな。やがて、試楽のために六条院を訪れた柏木を源氏はいたぶる。
かつて藤壷中宮との不義密通を犯した源氏が、いま、父帝と同じ立場に立たされたことを、「因果応報」の思想として取り出す考え方があるけれど、これは当たっていないと思う。むしろ、源氏は、若い恋人たちに思わぬ足元を掬われた自分の「老い」に驚愕し、怯えているように見える。
長くなってしまった。やはり「若菜」は名編だね。続く。