○Bunkamuraザ・ミュージアム 『白隠展』(2012年12月22日~2013年2月24日)
江戸時代中期の禅僧・白隠慧鶴(はくいんえかく)(1685~1768)が残した大量の書画から、大作を中心に約100点(展示替あり)を厳選。質、量ともに「史上最高の白隠展」を目指した展覧会。
冒頭に掲げられたのは、長野・龍嶽寺の『隻履達磨』。大きな禿頭、丸々した三白眼の主(達磨)が、異様に小さい手に小さい靴の片方を携えている。山下裕二先生の解説によれば、左右の瞳の位置が著しくずれているという。なるほど、さらに瞳の大きさもずいぶん違う。ぞろりとした長衣をまとい、体を少し傾げて「ぬらり」と現れ出たところは、ちょっと妖怪じみている(ポーズがねずみ男みたいだ)。下絵の線を全然気にしていないのも愉快。
本展は、白隠が生涯かけて描いたキャラクターを「釈迦」「観音」「達磨」「布袋」「福神」などに分けて、紹介していく。白眉は、円形に配置された「達磨」のセクションだろう。大分・万寿寺の『半身達磨』は「東日本初公開」とあった。そうなんだっけ? この作品、書籍や山下先生の講演で何度も見ていたので、初見とは思えなかった。墨で塗りつぶした漆黒の背景、赤い衣、そして上気した白人のように薄い朱を引いた顔面が、大胆で美しい。その隣りの静岡・清見寺の『半身達磨』は墨画だが、全く迷いがなく(下絵を描いてないのかな?)清冽な作品。83歳の制作だという。
これらに比べると、白隠が30代、40代に描いた「達磨」には、「上手く描こう」と焦りながら、その顕示欲に忸怩として悩む、神経質で小心な作者の姿が投影されている。そうだよなあ、30~40代なんて、こんなものよ。できないことがたくさんあって当たり前なのだ。小さくまとまった大人になろうとしなかった者だけが、白隠80代みたいな境地に至り得るんじゃないかと思う。
と思って、ふっと振り返ったところにあったのが『眼一つ達磨』(個人蔵?)。これ、瞬間的に、あ、知っているぞ、と思ったのだが…山下先生の講演か何かで写真を見たのだろうか。ぞっとするようでもあり、可笑しくもある謎の作品。それにしても、この展示スペースの面白さは、どうしても展示ケースのガラスに背後の作品が映り込んでしまうのだが、それが却って効果をあげていたこと。比較的小さな『眼一つ達磨』に向き合っているとき、万寿寺の『半身達磨』の巨大な顔面が、同時に視界に入っていたりするのが面白い。
キャラクター的には大燈国師も好きだ。人を取って噛みちぎりそうな怖い顔をしている。大徳寺の開山・宗峰妙超のことで、私はこのひとの書跡も好きなのだ。布袋、すたすた坊主、お福さんなど、おなじみの庶民派キャラのほかに、関羽像なども描いているのか。戯画もいろいろ。意味不明なれど『びゃっこらさ』の白狐が私の好みだ。そして、最後の「墨蹟」がまた独特である。
会場内では、山下先生と俳優の井浦新さんが掛け合いで登場する音声ガイドを借りた。はじめは、どちらも「脚本を読んでいる(読まされている)」感があったが、だんだん乗ってくると、本当に二人で喋っているようで面白かった。
最後に、この展覧会について、特筆しておきたいことがいくつかある。まず、監修者その1、その2として名前を連ねている芳澤勝弘先生と山下裕二先生。こういう研究者個人の視点を強く打ち出すスタイル、公立の美術館や博物館では難しいのかもしれないけど、私は好きだ。そして、監修者が顔を出す楽しいイベントがたくさん企画されているが、私が気づいたときは、どれも定員に達して締め切っていた。無念。
デパートの附属施設だから当たり前かもしれないが、連日10:00~19:00、金・土は21:00まで開館というのは、勤め人ばかりでなく、忙しい学生にとっても来やすいと思う。それから、展示ケースの奥行が狭いので、舐めるような至近距離で作品を味わうことができるのも嬉しい。会場の様子は展覧会詳細ページに貼り付けられたYouTube動画で、ほぼ全体像を見ることができる。「隠す」よりも「見せる」ことで人を呼び込むのは、正しい戦略だと思う。ただし『眼一つ達磨』は映していないんだな。あれは会場で驚くほうがいい。こういう周到な配慮も好ましく感じた。では、続きは会場で!
