■浄教寺(京都市下京区)(再訪)
前日(2013/1/13)の続き。朝から京都を発って、名古屋に向かう予定にしていたが、その前に、もう一回、寺町四条下ルの浄教寺に寄ってみる。すると、さすがお寺さんは朝が早くて、門が開いていた。境内の車の背後に見える石碑に「内大臣平重盛公之碑」という文字が、なんとか読めた。
三連休最終日は、京都も名古屋も冷たい雨。名古屋市博物館で『古事記1300年 大須観音展』を見る(これは別稿)。その後、大須観音にお参りすることも考えたが、今回は割愛。
■熱田神宮(名古屋市熱田区)
記憶を探ると、20年くらい前に一度来て以来である。今回は、源頼朝の母・由良御前(大宮司・藤原季範の娘)のゆかりで訪ねてみた。
宝物館で、新春特別展・創祀千九百年記念『熱田神宮名宝展』(2013年1月1日~29日)を見ていく。刀剣類が多くて、しかも非常に美しい。そうか、ここは草薙の剣がご神体だったな、と迂闊にもようやく気づく。あらためてWikiで「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」について読んでみたら、いろいろ面白かった。結局、現在の所在については諸説あるのかー。
そして、ますます強まる雨に心くじけそうになりながら、せっかくここまで来たので、神宮前駅から名鉄に乗車、次の訪問予定地へ。
■野間大坊(知多郡美浜町)
名鉄特急で約1時間。知多半島を走る知多新線の終点の1つ手前が野間駅である。ここが平治の乱で敗れた源義朝の終焉の地と伝えられ、大御堂寺(野間大坊)には義朝の墓所が営まれている。駅前はこんな感じ。見事に何もない。
折りたたみ傘を風に吹きあおられ、枯れた田野を眺めながらトボトボ歩いていくと、10分ほどで、少し人家の密集した集落に着いた。山門の正面が大御堂寺の本堂。左に客殿があり、知多四国八十八ヶ所では、本堂が大御堂寺(50番札所)、客殿が野間大坊(51番札所)とされている。
また、本堂の右手にあるのが、源義朝公の墓所。多数の小太刀(木刀)が供えられている。奥に小さく見えている立札は「鎌田政家夫妻之墓」。鎌田政家(政清)は義朝の郎党だが、義朝とともに、舅の長田忠致に討たれた。幸若舞に「鎌田」という曲があると知って、また少し調べたくなった。
知多四国八十八ヶ所の霊場だけあって、ほかにも数組の参拝客が来ていた。客殿で大御堂寺と野間大坊、二ヶ所のご朱印をいただける。これで、私のご朱印帖は、昨年末から、六波羅蜜寺→元八幡宮(鎌倉)→白旗神社(鎌倉)→蓮華王院・三十三間堂→法住寺→熱田神宮→大御堂寺→野間大坊という並び。平家、源氏、院が入り混じって、にぎやかでよろしい。
なお、客殿の納経所で授与いただける「ぼけ封じ」や「トイレのお札」はともかくとして、「おふろのお札」は買って帰っても、風呂場で暗殺された義朝がチラついて、怖くて張っておけないと思うのだが…どうなの?!
駅へ戻る途は、雨が上がって、少し歩きやすくなった。濡れた靴も新幹線の中でなんとか乾いたのに、東京に帰ったら大雪でびっくり。
前日(2013/1/13)の続き。朝から京都を発って、名古屋に向かう予定にしていたが、その前に、もう一回、寺町四条下ルの浄教寺に寄ってみる。すると、さすがお寺さんは朝が早くて、門が開いていた。境内の車の背後に見える石碑に「内大臣平重盛公之碑」という文字が、なんとか読めた。
三連休最終日は、京都も名古屋も冷たい雨。名古屋市博物館で『古事記1300年 大須観音展』を見る(これは別稿)。その後、大須観音にお参りすることも考えたが、今回は割愛。
■熱田神宮(名古屋市熱田区)
記憶を探ると、20年くらい前に一度来て以来である。今回は、源頼朝の母・由良御前(大宮司・藤原季範の娘)のゆかりで訪ねてみた。
宝物館で、新春特別展・創祀千九百年記念『熱田神宮名宝展』(2013年1月1日~29日)を見ていく。刀剣類が多くて、しかも非常に美しい。そうか、ここは草薙の剣がご神体だったな、と迂闊にもようやく気づく。あらためてWikiで「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」について読んでみたら、いろいろ面白かった。結局、現在の所在については諸説あるのかー。
そして、ますます強まる雨に心くじけそうになりながら、せっかくここまで来たので、神宮前駅から名鉄に乗車、次の訪問予定地へ。
■野間大坊(知多郡美浜町)
名鉄特急で約1時間。知多半島を走る知多新線の終点の1つ手前が野間駅である。ここが平治の乱で敗れた源義朝の終焉の地と伝えられ、大御堂寺(野間大坊)には義朝の墓所が営まれている。駅前はこんな感じ。見事に何もない。
折りたたみ傘を風に吹きあおられ、枯れた田野を眺めながらトボトボ歩いていくと、10分ほどで、少し人家の密集した集落に着いた。山門の正面が大御堂寺の本堂。左に客殿があり、知多四国八十八ヶ所では、本堂が大御堂寺(50番札所)、客殿が野間大坊(51番札所)とされている。
また、本堂の右手にあるのが、源義朝公の墓所。多数の小太刀(木刀)が供えられている。奥に小さく見えている立札は「鎌田政家夫妻之墓」。鎌田政家(政清)は義朝の郎党だが、義朝とともに、舅の長田忠致に討たれた。幸若舞に「鎌田」という曲があると知って、また少し調べたくなった。
知多四国八十八ヶ所の霊場だけあって、ほかにも数組の参拝客が来ていた。客殿で大御堂寺と野間大坊、二ヶ所のご朱印をいただける。これで、私のご朱印帖は、昨年末から、六波羅蜜寺→元八幡宮(鎌倉)→白旗神社(鎌倉)→蓮華王院・三十三間堂→法住寺→熱田神宮→大御堂寺→野間大坊という並び。平家、源氏、院が入り混じって、にぎやかでよろしい。
なお、客殿の納経所で授与いただける「ぼけ封じ」や「トイレのお札」はともかくとして、「おふろのお札」は買って帰っても、風呂場で暗殺された義朝がチラついて、怖くて張っておけないと思うのだが…どうなの?!
駅へ戻る途は、雨が上がって、少し歩きやすくなった。濡れた靴も新幹線の中でなんとか乾いたのに、東京に帰ったら大雪でびっくり。