○橋本治『双調 平家物語』1~4(中公文庫) 中央公論新社 2009.4-7
年末から長い小説を読んでいる。さすがに全16巻は長いので、少し区切って感想を書こうと思う。
昨年、大河ドラマ『平清盛』にハマって、平家平家と騒いでいたら、橋本治の『双調 平家物語』読む?と言ってくれた友人がいた。年末に文庫本で全16巻を2回に分けて借りてきた。「ただし清盛は7巻まで出てこないからね」と言われて、へ?と思ったが、読み始めて、そういうことか、と納得した。
古典『平家物語』の冒頭は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まるが、そのあと「遠く異朝をとぶらへば」に続けて、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の(安)禄山の名前を挙げ、「近く本朝をうかがふに」で、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼を挙げている。本書もこれにならってか、本題(平家の物語)に入る前に、これに先立つ和漢の権臣・叛徒の物語が続くのだ。
「序の巻」(1)は、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异(朱異、周伊)を短く紹介したあと、安禄山の物語から、本格的に小説世界に入っていく。舞台は変わって、「飛鳥の巻」(1、2)。藤原鎌足から始まると見せて、さらに時代を遡り、蘇我馬子-蝦夷父子が、継体王朝の昔を物語るところから本朝の歴史が始まる。あ、やっぱり我が国の「叛徒」の始まりといえば、蘇我入鹿なのかーと思ったが、ここからは「叛徒」だけを取り上げる列伝スタイルでなく、ずるずると編年体というか系譜に従って、古代史語りが続く。上宮王家の滅亡があり、大化の改新があり、「近江の巻」(3)に移って、壬申の乱、「奈良の巻」(4)では、長屋王の変、藤原広嗣の乱が起こる。
面白い。かなり大量の人物が登場するが、なつかしくて、全く苦にならない。戦国と幕末オンチの私にとって、古代史は得意分野なのだ。むかし読んだマンガ『日出処の天子』や井上靖の小説『額田女王』の記憶が鮮やかによみがえる。馬子、蝦夷、入鹿、天智、天武、持統あたりの人物造形は、だいたいこれまでのイメージどおりだったが、大津皇子や有馬皇子は、もう少し、よく描いてほしかった。
奈良朝の人々は、かなり私のイメージと異なっており、聖武天皇って、こんなダメなやつだったのか…と呆れながら読んだ。橘諸兄と吉備真備も、あまり好意的に描かれていなくて残念。好きなので。万葉歌人では大伴家持がわずかに言及されるだけというのもさびしい。山上憶良なんか、首皇子(聖武天皇)の東宮侍講の一人として出てきてもいいのに。このへん(奈良の巻)は、著者が少し物語の進行を急いでいるようにも感じられた。それから、些細なことだが「皇子=おうじ」「王=おう」という振り仮名は、どうしても受け付けなくて、全て「皇子=みこ」「王=おおきみ」に脳内変換して読み続けた。
冒頭「序の巻」の玄宗皇帝・楊貴妃と安禄山の物語も、私には十分親しいものだった。いちばん恩恵を受けたテキスト、大室幹雄の『遊蕩都市』をなつかしく思い出す。それに比べると、本書の描く安禄山には、どことなく「和臭」を感じた。「蕃人」である安禄山は「漢人」に対して強いコンプレックスを持っていることになっているが、このせせこましいこだわり方が、いかにも「日本人作家が描く古代中国像」に思われる。閑話休題。
本題「平家の物語」に突入するのは、まだかなり先のようだが、来たるべき「平家の物語」を念頭に古代の歴史を読んでいると、「遷都」や「太上天皇」や「太政大臣」の意味に、なるほど、とひらめくものがある。やっぱり、歴史を始まりから学んでいくというのは、意味のあることなんだな、という納得を体験中。
年末から長い小説を読んでいる。さすがに全16巻は長いので、少し区切って感想を書こうと思う。
昨年、大河ドラマ『平清盛』にハマって、平家平家と騒いでいたら、橋本治の『双調 平家物語』読む?と言ってくれた友人がいた。年末に文庫本で全16巻を2回に分けて借りてきた。「ただし清盛は7巻まで出てこないからね」と言われて、へ?と思ったが、読み始めて、そういうことか、と納得した。
古典『平家物語』の冒頭は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まるが、そのあと「遠く異朝をとぶらへば」に続けて、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の(安)禄山の名前を挙げ、「近く本朝をうかがふに」で、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼を挙げている。本書もこれにならってか、本題(平家の物語)に入る前に、これに先立つ和漢の権臣・叛徒の物語が続くのだ。
「序の巻」(1)は、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异(朱異、周伊)を短く紹介したあと、安禄山の物語から、本格的に小説世界に入っていく。舞台は変わって、「飛鳥の巻」(1、2)。藤原鎌足から始まると見せて、さらに時代を遡り、蘇我馬子-蝦夷父子が、継体王朝の昔を物語るところから本朝の歴史が始まる。あ、やっぱり我が国の「叛徒」の始まりといえば、蘇我入鹿なのかーと思ったが、ここからは「叛徒」だけを取り上げる列伝スタイルでなく、ずるずると編年体というか系譜に従って、古代史語りが続く。上宮王家の滅亡があり、大化の改新があり、「近江の巻」(3)に移って、壬申の乱、「奈良の巻」(4)では、長屋王の変、藤原広嗣の乱が起こる。
面白い。かなり大量の人物が登場するが、なつかしくて、全く苦にならない。戦国と幕末オンチの私にとって、古代史は得意分野なのだ。むかし読んだマンガ『日出処の天子』や井上靖の小説『額田女王』の記憶が鮮やかによみがえる。馬子、蝦夷、入鹿、天智、天武、持統あたりの人物造形は、だいたいこれまでのイメージどおりだったが、大津皇子や有馬皇子は、もう少し、よく描いてほしかった。
奈良朝の人々は、かなり私のイメージと異なっており、聖武天皇って、こんなダメなやつだったのか…と呆れながら読んだ。橘諸兄と吉備真備も、あまり好意的に描かれていなくて残念。好きなので。万葉歌人では大伴家持がわずかに言及されるだけというのもさびしい。山上憶良なんか、首皇子(聖武天皇)の東宮侍講の一人として出てきてもいいのに。このへん(奈良の巻)は、著者が少し物語の進行を急いでいるようにも感じられた。それから、些細なことだが「皇子=おうじ」「王=おう」という振り仮名は、どうしても受け付けなくて、全て「皇子=みこ」「王=おおきみ」に脳内変換して読み続けた。
冒頭「序の巻」の玄宗皇帝・楊貴妃と安禄山の物語も、私には十分親しいものだった。いちばん恩恵を受けたテキスト、大室幹雄の『遊蕩都市』をなつかしく思い出す。それに比べると、本書の描く安禄山には、どことなく「和臭」を感じた。「蕃人」である安禄山は「漢人」に対して強いコンプレックスを持っていることになっているが、このせせこましいこだわり方が、いかにも「日本人作家が描く古代中国像」に思われる。閑話休題。
本題「平家の物語」に突入するのは、まだかなり先のようだが、来たるべき「平家の物語」を念頭に古代の歴史を読んでいると、「遷都」や「太上天皇」や「太政大臣」の意味に、なるほど、とひらめくものがある。やっぱり、歴史を始まりから学んでいくというのは、意味のあることなんだな、という納得を体験中。