見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2011秋の九州遊:福岡/トピック展示(九博)

2011-11-22 23:19:53 | 行ったもの(美術館・見仏)
九州国立博物館

 『草原の王朝 契丹』展といっしょに見てきたもの。

■トピック展示『九州大学百年の宝物』(2011年11月15日~12月18日)

 1911年(明治44年)に創設された九州大学の百周年を記念する展示会。文化交流展示室(平常展示)第11室では、古地図など主に人文社会科学系の資料、1階ミュージアムホール・エントランス(入場無料)では、自然科学系の資料が見られる。前者に含まれる仙義梵の書画は、医学部名誉教授の中山森彦博士が蒐集したものだという。鉱山学の関連書がめずらしく、面白かった。山相を見定める山師という職業があったのだな…。後者は、ずらり並んだ鉱物や昆虫の標本が壮観。人間の頭蓋骨もあり。

■トピック展示 京都・檀王法林寺開創400年記念『琉球と袋中上人展-エイサーの起源をたどる-』(2011年11月1日~12月11日)

 文化交流展示室(平常展示)第9、10室。袋中(たいちゅう)は、慶長8年(1603)琉球に渡って浄土教の教えをひろめた人物。袋中が伝えた念仏は、沖縄の伝統芸能エイサーのなかに、念仏歌として受け継がれている。その袋中ゆかりの京都・檀王法林寺の宝物を展示。もしや、と思ったけど『熊野権現影向図』を見つけたときは、笑ってしまった。2009年に和歌山県立博物館の『熊野三山の至宝』展を見にいったとき、大きな写真パネルになっていたのが印象的で、いつかホンモノが見たい、と思っていたのだ。実物の画幅は意外と小さい。しかし、湧き上がる雲の上に現れた熊野権現の巨大さは、地上に描かれた小さな朱塗りの社や、豆粒のような人間から想像することができる。和歌山で知った図像に九州で出会うというのも不思議な巡り合わせだが、画賛は臨済僧の南山士雲が博多の承天寺に滞在していたときのものだというから、全く九州に縁がないわけではない。

 『波濤飛龍図前掛け』は、祇園祭の黒主山で1989年まで使われていた。文化年間に檀王法林寺から黒主山に送られたもので、中国の繊維であり(そんなことが分かるのか)、もとは婦人の官服だったという。

■その他の平常展示 『埴輪・石人石馬・装飾古墳~にぎやかだった古墳のまつり~

 石人石馬とは、日本の古墳に埴輪(はにわ)のように置かれた石造彫刻。鳥取の1例を除き、福岡・熊本・大分3県に見られる。中国とは無関係らしい。しかし、突然消え失せ、入れ替わりに装飾古墳と埴輪が登場する。埴輪は少数だが韓国でも発見されている。初めて知ったことが多く、いろいろ想像を刺激されて、面白かった。

※おまけ:九博レストラン「グリーンハウス」、『契丹』展にちなんだ限定メニュー、プリンセスランチで遅めの昼食。さすがクオリティが高い。美味、美味。


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2011秋の九州遊:福岡/草原の王朝 契丹(九博)

2011-11-22 00:08:56 | 行ったもの(美術館・見仏)
九州国立博物館 特別展『草原の王朝 契丹-美しき3人のプリンセス-』(2011年9月27日~11月27日)

 九博の秋の特別展が「契丹」だと知ったときは、必ず行こう!と思った。契丹は、Wikiによれば、4世紀から14世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族。10世紀初頭に現在の中国の北部に帝国を建国し、遼と号した。むかし、高校の世界史の授業では、「遼」という国号を年表の端にちらっとだけ見た記憶がある。

 私が「契丹」に明確なイメージを持つようになったのは、2003年、中国中央電視台制作のドラマ『天龍八部』を見てからだ。漢人として育てられた蕭(喬)峯が、出生の秘密を知り、「我是契丹人(俺は契丹人だったのか…)」と動揺してつぶやくところは印象的だった。最終的に、彼は自分の民族的出自を受け入れ、「契丹人、一諾千金!」と言い残して、誇り高く死に赴く。嗚呼、蕭峯~。なつかしいな~。

 2007年には、北方謙三さんの小説『楊家将』と『血涙』を読んだ。中国明代の古典文学『楊家将演義』を原典としているが、北方版は、宋の武将・楊一族の宿敵である遼(契丹)の描写が非常に詳しく、しかも人物が魅力的に描かれている。そんなわけで「契丹」と聞くと、私は胸が躍るのである。

