見もの・読みもの日記

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ポスト3.11のジャーナリズム/原発報道とメディア(武田徹)

2011-11-27 02:09:03 | 読んだもの(書籍)
○武田徹『原発報道とメディア』(講談社現代新書) 講談社 2011.6

 3月11日の東日本大震災で、私がいちばん強い動揺を感じたのは「メディア」の問題である。もちろん、福島第一原発にしても、日本のエネルギー政策にしても、農業や被災者救済についても考えたいと思うのだが、そもそもメディアが信じられなければ、なべて判断停止のジレンマに陥ってしまう自分に気がついた。

 著者の武田徹氏は、大学等でメディア社会論の研究活動も行っているジャーナリスト。私は武田氏の著書を読むのはこれが初めてだが、たぶんネット媒体で、何かの評論を読んでいたのだと思う。なんとなく自分の求めているものが見つかりそうな予感がして、本書を手に取った(ちなみにブログ検索をかけたら、2008年の情報学環・読売新聞共催シンポの登壇者だったと分かった)。

 著者は、2003年から5年間、文科省の科学技術振興調整費による「安全安心な社会を実現する科学技術人材養成」プロジェクトの下で、ジャーナリスト育成に携わっていた。にもかかわらず、著者は「安心」「安全」という言葉に対して「否定的だった」と自ら語っている。多数派や権力者側が自分たちの安心・安全を追求することは、少数派を危険に陥れることがあり得る。たとえば、かつてのハンセン病隔離政策。安心・安全の名の下に、正義が暴力に変わり得ることを、ジャーナリズムは批評的にチェックする必要がある。まず、この立ち位置に、私は深く共感した。

 しかし、震災の経験から、人間が日々の生活を送る上で最低限必要な「安心・安全」があることに、著者は立ち返り、排他的な「安心・安全」を批判的に解体しながら、同時に「基本財としての安心・安全」を誰に対しても公平に実現していくことを、3.11以後のジャーナリズムの課題に掲げる。

 具体的に、私たちが乗り越えなければならないものは何か。たとえば、原発推進か反対かという二分法が「囚人のジレンマ」をもたらし、「より安全な原発」という第三の道(リスクの総量を減らす選択)を困難にしてきたことを考え直すべきではないか。

 原発関連の報道については、情報隠蔽や偏向報道という批判がマスコミに対して投げかけられた。しかし「知る」ことが「不安」を引き寄せ、「危険」の原因になることもある。全ての情報が透明に共有される社会を理想とする単純な価値観だけでは、真に公共的な報道は実現できない。

 微量の放射線被爆の影響は、さまざまな不確定性を含んでいるといわれている。確率的現象に対して、ジャーナリズムの事実主義は適合しない。できる限りの真摯さでグレーゾーンの確率的現象に迫る必要はあるが、不安をいたずらに掻き立て、空しい分派闘争を引き起こす報道は避けるべきである。これは報道関係者だけでなくて、3.11以後を生きる私たちひとりひとりに課せられた課題だと思って読んだ。「確率的リスクの排除に躍起になることではなく、むしろそれと共に生きる矜持」というのは、胸に残る言葉だった。

 本書は、もともと東日本大震災とは無関係に構想されていたジャーナリズム論を、このたびの震災と原発事故を受けて加筆されたものだという。後半(第2部)は、3.11以後のメディア状況を踏まえつつも、もう少し射程の長いマスメディア&ネットメディア論になっている。特に、アメリカの戦争報道の変遷、ベトナム戦争(テレビ報道によって国民の支持を失った経験)→湾岸戦争(代表取材方式による「きれいな戦争」のイメージ操作)→イラク戦争(大規模な従軍取材容認による、より洗練された情報操作)の分析は面白かった。

 ベトナム戦争の反省から、レーガン政権の情報操作を発案したマイケル・ディーバーが「なぜあなたの手法が功を奏したのか」と問われて「それはテレビが娯楽のメディアだったからです」と答えていることは、1960年代末に制作プロダクション「テレビマンユニオン」を立ち上げた放送人たちが、著書のタイトルに冠した「お前はただの現在にすぎない」というテレビ観(反語的な矜持を感じさせる)と対比して、考えさせられるものがある。

 刺激的な情報(娯楽)を選別し、大衆が最も知りたいものを知らせる、という点では、グーグルもマスメディア・システムの一種(むしろ理想のマスメディア)と言うことができる。しかし、「反検索的ジャーナリスト」は、人気投票の対極に軸足を置き、世間の関心事になっていなくても議題化されるべきニュースを拾い上げ、それを報じることによって、公共性に資するべきなのだ。そこに必要なのは「正義の論理」ではなく「ケアの論理」である。

 きれいごとだという批判はあるかもしれない。でも、当面の生活を脅かされなかった私としては、被災者の尻馬に乗って「責任者出てこい」的な言動を取るのではなく、原発是か非かでもなく、こういう思考の整理をこそしたかったのである。原発事故という具体的な事象に即しつつ、「具体」の水面下に深く潜っていくような好著だと思った。
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