○森達也『アは「愛国」のア』 潮出版社 2014.9
オビの「売国奴vsネトウヨ 大激論、勃発!」というのは、下品な売り言葉だなあと思いながら、ぱらぱらページをめくってみると、「メディアは在日に支配されている」「歴代の日本政府はひたすら韓国にも中国にも謝ってきた」など、うんざりする発言が次々に飛び込んできた。
本書は、映画監督の森達也さんが、尖閣・竹島・靖国・従軍慰安婦・死刑制度・捕鯨・原発などをテーマに、6人の若者(匿名の一般人)と語り合ったもの。私は森さんの発言には一定の共感を持っているが、こんな幼い対論者につきあいたくないなあ、と、はじめ読むのを躊躇した。しかし、私がこの種の「ネトウヨ」発言にうんざりしているのと同じくらい、彼らも、私たち旧世代の自虐発言にうんざりしているに違いない。誰だって自分と異なる意見には耳を塞ぎたいのだ。しかし、それではどこまで行っても平行線である。ここはひとつ、大人の度量で「理解できない若者」のいうことを聞いてみようと思って読み始めた。
司会者(このひともけっこう発言する)を挟んで、森さんと対論する6人は、雑誌編集者のAさん、会社員のBさん、森さんが大学のゼミで教えている学生のC君とD君、契約社員のEさんと紹介されている。Aさんは、いちばん森さんに共感的で、的確な応答を返している。やや年長の印象で、あとのほうで創価学会員だと分かる。Bさんは、前半で典型的な「ネトウヨ」発言を繰り返しているので、最後にどうなるのか、変心するのかしないのか、興味深く注目していたが、最後のほうは発言が減ってしまい、帰趨は分からなかった。実際に発言が減ったのか、編集のせいなのか不明だが、この長時間討論の感想を、いちばん聞いてみたい登場人物である。C君、D君は、素直で初々しく、森先生にやや遠慮していた印象。Eさんは安倍首相を評価しているが、Bさんほど露骨に「在日」「中韓」への嫌悪は見せない。
私は森達也さんの発言は、どれも好きだ。「『日本ばかりを批判している森達也は売国奴』ってよく言われるけど、僕だって、中国や韓国はずいぶん行きすぎていると感じます。ではなぜ森は日本を批判するのか? 日本人だからです」と断じて、Bさんが「はい? ちょっと意味が分からないんですが」とリアクションしているのに、思わず笑ってしまった。いや、ほんとに分からないんだろうな。そして、理解不能な人間が現れたとき、自分の認識の幅を広げて(再構築して)、相手を理解しようとつとめる習慣を持たないのは何故なんだろう。
森さんとBさんが再び激しく応酬するのは、死刑制度をめぐって。被害者遺族の「犯人を殺してやりたい」という心情を思えば死刑は存続すべきだというBさんを、森さんが論駁していく。やはり死刑存続派のEさんが「遺族に対して冷たい」と不満をもらすと、森さんは「僕は冷血かもしれない。人です。でもあなたたちも冷血です。人はそうした生きものです」と切り返す。なんというか、こんなふうに、人間でも国家でも歴史上の事件でも、善悪をスパッと割り切ることの難しさを、彼らは先行世代から教えてもらったことがないのではないかと思う。
終盤にEさんの口から、極論に走る人たちというのは「矛盾を抱えていることの自覚」に耐えられないのではないでしょうか、という発言がある。ここでテーマとなっているのはオウム事件だが、Aさんがいみじくも、宗教だけでなく、今の日中・日韓関係に引き付けた発言をし、司会者が、政治にしろ宗教にしろ「自分と違うものは排除するという潔癖性が度を越したところに」諍(いさか)いが生まれる、と引き取っている。強く同意だ。
討論の後のあとがきならぬ「モノローグ」で、森達也さんは、今の日本社会に起きている現象を「保守化」「右傾化」ではなく「集団化」と呼んでいる。何か思想的な支柱があって集まるのではなくて、とりあえず「集団」を形成するために、敵や異物を作り出す。どうやら日本社会にこの伝統が根強いことには、少し自覚的であったほうがいい。
集団化の圧力(同調圧力)に屈しないために必要なのは、ひとつはメディアリテラシーである。あ、マスメディアに「誤報」はあるけど、めったに「嘘」はつかない、という森さんの言葉は書き留めておこう。一方でメディアが「報道しないこと」というのは常にあるので、それらをどう見つけ出すかは重要な課題である。教育の責任も重い。中韓との歴史問題も、左翼教師は「謝れ」と言い、保守派は「謝る必要はない」というが、どちらにしても「過去に何があったのか」を教えてこなかった点では同罪ではないか、という指摘が途中にあった。
