○四国第81番霊場 別格本山 綾松山 白峯寺(香川県坂出市)
むかしから、なぜか上田秋成『雨月物語』の「白峯」が好きだった。物語の舞台がどこなのか、登場人物の崇徳院や西行法師が歴史上に実在した人物かどうかさえ分かっていない頃から、あの物語が好きだった。それに加えて、2012年の大河ドラマ『平清盛』に影響されたことも否めないが、より直接には、昨年、馬琴の『椿説弓張月』の現代語全訳を読んだことが、参拝のきっかけになった。
(以下ネタばれ。)物語の最終章、琉球統一を成し遂げた為朝は神仙となって昇天する。その後のある日、讃岐国白峯で崇徳院の陵を守る小者達は、身長七尺あまりの武士が御廟の柱にもたれて切腹しているのを発見し、「名のある武士にちがいない」とあわれみ合う。これに泣けてしまって、どうしても今すぐ白峯寺に行ってみたくなったのだ。
三連休の2日目(日曜日)の朝、愛媛県美術館で『四国へんろ展・愛媛編』を見たあと、特急「いしづち」で松山を後にした。坂出駅で下車し、タクシーを利用する。ものすごく標高の高い山の中腹までタクシーは上がっていく。白峯寺自体は、鬱蒼とした木立の奥に隠れていて、あまり眺望はよくないが、途中の車窓は絶景だった。
山門前の駐車場で「帰りもタクシー使うのなら、メーター切って待ってるよ。参拝、30分くらいでしょ」と運転手さんがいうので、そうしてもらう。駅前に戻ってもお客は少なそうだった。
1週間後の9/21(日)は崇徳天皇御正宸祭、しかも今年は「崇徳天皇850年御忌法要・開創1200年記念法要」が予定されているので、境内はその飾りつけで慌ただしげだった。正面の護摩堂に参拝して、三種の御朱印をいただいた。四国霊場81番の千手観音と、奥の院の毘沙門天、最後のひとつが崇徳院を祀る「頓証寺殿」の朱印で、墨書は「十一面観音」だと思われる。朱印を書いてくれたお坊さん(?)が唖然とするくらいこわもてで、読み方を聞けなかった。ついでにいうと、日付を入れてくれていないことにも気づいたが、何も言えなかった。ただし、ネットで画像検索してみると、四国霊場のご朱印には日付が入っていないものが多い。そういう習慣なのかしら。
↑崇徳院の御廟所「頓証寺殿」の勅額門。後小松天皇が「頓証寺」の勅額を奉納した。門の脇に、錆びた解説版が立っていて、「通例の寺院の門と異なり、保元の乱で上皇方の将として戦った源為義・為朝父子の像が随身として安置され保元の昔を偲ばせている」(坂出市教育委員会 昭和52年)と結ばれているが、残念ながら、源為義・為朝父子の像は現存しない(記念法要の日に開く宝物館にはあるのかも)。脳内で復元してみると楽しい。
↑頓証寺殿の清らかな参道。ここを為朝の霊魂の切腹の場と想像してみた。
↑頓証寺殿の本殿。向かって左(天狗のいる方)から「白峯大権現」「崇徳天皇」「十一面観音」の額を掲げる。十一面観音は崇徳院の御念持仏と伝える。天狗の石像は「当山鎮守相模坊大権現」とパンフレットに説明があった。
↑頓証寺殿の左奥にまわると、崇徳院御陵(白峯陵)の遥拝所になっている。木立の奥に見える柵の奥がたぶん御陵。
このあと、本堂まで石段を登って、十二支守り本尊と七福神に詣でた。駐車場に戻るまで、タクシーの運転手さんが言った通り、だいたい30分強。「じゃ、行こうか」と気安い運転手さんに促されて、車が出発してすぐ、御陵の正面に出る参道の入口が見えた。しまった、こっちから近づけたんだ、と思ったが、あっという間に遠ざかってしまった。ううむ、ちょっと心残りである。
坂出駅~白峯寺は、タクシーで片道3,300円くらい。決して安くはない。タクシーの運転手さんが、白峯寺より少し上に「かんぽの宿」があると言っていたので、調べたら、1日2便だが送迎バスを運行している。次回はここに泊まれば、徒歩10分ほど下って白峯寺に行けそうだ。坂出~岡山の「岡山ライナー」が、けっこう頻繁に往復していることも分かったし、再訪を期したい。
この日は、岡山経由、京都泊。崇徳院さんにとっては千里の道よりも遠かったであろう京都に、その日のうちに到着し、ホテルを目指してたまたま乗った市バスが、京都大学熊野寮の前、つまり保元の乱で崇徳上皇方の拠点となった「白河北殿」の故地を通りかかったときは、感慨深いのを通り越して、ドキリとしてしまった。
明日は京都国立博物館へ!