江戸時代中期の禅僧・白隠慧鶴(はくいんえかく)(1685~1768)が残した大量の書画から、大作を中心に約100点(展示替あり)を厳選。質、量ともに「史上最高の白隠展」を目指した展覧会。
冒頭に掲げられたのは、長野・龍嶽寺の『隻履達磨』。大きな禿頭、丸々した三白眼の主(達磨)が、異様に小さい手に小さい靴の片方を携えている。山下裕二先生の解説によれば、左右の瞳の位置が著しくずれているという。なるほど、さらに瞳の大きさもずいぶん違う。ぞろりとした長衣をまとい、体を少し傾げて「ぬらり」と現れ出たところは、ちょっと妖怪じみている(ポーズがねずみ男みたいだ)。下絵の線を全然気にしていないのも愉快。
本展は、白隠が生涯かけて描いたキャラクターを「釈迦」「観音」「達磨」「布袋」「福神」などに分けて、紹介していく。白眉は、円形に配置された「達磨」のセクションだろう。大分・万寿寺の『半身達磨』は「東日本初公開」とあった。そうなんだっけ? この作品、書籍や山下先生の講演で何度も見ていたので、初見とは思えなかった。墨で塗りつぶした漆黒の背景、赤い衣、そして上気した白人のように薄い朱を引いた顔面が、大胆で美しい。その隣りの静岡・清見寺の『半身達磨』は墨画だが、全く迷いがなく(下絵を描いてないのかな?)清冽な作品。83歳の制作だという。
これらに比べると、白隠が30代、40代に描いた「達磨」には、「上手く描こう」と焦りながら、その顕示欲に忸怩として悩む、神経質で小心な作者の姿が投影されている。そうだよなあ、30~40代なんて、こんなものよ。できないことがたくさんあって当たり前なのだ。小さくまとまった大人になろうとしなかった者だけが、白隠80代みたいな境地に至り得るんじゃないかと思う。
と思って、ふっと振り返ったところにあったのが『眼一つ達磨』(個人蔵?)。これ、瞬間的に、あ、知っているぞ、と思ったのだが…山下先生の講演か何かで写真を見たのだろうか。ぞっとするようでもあり、可笑しくもある謎の作品。それにしても、この展示スペースの面白さは、どうしても展示ケースのガラスに背後の作品が映り込んでしまうのだが、それが却って効果をあげていたこと。比較的小さな『眼一つ達磨』に向き合っているとき、万寿寺の『半身達磨』の巨大な顔面が、同時に視界に入っていたりするのが面白い。
キャラクター的には大燈国師も好きだ。人を取って噛みちぎりそうな怖い顔をしている。大徳寺の開山・宗峰妙超のことで、私はこのひとの書跡も好きなのだ。布袋、すたすた坊主、お福さんなど、おなじみの庶民派キャラのほかに、関羽像なども描いているのか。戯画もいろいろ。意味不明なれど『びゃっこらさ』の白狐が私の好みだ。そして、最後の「墨蹟」がまた独特である。
会場内では、山下先生と俳優の井浦新さんが掛け合いで登場する音声ガイドを借りた。はじめは、どちらも「脚本を読んでいる(読まされている)」感があったが、だんだん乗ってくると、本当に二人で喋っているようで面白かった。
最後に、この展覧会について、特筆しておきたいことがいくつかある。まず、監修者その1、その2として名前を連ねている芳澤勝弘先生と山下裕二先生。こういう研究者個人の視点を強く打ち出すスタイル、公立の美術館や博物館では難しいのかもしれないけど、私は好きだ。そして、監修者が顔を出す楽しいイベントがたくさん企画されているが、私が気づいたときは、どれも定員に達して締め切っていた。無念。
デパートの附属施設だから当たり前かもしれないが、連日10:00~19:00、金・土は21:00まで開館というのは、勤め人ばかりでなく、忙しい学生にとっても来やすいと思う。それから、展示ケースの奥行が狭いので、舐めるような至近距離で作品を味わうことができるのも嬉しい。会場の様子は展覧会詳細ページに貼り付けられたYouTube動画で、ほぼ全体像を見ることができる。「隠す」よりも「見せる」ことで人を呼び込むのは、正しい戦略だと思う。ただし『眼一つ達磨』は映していないんだな。あれは会場で驚くほうがいい。こういう周到な配慮も好ましく感じた。では、続きは会場で!