オビの「売国奴vsネトウヨ 大激論、勃発!」というのは、下品な売り言葉だなあと思いながら、ぱらぱらページをめくってみると、「メディアは在日に支配されている」「歴代の日本政府はひたすら韓国にも中国にも謝ってきた」など、うんざりする発言が次々に飛び込んできた。
本書は、映画監督の森達也さんが、尖閣・竹島・靖国・従軍慰安婦・死刑制度・捕鯨・原発などをテーマに、6人の若者(匿名の一般人)と語り合ったもの。私は森さんの発言には一定の共感を持っているが、こんな幼い対論者につきあいたくないなあ、と、はじめ読むのを躊躇した。しかし、私がこの種の「ネトウヨ」発言にうんざりしているのと同じくらい、彼らも、私たち旧世代の自虐発言にうんざりしているに違いない。誰だって自分と異なる意見には耳を塞ぎたいのだ。しかし、それではどこまで行っても平行線である。ここはひとつ、大人の度量で「理解できない若者」のいうことを聞いてみようと思って読み始めた。
司会者(このひともけっこう発言する)を挟んで、森さんと対論する6人は、雑誌編集者のAさん、会社員のBさん、森さんが大学のゼミで教えている学生のC君とD君、契約社員のEさんと紹介されている。Aさんは、いちばん森さんに共感的で、的確な応答を返している。やや年長の印象で、あとのほうで創価学会員だと分かる。Bさんは、前半で典型的な「ネトウヨ」発言を繰り返しているので、最後にどうなるのか、変心するのかしないのか、興味深く注目していたが、最後のほうは発言が減ってしまい、帰趨は分からなかった。実際に発言が減ったのか、編集のせいなのか不明だが、この長時間討論の感想を、いちばん聞いてみたい登場人物である。C君、D君は、素直で初々しく、森先生にやや遠慮していた印象。Eさんは安倍首相を評価しているが、Bさんほど露骨に「在日」「中韓」への嫌悪は見せない。
私は森達也さんの発言は、どれも好きだ。「『日本ばかりを批判している森達也は売国奴』ってよく言われるけど、僕だって、中国や韓国はずいぶん行きすぎていると感じます。ではなぜ森は日本を批判するのか? 日本人だからです」と断じて、Bさんが「はい? ちょっと意味が分からないんですが」とリアクションしているのに、思わず笑ってしまった。いや、ほんとに分からないんだろうな。そして、理解不能な人間が現れたとき、自分の認識の幅を広げて(再構築して)、相手を理解しようとつとめる習慣を持たないのは何故なんだろう。
森さんとBさんが再び激しく応酬するのは、死刑制度をめぐって。被害者遺族の「犯人を殺してやりたい」という心情を思えば死刑は存続すべきだというBさんを、森さんが論駁していく。やはり死刑存続派のEさんが「遺族に対して冷たい」と不満をもらすと、森さんは「僕は冷血かもしれない。人です。でもあなたたちも冷血です。人はそうした生きものです」と切り返す。なんというか、こんなふうに、人間でも国家でも歴史上の事件でも、善悪をスパッと割り切ることの難しさを、彼らは先行世代から教えてもらったことがないのではないかと思う。
終盤にEさんの口から、極論に走る人たちというのは「矛盾を抱えていることの自覚」に耐えられないのではないでしょうか、という発言がある。ここでテーマとなっているのはオウム事件だが、Aさんがいみじくも、宗教だけでなく、今の日中・日韓関係に引き付けた発言をし、司会者が、政治にしろ宗教にしろ「自分と違うものは排除するという潔癖性が度を越したところに」諍(いさか)いが生まれる、と引き取っている。強く同意だ。
討論の後のあとがきならぬ「モノローグ」で、森達也さんは、今の日本社会に起きている現象を「保守化」「右傾化」ではなく「集団化」と呼んでいる。何か思想的な支柱があって集まるのではなくて、とりあえず「集団」を形成するために、敵や異物を作り出す。どうやら日本社会にこの伝統が根強いことには、少し自覚的であったほうがいい。
集団化の圧力(同調圧力)に屈しないために必要なのは、ひとつはメディアリテラシーである。あ、マスメディアに「誤報」はあるけど、めったに「嘘」はつかない、という森さんの言葉は書き留めておこう。一方でメディアが「報道しないこと」というのは常にあるので、それらをどう見つけ出すかは重要な課題である。教育の責任も重い。中韓との歴史問題も、左翼教師は「謝れ」と言い、保守派は「謝る必要はない」というが、どちらにしても「過去に何があったのか」を教えてこなかった点では同罪ではないか、という指摘が途中にあった。