見もの・読みもの日記

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朝鮮飴売りの正体/飴と飴売りの文化史(牛嶋英俊)

2011-11-03 23:24:57 | 読んだもの(書籍)
○牛嶋英俊『飴と飴売りの文化史』 弦書房 2009.5

 「飴売り」に関しては、年来、いくつか疑問に思っていたことがあった。朝鮮及び唐人飴売りのことだ。たまたま書店で本書を見て、私の疑問を解決してくれそうだったので、すぐ買ってしまった。

 さて、本書で取り扱う飴とは「米・粟を主とする穀類や芋などデンプンをふくむ材料を、糖化酵素によって糖化させた食品」をいう。本来、砂糖は含まない。なんと日本書記の神武紀には「水無しに飴(たがね)を造らむ」という記事があり、天平9年の但馬国正税帳(正倉院文書)には読経供養料として「阿米(あめ)」をつくるための米が支給された記録がある。すごい! そんなに古いのか。平安京の西市で飴が「売られていた」という記録もあるそうだ。

 平安時代、宮中では生薬の「地黄煎(じおうせん)」を飴で練って服用する習慣があった。やがて地黄煎の入らない水飴も「地黄煎(飴)」と呼ぶようになり、訛って、ギョウセン飴→ちゃうせん飴→朝鮮飴(江戸時代)と誤読されるようになったという。おお~まるで手品の種明かしだ。

 一方で、中世以降、唐人が新たな飴の製法を伝えたという伝承も各地に多い。鎌倉・室町時代は「今日の想像以上に国際交流が活発な時代」で、11世紀には博多に大唐街(宋人百堂)があったとか、小田原にも唐人街があったとか聞くと、中世日本のイメージがかなり変わる。しかも彼ら唐人は、日本各地をひろく遍歴して、飴やおこしなどを売り歩いていたという(網野善彦氏の説)。

 その記憶に連なるのか、江戸時代の絵画資料には、朝鮮風の帽子をかぶり、唐人笛というラッパ状の笛を吹いて子供を集める飴売りの姿が数多く描かれている。これは朝鮮通信使の特徴に近い。庶民が目にすることのできる、ほとんど唯一の外国人が通信使であったためだろうと、著者は推測している。「笛を吹く飴売り」は、明治以降、石川啄木の短歌や島崎藤村の短編にも登場し、ほぼ全国的に定着していたことが分かる。

 この「飴つくり・飴売り」を担った人々であるが、江戸時代には、村全体で飴をつくり、行商や祭りの露店で売る「特定の集落」というものが、全国各地にあった。本書には、著者の研究フィールドである筑前・豊前のほか、会津、加賀、千葉などの例が取り上げられている。近世社会には「農民」身分であっても、実態は「雑業」が主という村が、街道沿いなどに生まれていたのである。

 ところが、近代に入ると、ほんものの朝鮮人(半島出身者)の飴売りが登場する。「戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事検索」データベース(こんなものがあるのか!)によると、その初出は、明治42年3月の大坂日日新聞だという。ただし、彼らのスタイルは、同時期の朝鮮における飴売り(駅弁売り風の箱を首から下げ、ハサミを鳴らす)とは異なり、天秤棒で屋台をかつぐ日本式だった。彼らは飴売りとして渡来したのではなく、土木工事の労働者などとして来日した後、少ない元手で簡単に始められる商売として、日本の親方のもとで、飴売りになるケースが多かったようだ。

 それでも飴売りになる朝鮮人が多かったのは、「飴売り=唐人(外国人)」のイメージが日本人側にあったためではないかという。江戸の人々のフィクションだった唐人飴売りが、近代以降、朝鮮人飴売りとして現実となる。そんなことあっていいの?と思うような、不思議な話である。なお、唐人笛を吹く販売スタイルは、日本人香具師の専売特許となっていたため、新参の朝鮮人飴売りは、逆に笛を吹くことを許されなかったのではないか、ともいう。現実って、かくも倒錯的なものか。
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