見もの・読みもの日記

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興福寺のみほとけ/芸大美術館

2004-10-05 12:11:05 | 行ったもの(美術館・見仏)
○東京芸術大学大学美術館「興福寺国宝展 鎌倉復興期のみほとけ」

http://www.geidai.ac.jp/museum/

 興福寺は何度も行っているので、仏像にも見知った顔が多い。「やあやあ、出張、ご苦労様」と声をかけたくなる。

 法相六祖像は、いかにも鎌倉期らしい、人間くさい肖像彫刻である。以前も「(伝)善珠像」を見ながら、「こういうおじさん、司計課とかにいるよね」「たたき上げで頑固だけど、部下の面倒見はよさそう」なんて、友だちと笑ったことがある。

 無著・世親も好きな彫刻だ(広義には”仏像”と呼んでいいんだろうけど、なんとなく落ち着かない)。北円堂が開いているときを狙って、2、3度見に行ったことがある。

 北円堂は境内の隅にあるし、普段は開いていないから、修学旅行生や団体客はあまり来ない。たいがい、数寄者ばかりが、時間を忘れて仏像と向き合っている。照明設備の乏しい(あまり記憶がない)、薄暗いお堂の中で、無著・世親は、本尊の弥勒坐像の背後、わりと奥のほうにおいでになる。その距離感がもどかしいが、黙って対峙していると、距離を超えて伝わってくる迫力をじわじわ感じることができる。

 ところが、今回の展示会場では、無著・世親は客寄せの「目玉」らしく、最高のポジションで、計算しつくされた照明の下に立たされている。その結果、かなり印象が違うのだ。私は、自然光か、または図録の写真のように、少し下から照明を当てて、表情を分かりやすくした写真でしか彼らを見たことがなかった。それが、上からのライティングによって陰翳が強調されると、2人とも妙に男前に変身している(特に世親)。

 私は慌ててしまった。親しい知人(それも男友だち)が急に男前な恰好で現れると、気恥ずかしくて声がかけられなくなってしまう、あの心理に似ている。やれやれ。

 そのほかでは、龍燈鬼が来ている(天燈鬼はお帰り済み)。おすすめ鑑賞法は展示ケースの側面に立って背後を覗き込むこと。ふんどし姿の龍燈鬼のお尻を見ることができる。なお、この龍燈鬼も照明がキツすぎて、玉眼が透けてしまい、上目遣いの愛嬌のある表情が分かりにくいのが残念だ。

 仮金堂の四天王は初めて見るものだろうか。全く記憶になかった。力強く、破綻のない巨像である。四天王4体だけを背中合わせに配置した展示方法がおもしろいと思った。周囲を回りながら鑑賞していると、風をはらんで彼ら自身が回っているように見えてくる。お寺ではありえない配置だが、ドラマチックでカッコいい。

 いちばん奥の展示室には、焼失した西金堂本尊の遺品と推定される釈迦如来頭部と大きな両手の断片があった。周囲の壁面に、数体の飛天と化仏を、あたかも光背のように扇形に飾って、往事の本尊の姿を想像させようと試みている。これも印象深い展示方法であった。

コメント (1)
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