むかしから、なぜか上田秋成『雨月物語』の「白峯」が好きだった。物語の舞台がどこなのか、登場人物の崇徳院や西行法師が歴史上に実在した人物かどうかさえ分かっていない頃から、あの物語が好きだった。それに加えて、2012年の大河ドラマ『平清盛』に影響されたことも否めないが、より直接には、昨年、馬琴の『椿説弓張月』の現代語全訳を読んだことが、参拝のきっかけになった。
(以下ネタばれ。)物語の最終章、琉球統一を成し遂げた為朝は神仙となって昇天する。その後のある日、讃岐国白峯で崇徳院の陵を守る小者達は、身長七尺あまりの武士が御廟の柱にもたれて切腹しているのを発見し、「名のある武士にちがいない」とあわれみ合う。これに泣けてしまって、どうしても今すぐ白峯寺に行ってみたくなったのだ。
三連休の2日目(日曜日)の朝、愛媛県美術館で『四国へんろ展・愛媛編』を見たあと、特急「いしづち」で松山を後にした。坂出駅で下車し、タクシーを利用する。ものすごく標高の高い山の中腹までタクシーは上がっていく。白峯寺自体は、鬱蒼とした木立の奥に隠れていて、あまり眺望はよくないが、途中の車窓は絶景だった。
山門前の駐車場で「帰りもタクシー使うのなら、メーター切って待ってるよ。参拝、30分くらいでしょ」と運転手さんがいうので、そうしてもらう。駅前に戻ってもお客は少なそうだった。
1週間後の9/21(日)は崇徳天皇御正宸祭、しかも今年は「崇徳天皇850年御忌法要・開創1200年記念法要」が予定されているので、境内はその飾りつけで慌ただしげだった。正面の護摩堂に参拝して、三種の御朱印をいただいた。四国霊場81番の千手観音と、奥の院の毘沙門天、最後のひとつが崇徳院を祀る「頓証寺殿」の朱印で、墨書は「十一面観音」だと思われる。朱印を書いてくれたお坊さん(?)が唖然とするくらいこわもてで、読み方を聞けなかった。ついでにいうと、日付を入れてくれていないことにも気づいたが、何も言えなかった。ただし、ネットで画像検索してみると、四国霊場のご朱印には日付が入っていないものが多い。そういう習慣なのかしら。
↑崇徳院の御廟所「頓証寺殿」の勅額門。後小松天皇が「頓証寺」の勅額を奉納した。門の脇に、錆びた解説版が立っていて、「通例の寺院の門と異なり、保元の乱で上皇方の将として戦った源為義・為朝父子の像が随身として安置され保元の昔を偲ばせている」(坂出市教育委員会 昭和52年)と結ばれているが、残念ながら、源為義・為朝父子の像は現存しない(記念法要の日に開く宝物館にはあるのかも)。脳内で復元してみると楽しい。
↑頓証寺殿の清らかな参道。ここを為朝の霊魂の切腹の場と想像してみた。
↑頓証寺殿の本殿。向かって左(天狗のいる方)から「白峯大権現」「崇徳天皇」「十一面観音」の額を掲げる。十一面観音は崇徳院の御念持仏と伝える。天狗の石像は「当山鎮守相模坊大権現」とパンフレットに説明があった。
↑頓証寺殿の左奥にまわると、崇徳院御陵(白峯陵)の遥拝所になっている。木立の奥に見える柵の奥がたぶん御陵。
このあと、本堂まで石段を登って、十二支守り本尊と七福神に詣でた。駐車場に戻るまで、タクシーの運転手さんが言った通り、だいたい30分強。「じゃ、行こうか」と気安い運転手さんに促されて、車が出発してすぐ、御陵の正面に出る参道の入口が見えた。しまった、こっちから近づけたんだ、と思ったが、あっという間に遠ざかってしまった。ううむ、ちょっと心残りである。
坂出駅~白峯寺は、タクシーで片道3,300円くらい。決して安くはない。タクシーの運転手さんが、白峯寺より少し上に「かんぽの宿」があると言っていたので、調べたら、1日2便だが送迎バスを運行している。次回はここに泊まれば、徒歩10分ほど下って白峯寺に行けそうだ。坂出~岡山の「岡山ライナー」が、けっこう頻繁に往復していることも分かったし、再訪を期したい。
この日は、岡山経由、京都泊。崇徳院さんにとっては千里の道よりも遠かったであろう京都に、その日のうちに到着し、ホテルを目指してたまたま乗った市バスが、京都大学熊野寮の前、つまり保元の乱で崇徳上皇方の拠点となった「白河北殿」の故地を通りかかったときは、感慨深いのを通り越して、ドキリとしてしまった。
明日は京都国立博物館へ!