 しかし、『天龍八部』にしても北方版『楊家将』にしても、ハードボイルドなイメージが強かったので、展覧会の売りが、「美しき3人のプリンセス」(公式サイトに、昭和な雰囲気のお姫さまイラストあり)だということに、私は苦笑いしてしまった。でも、本展は、従来「遊牧民族の野蛮なイメージ」の強かった契丹文化が、実は華やかな「大唐の遺風」を受け継いでいるという発見を重要テーマとしているので、「プリンセス」という切り口は正しいかもしれない。

 1人目のプリンセスは、陳国公主。1986年、出土。契丹貴族の特異な葬送習俗である黄金のマスクには見覚えがあった。私は2010年夏に包頭の内蒙古博物院を訪ねているので、そこで見たのだと思ったが、ブログの過去記事を検索したら、同年春、江戸博の特別展『チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展』でも展示されていたらしい。夫婦並んだ出土写真は、今回も印象的だった。

 2人目は、初代皇帝耶律阿保機に近しい皇族女性としか分からないので、本展では「トルキ山のプリンセス」と呼ばれている。2003年、出土。この副葬品がすばらしい。精緻で華やかな唐風を受け継ぎながら、盛唐の工芸品にない、清新な躍動感を感じさせる。龍、獅子、鳳凰、マカラ、何て溌剌として、愛らしいんだ! 古代の日本が、やはり唐風に学びながら、童心に満ちた「小ささ」「カワイさ」に特化していくのと比較してみると面白い。民族的な嗜好ってあるのかな。それにしても二十四孝、竹林の七賢など、中国の故事に取材した工芸品がたくさんあることにも、びっくりした。契丹の初期文化が、こんなに「唐風(漢人風)」だったとは! まあ考えてみれば、隋も唐も、もとは北方遊牧民族系(鮮卑族)なのだし。華と夷は、つねに連続的なのだ。

 3人目は、第6代皇帝聖宗妃、章聖皇太后。皇太后をプリンセスと呼ぶのは無理がある気がするが…目をつぶろう。内モンゴル自治区赤峰市に残る慶州城の白塔から、1980年代末に奉納品と碑文等が見つかり、発願者が章聖皇太后であることが分かったという。慶州白塔は、建築家・関野貞のアジア踏査を紹介した展覧会で、古いフィルム(を焼き直した映像)を見た記憶がある。はじめ、慶州?どこの?と場所が分からなかったが、あとで内モンゴルだと知った。これとは別に、穏やかな表情の菩薩頭部2点が展示されていて、「フフホト市東部の万部華厳塔」の基礎から発見されたものとあった。あの酔っ払い管理人のいた白塔か!(2010年訪問)。

 九博の情報誌(無料)「Asiage」に「日本では100年に1度あるかないかと大発見が、内モンゴルでは毎年のようにあります」と書かれているが、確かに、この20年くらいで新たに分かったことが、たくさんあるんだろうな。さらに20年くらいしたら、遊牧民族国家のイメージが、すっかり変わっているかもしれない。

 本展は、九博が開館前から6年の歳月をかけて準備してきた企画だという。その熟成した「愛情」が感じられ、発見も多くて、楽しい展覧会だった。九博のサイトでは巡回情報を見つけられなかったので、どこにも回らないものだと思っていたが、YouTubeの紹介ビデオを見たら、静岡→大阪→東京(芸大美術館)と巡回することが分かった。なんだと…でも、1年間も待っていられなかったから、行っちゃって悔いなし。

 たぶん九博だけの企画で、「ぶろぐるぽ」にエントリーすると展示品の画像を使わせてくれるという特典がある。せっかくなので、個人的な趣味で、いくつか紹介。

↓契丹人の髪型。男性は前髪を残して頭頂部を剃り落とす。そうそう、中国製ドラマでもこれだったが、どうしても笑ってしまう。


↓トルキ山古墓の彩色木棺。2003年の発掘後、乾燥によって変色してしまったが、内蒙古文物考古研究所と九博の共同プロジェクトによって、発見当初の色彩に修復された。出土品はデリケートだなあ。


↓赤峰市出土。10~12世紀。墓室の壁だというが、あまりに楽しげな奏楽図で、墓室の主が羨ましくなってしまった。


↓フフホト市東部の万部華厳塔出土の菩薩頭部。きれいな塔だったなあ。

コメント (2)
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